神道(しんとう)は、日本の宗教。山や川などの自然や自然現象、また神話に残る祖霊たる神、怨念を残して死んだ者などを敬い、それらに八百万の神を見いだす多神教。自然と神とは一体的に認識され、神と人間とを取り結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。神道は古代日本に起源を辿ることができるとされる宗教である。宗教名の多くは日本語では何教と呼称するが、宗教名は神教ではなく「神道」である。伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した。また、日本国家の形成に影響を与えたとされている宗教である。 神道には確定した教祖、創始者がおらず、キリスト教の聖書、イスラム教のコーランにあたるような公式に定められた「正典」も存在しないとされるが、『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『宣命』といった「神典」と称される古典群が神道の聖典とされている。森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊をまつり、祭祀を重視する。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目とする。他宗教と比べて現世主義的といった特徴がみられる。神道とは森羅万象を神々の体現として享受する「惟神の道(かんながらのみち、神と共にあるの意)」であるといわれる。教えや内実は神社と祭りの中に伝えられている。『五箇条の御誓文』や、よく知られている童歌〔わらべうた〕『通りゃんせ』など、日本社会の広範囲に渡って神道の影響が見受けられる。神道は奈良時代以降の長い間、仏教信仰と混淆し一つの宗教体系として再構成されてきた(神仏習合)。一方で伊勢神宮のように早くから神仏分離して神事のみを行ってきた神社もある。明治時代には天皇を中心とした国民統合をはかるため、全ての神社で神仏分離が行われた。神道と仏教の違いについては、神道は地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教はおもに個人の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する。神道は日本国内で約85,000の神社が登録され約1億600万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁)には記載があるが、支持者は神社側の自己申告に基づく数字であり、地域住民をすべて氏子とみなす例、初詣の参拝者も信徒数に含める例、御守りや御札等の呪具の売上数や頒布数から算出した想定信徒数を計算に入れる例があるためである。このため、日本人の7割程度が無信仰を自称するという多くの調査結果とは矛盾する。神道は、以上のような分類をすることができるが、今日、単に「神道」といった場合には神社神道を指すことが多い。また、何に重きを置くかによって「祭り型」「教え型」という分け方も提唱されている。以上のように分けられる。なお、陰陽道系の土御門神道は上記の家元神道の一つではあるが、教え型とも祭り型とも決められるものではない。神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念である。このためキリスト教、仏教のような開祖が存在せず、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている。「神道」という名称については「かんながらの道(神道)」と言う意味である。中国の『易経』や『晋書』の中にみえる神道は「神(あや)しき道」と言う意味であり、これは日本の神道観念とは性質が異なる別個のものである。同様のケースに、卑弥呼の時代の宗教感に対し鬼道という表現がなされるが、これは当時の中国における鬼道が異国の諸宗教に対して用いられていたことからも、日本での呼称とは全くの別物であることが分かる。日本における「神道」という言葉の初見は『日本書紀』の用明天皇紀にある「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」であるが、このように外来の宗教である仏教と対になる日本固有の信仰を指したものだった。解釈は多様であり、仏教や儒教に対して日本独自の宗教を神道とする説、稲作の様な自然の理法に従う営みを指して神道とする説などがある。明治20年代(19世紀末)になると、西欧近代的な宗教概念が日本でも輸入され、宗教としての「神道」の語も定着し始め、同30年代(20世紀初)には宗教学が本格的に導入され、学問上でも「神道」の語が確立した。もともと、神道にはイエス・キリストや釈迦のようなカリスマ的創唱者が存在しなかった。政権による土着の民俗信仰との支配的な祭政一致がおこなわれた神道が教義を言語で統一的に定着させなかったのは、古代より「神ながら 事挙げせぬ国」だったからであるとも言われている。そのため、外来諸教と融合しやすい性格を有することになったともいう。神道のような土着の民俗信仰と宗派宗教の併存例は世界各地でみられるものであるが、その多様性は特異なものである。実際には、仏教公伝の当初から、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で抗争もあった。中世には、伊勢神道をはじめとして、吉田神道などの諸派が反本地垂迹説など複雑な教理の大系をつくりあげてゆく。近世後期には、平田篤胤がキリスト教の最後の審判の観念の影響を受けた幽明審判思想を唱えたり、その門人等が天之御中主神を創造神とする単一神教的な観念を展開するなど、近代に連なる教理の展開を遂げた。また、近世以降の儒家神道も勢力はさほどではなかったものの、そこで主張された名分論は各神道説に影響を与え、尊王攘夷思想を広めるとともに討幕の国民的原理ともなっていった。近代には神道事務局祭神論争という熾烈な教理闘争もあったが、結局は、政府も神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したため、大日本帝国憲法によって信教の自由が認められた。もっとも、それには欧米列強に対して日本が近代国家であることをあきらかにしなければならないという事情もあった。神道は多神教だが、祖霊崇拝性が強い。1881年の神道事務局祭神論争における明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利の後、天照大神が最高の神格を得たが、敗北した出雲派的なものが未だに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い。