MSX(エム・エス・エックス)とは、1983年に米マイクロソフトとアスキー(現・KADOKAWA アスキー・メディアワークス)によって提唱された8ビット・16ビットのパソコンの共通規格の名称であり、MSXとその後継規格であるMSX2(1985年)、MSX2+(1988年)、MSXturboR(1990年)の総称でもある。最初のMSXを便宜上「MSX1」、「初代MSX」と呼ぶこともある。MSXturboRでは16ビットのCPUを採用した。複数のメーカーからMSXの仕様に沿って作られたパソコンが発売された。また、各種MSXエミュレーターとMSX2をFPGAで再構成したハードウェアである1チップMSX等が存在する。一連のMSX規格には以下が存在する。また上記の規格を元にした以下のMSX動作環境も存在する。開発年順に記す。MSXに賛同したメーカーには「メーカーコード」と呼ばれるIDが割り振られていた。メーカーコードを付与され1980年代から1990年代にかけてハードを製造した企業を以下にメーカーコード順に記す。1980年代初頭、日本国内におけるホビーユースのパーソナルコンピューター(ホビーパソコン)では主にマイクロソフト社のBASICインタープリタがROMで組み込まれ、システムの中心を担っていた。しかし、ハードウェアの設計は同じプロセッサを用いても各々のシステムは大きく異なり、BASICレベルの互換性も、二次記憶装置の取り扱いやフォーマット・ハードウェアの仕様、性能の差異や拡張によって独自の変更が加えられ、俗にBASICの「方言」と呼ばれる非互換の部分が存在し、機種ごとにアプリケーションは作成・販売されていた。当時マイクロソフトの極東担当副社長であり、アスキーの副社長だった西和彦は大半の機種の開発に関わっていたことから、多くのメーカーと繋がりがあった。そのため、日本電気 (NEC) ・シャープ・富士通のパソコン御三家に対して出遅れた家電メーカーの大同団結を背景として、西が主導権を握る形でMSX規格は考案され、1983年6月27日に発表された。ハードウェア規格はスペクトラビデオ社の「」と「」が参考にされている。当初、マイクロソフト社長(当時)のビル・ゲイツは「ソフトウェアに専念すべき」との事でMSX規格には反対だったが、西に説得される形で承認。「MSX」の名称は発売当時マイクロソフトの商標だったが、1986年のアスキーとの提携解消の折に著作権をマイクロソフト、商標権(販売権)をアスキーが所有することになった。MSXの発表会には参入家電メーカー以外にも家庭用パソコン市場に参入した経験を持つ企業、または参入を計画していた企業が参加した。しかし、参入メーカー各社の足並みを揃えるため1984年に発売時期を調整している間に、任天堂のファミリーコンピュータやセガ(現:セガゲームス)SC-3000等の競合機種が発売され、苦戦が予想された。また、当時国内パソコン市場シェア1位のNECは発売せず、シャープも海外でのみ発売するに留まった。FM-Xを発売した富士通も「自社の製品と競合する」といった理由でMSX市場からは短期間で撤退。そのため、MSX規格は「弱者連合」などと揶揄された。発売は当初予定より前倒しされ、主要家電メーカーの製品は1983年の秋から年末までに出揃った。アスキーは当初「1年間で70万台の出荷」という強気な目標値を掲げ、目標は達成できなかったものの、発売から2年強が経過した1986年1月にはMSXシリーズの総出荷台数が100万台を突破した。当時、国内メーカー製の8ビットパソコン市場で大きなシェアを有していたNECのPC-8801シリーズが累計100万台キャンペーンを企画していたが、台数的に達成出来ず結果として実現しておらず、当時としてはMSXは“日本製で最も売れた8ビットパソコン”として位置づけられる。その後も1988年の年末年始商戦だけで、FDD内蔵型のMSX2(ソニーのHB-F1XDとパナソニックのFS-A1F)が22万台を売り上げを記録した。MSXは単なるパソコンとしてのみならず、当時の大人のマニア向けゲームハードという側面をもつ。時には家電品として、時には楽器として、時には当時の「ニューメディア」として分類される。それは、MSXが松下電器や日本ビクターなどのように家電品のルートで販売されたり、ヤマハや河合楽器などの楽器店のルートで販売されたり、フィリップスやNTTのキャプテンシステムのようにニューメディアと位置づけて販売されたり、主にゲーム機として利用された事による。そしてMSX参入各社は、他社製品と差別化を図るべくワープロや動画編集など様々な機能を付加したMSXパソコンを発売した。しかし大部分の購入者はMSXを単なるゲーム機としか見ておらず、高機能・高価格な機種よりも低機能・低価格な機種を購入したため、参入各社間で価格競争が勃発。また他機種のパソコンとの競争も熾烈であり、MSX2が発売された1980年代後半には16ビットや32ビットCPUを採用した、より高性能な他機種の次世代パソコンや家庭用ゲーム機との販売競争に晒された事もあり、元々参入が少なかった国外メーカーはMSX2で大半が撤退、次の規格であるMSX2+の対応機種を発売したのは日本のメーカー三社と韓国Daewooの一社のみで、ほぼ日本専用の規格となってしまった。1980年代のオランダではMSXは、コモドール社のコモドール64やシンクレア社のZX Spectrumを抑え、最も人気のあるコンピューターだった。また、欧州以外でも南米諸国や東アジア諸国、アラブ諸国、アメリカ合衆国で発売された。1990年には販売台数が全世界累計で400万台を突破。各MSX専門誌には「夢を乗せてMSX 400万台」のキャッチコピーが躍った。しかし、この頃よりMSXを取り巻く環境は急速に悪化していき、1990年10月には16ビットCPUを搭載した新規格のMSXturboRがリリースされたものの、参入メーカーは松下電器1社のみとなった。同社の機種は好調なセールスを記録し、翌1991年末にも新機種を投入したが、サードパーティーによるMSX向け商品のリリース数は減少傾向にあり、MSX専門誌は休刊や廃刊が相次ぎ、『MSX・FAN』 (徳間書店インターメディア) のみが形態を変えて細々と発刊を続けた。松下電器は1994年に家庭用ゲーム機3DO REALとIBM PC/AT互換機WOODYを発売。MSXの開発部隊は、大半が3DOの開発に移行した。同年に最後のMSX規格対応パソコンである「FS-A1GT」の生産を終了し、翌1995年には出荷も終了した。これをもって日本でのMSX規格は終焉したと世間一般では解釈されている。この時期にはMicrosoft Windows 95が登場し、PC市場を拡大してデファクトスタンダードとなりつつあった。MSX以外にもX68000やFM TOWNSといった日本独自規格のPCが姿を消して行き、日本のPC市場はWindows95が動作するPC/AT互換機およびPC-98またはその互換機か、あるいはMacintoshへと集約されていった(後にNECはPC-9800シリーズの後継機種であるPC98-NXを独自規格で開発し投入)が、その一方でMSXのコアユーザーによるハード製作などの活動が活発に行われるようになった。有志が東京、大阪、名古屋、福岡、札幌、倉敷でイベントや集いを開催したり、パソコン通信上などでは多数のフリーウェアが公開されたりした。特に漫画家の青井泰研(後に青井大地に改名)が東京で開催したイベント「MSXフェスタ」には、日本各地だけでなく海外からのユーザーも集まった。この他にもMSX復活プロジェクト(MFP)がハードディスクインターフェイスを開発するなど、最もMSXの同人の活動が盛んだったのもこの時期である。だが最終的には、それらコアユーザーの多くもWindowsなど別の環境へ移行する結果になっている。1990年代末期から顕著になったMSXコアユーザーや同人サークルによるMSX離れは、JavaやFlashなど自由度の高い環境の登場により拍車がかかっていた。