気象、地理地形等の自然現象に始まりあらゆる事象に「神」の存在を認める。いわゆる「八百万の神々」である。アイヌの信仰にも共通点があり、アイヌ語の「カムイ」と「神(かみ)」という語の関係も深いと考えられている。詳細は神道における神を参照のこと。また、生前業績があった人物を、没後神社を建てて神として祀る風習なども認められる(人神)。自然を感じ取り、そのもののままでは厳しい自然の中で、人間として文化的な生活を営むのにふさわしい環境と状態を、自然との調和に配慮しながらバランスを取り調節して行き、人民生活を見回って、生活する為の知恵や知識のヒントを与えたり、少し手伝ってあげたり、体や物を借りた時や何かやって貰った時などには少しお礼をしたり。それが、日本の「神(かみ)」がやっていた仕事の一つである。日本人にとって「神」は、とても身近な存在であった。日本の神は地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」であるが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る」性格も持っている(荒魂・和魂)。このように神は自然神から人格神へ、精霊的な神から理性的神へ、恐ろしい神から貴い神へ、進化発展があったと捉えることが出来る。人間も死後神になるという考え方があり、社会的に突出した人物や、地域社会に貢献した人物、国民や国のために働いた人物、国家に反逆し戦乱を起こした人物、不遇な晩年を過ごし死後怨霊として祟りをなした人物なども、「神」として神社に祭られ、多くの人々の崇敬を集めることがある。平安時代以前より出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく、『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる。鎌倉時代には伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った。そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。一方で、本居宣長が江戸期には解読不能に陥っていた『古事記』の解読に成功し、国学の源流を形成していった。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派のはたしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している。。神道の成立期については諸説出されている。主な説として次の四説があげられている。その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄。。戦前は、学校の教科書などに、「神」についての認識の仕方の説明が載っていた。尋常小学校の歴史や修身の教科書などには、少年少女向けの歴史物語として、神話の説明が記載されている。神話の世界はとても人間的な世界で、そこには「神」と「人」を隔てる断絶は存在しない。神もまた、人間のように仕事をし、生活をしている。昭和8年の『少年國史物語』では、「神代の物語」の項目に、「どこの國でも大昔の事ははつきりとは分らないものだが」と前置きをして、神代の事から始まる日本の歴史についての、以下の説明がある。「神代といふのは、我が國の大昔に相當の身分であつた方たちを後の世の人が尊敬して、すべて神として崇めてゐるところから、その方たちの時代を指してさう呼んでゐるのである。」神道に属する神々を祭神とする社を神社(じんじゃ)といい、全国の神社の大部分は神社本庁が統括している。なお、神社本庁は「庁」と称しているが、行政機関ではなく宗教法人の一つである。宮中祭祀に見られるように、皇室と神道は歴史的事実として密接なかかわりを持つことが上げられる。また、神道の信仰の対象としての天皇とその祖先神の存在がある。多くの日本国民が仏教と神道の習慣と信仰を両立させているように、皇室も神道の祭祀と仏教の行事を共に行っていた。皇室の神道色が強まったのは、朝廷の復権を志向して光格天皇が行った宮中祭祀の復活によってであり、それまではむしろ仏教色が強かった。明治天皇の代で行われた神仏分離や神道国教化に伴い、仏教と皇室の直接的な関係は薄れたが、皇室菩提寺であった泉涌寺と宮内省の特別な関係は日本国憲法施行時まで続いた。以下は一般的な参拝の流れである。神社によっては作法が異なることがある。多くの場合、その旨の表示がある。参拝を行う日は毎月1日と15日がよいとされる。参拝する前に、本来は神の前に向かう前に心身を清める禊が必要である。これは神が「穢れ」を嫌うとされることによるが、現代であれば、一般参拝では入浴・シャワーなどで身体を清潔にしてから参拝する心がけが望ましい。神社に到着し、鳥居をくぐる際は「一揖(身体を45度折り曲げる会釈)」するのが望ましい。このときには服装もきちんと整えるようにする。次に手水舎にて手水を使い、手口を洗う。これは拍手と祝詞を行なう手口(さらには心)を清める意味合いを持つ、一つの禊である。手水の作法としては、なお、巫女の補助がつく場合には、作法は巫女の指示にしたがうようにする。手水を使い終わったら拝礼をおこなうために参道を通り神前へと向かうが、その際に参道の中央は避けて歩くことが望ましい。これは参道の中央が「正中」と呼ばれ、神の通る道とされていることによるもの。神前ではまず神への供物として(供物を捧げる他にお祓いの意味もあるといわれる)賽銭箱に賽銭を奉納する。次に賽銭箱の近くにある鈴鐘を鳴らすが、これには邪気を払う、清らかな音色で神を呼び寄せて参拝に訪れたことを神に告げる、参拝者を敬虔な気持ちにするとともに神霊の発動を願うなどの意味合いがあるとされる。鈴鐘を鳴らした後に拝礼をおこなう。拝礼の基本的な作法は「二拝二拍手一拝」である。すなわち、というもの。二拝二拍手一拝の前後に一揖を行うとより望ましい。祈願を行う場合は二拍手と一拝の間に居住地および氏名と願い事を(声に出して、あるいは心の中で)陳べるのが一般的となっている。また、お礼を述べたい場合も同様である。かつて、拝礼の作法は各神社によってさまざまだったが、現在の二拝二拍手一拝に統一されたのは明治期の神仏分離によるものである。現在でも一部の神社では作法が異なっており、例えば、出雲大社や宇佐八幡宮、彌彦神社では「四拍手」である。伊勢神宮での神事では「八度拝、八開手」となっている。
出典:wikipedia
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