その一方MSXを使い続けるユーザーも少なからず存在したが、MSXの製造・サポートの中止かつハードウェアの老朽化による消滅問題を抱え、解決策にエミュレーターやFPGAなどが用いられた。2000年8月20日、東京・秋葉原のヒロセ無線本社ビル5Fにて「MSX電遊ランド2000」が開催され、そのイベント中で西がMSXの復活計画を発表する。2002年には商標やシステムソフトウェアなどの管理を行う任意団体「MSXアソシエーション」が発足し、公式エミュレーター「MSXPLAYer」も公開された。後に従来多数のチップで構成されていたMSXの機能をひとつのチップに集積した「1chipMSX」が製品化されている。2007年、MSXの商標権は西和彦と共に『株式会社MSXライセンシングコーポレーション』へ移る。日本での商標登録番号は第2709130号ほか。2011年、ロシアのAGE Labsがコンピューターの学習を目的としたGR8BITというMSXキットの発売を発表。価格はUS$499(369ユーロ)。また、日本の株式会社H&SがこのGR8BITを輸入販売すると発表した。価格は4万2千5百円(送料/税/手数料別)。2012年3月末まで。これにより、MSXの動作環境が現代社会に復活することとなった。Windowsやマッキントッシュのほか、PSPやニンテンドーDSやゲームボーイアドバンスといった携帯型ゲーム機や、Java、Pocket PC、Wiiなど様々なプラットフォームにMSXエミュレーターは作製され現在も人気を博している。このようにMSXユーザーはシェアベースでは目立った勢力ではないが、依然として活発なユーザーが存在しており、インターネットなどのネットワーク上でMSXにまつわる様々な活動が今なお繰り広げられている。2006年、Wiiの価格発表の場で、旧来のゲームマシン・パソコンで供給されていたゲームソフトをインターネット上からダウンロード販売する「バーチャルコンソール」へのMSXソフトの投入が発表された。i-revoなどで多くのMSXゲームの復刻実績を有するD4エンタープライズが参入したことによって実現した。詳細は「バーチャルコンソール」、i-revo、D4エンタープライズの各項目を参考の事。2000年代の別の動向として、日本でもチップチューン(ゲームボーイやファミリーコンピュータ等による音楽演奏)ブームが起こった。それに伴いMSXによる音楽活動も比較的少数ではあるが再活発化した。かつて1980年代後半〜1990年代前半に、MSXを扱う雑誌の投稿コーナーやパソコン通信のフォーラムで、現在のチップチューンに相当する音楽が発表されていた時期があった。しかし発表環境の衰退や消滅により、同ブームまでの間は一時停滞していた。またエミュレータや1チップMSXの登場により、PSG・FM音源・SCC互換音源、さらにMSX-AUDIOや2個のSCC音源を同時発声させた音楽が、昔に比べ多く発表されるようになった。MSXは「子供に買い与えられる安価なパーソナルコンピューター」「コンピューターの学習に繋げられるコンピューターの入門機」として設計された。このため、単にゲームマシンとして見た場合には同時代のゲーム専用機の表現力から数段見劣りする反面、「家庭で利用しやすいホームコンピュータ」として、下記のような特徴を持っている。まず一般家庭への普及を目指すため、コンポジット映像入力対応のテレビが少なかった当時、標準の構成で家庭用テレビにRF出力が可能で、専用モニターを必要としないことは低価格でパソコンの使用環境を構築するのに有意だった。これは他の低価格帯の入門機にも見られた実装で、文字の滲みや解像度の低さなどのデメリットも存在したが、データレコーダーなどを含め、民生機器の流用によって、システム全体のコストを引き下げることを可能にした。また、当時の一般的なホビー用パソコンと同様にBASICインタープリタ(MSX-BASIC)を搭載、さらに標準装備ではないものの、MSX-DOSと呼ばれるCP/Mシステムコール互換OSも供給され、既存のCP/Mアプリケーションの多くがファイルシステムをコンバートすることによりほぼそのまま動作した。これによって、CP/M環境で整備された豊富な開発環境を利用した、アセンブリ言語や、C言語、Pascal、COBOL、FORTRAN等の各種言語の習得や開発の学習のみならず、欧文ワープロや表計算等の実務アプリケーションの実行も可能だった。このようにMSXは位置づけこそ入門機であるものの、単に子供に買い与えゲームやBASICで遊ばせる「入門機」としての側面のみではなく、その後必要に応じてシステムを拡張し、本格的なコンピューター(ソフトウェア)の学習にも繋げて行くことが可能な、総合的なホームコンピューターとして設計されている。ただし汎用性と互換性を重視した実装は、同時期のZ80をコアに据えたシステムと比較すると結果的に複雑なものとなり、ハードウェアリソースに対するアクセスは煩雑なものとなっている。これらは互換性や設計の柔軟さに寄与する反面、Z80の3.579545MHzというCPUのパフォーマンスや、スロットの実装にともなうウェイトの挿入を含む手続きによるオーバーヘッドは、パフォーマンスを落とす一つの要素でもあった。本格的なコンピュータを指向する反面、MSX1の時点では半角文字の80カラム(1行80桁)表示が不可能だった。また、漢字ROMの仕様はあったものの標準搭載機はごく限られており、漢字の表示に関しても当初は統一仕様が存在しなかった。さらにはフロッピーディスクドライブ(以下FDD)、機種によってはプリンターインターフェースさえもオプション設定で、本体の安価さから特にFDDは相対的に非常に高価なものとなり、CP/M(MSX-DOS)環境を目当てに購入するユーザーは少なかった。最大解像度そのものが低いこともあり、高解像度の画面で長時間使用する際に最低限必要となるRGB出力端子を搭載している機種も少なく、搭載されなかった機種に後から搭載することは不可能で、表現力の面でも、汎用性を割り切って専用の回路で構成されたファミリーコンピュータと比較すると劣っていた。これらのことから、日本国内ではもっぱら「中途半端な子供の玩具」として受け取られていた点は否めない。この評価はのちに、表現力を増し、FDDを搭載していれば最低仕様のままでMSX-DOSの動作も可能となるMSX2の登場によって、一時的には解消されることとなる。しかし、その後MSX2の市場は熾烈な低価格化競争に突入し、安価な一体型MSX2マシンが普及したため、最終的に「子供向け」「ゲームマシン」との見方を返上するには至らなかった。後述するような仕組みによって、メーカーを越えてハードウェア・ソフトウェア資産が利用できる統一規格であるということが特徴として挙げられる。今でいうところのオープンアーキテクチャのはしりである。これは単にCPU、VDP、メモリーマップ、I/Oマップ等のハードウェア仕様を規定するレベルに留まらず、基本的にハードウェアへの直接アクセスを禁じ、システム(BASICおよびDOS)と密接に連携したBIOSレベルでそれらが整備されることで互換性を実現している。VDPについては処理速度を得るため、システムROMの特定のアドレスに書かれている値からI/Oアドレスを確認の上、直接制御することを正式に認めている。互換性を維持しながらフレキシブルな実装を可能にするため、MSXではZ80のメモリ空間を拡張したスロットと呼ばれる仕組みによって、その互換性と拡張性を実現している。MSXには標準で4つのプライマリスロットがあり、それぞれを更に4つのセカンダリスロットに拡張が可能だった。これにより理論上は最大で16個のスロットを有しそれぞれにZ80のアドレス空間が配され、都合、64KiB×16スロット=1MiBのアドレス空間が設定されている。基本的にその空間に対し、ROM、RAM、I/Oを等価にリソースとして割り当てることになっている。このアドレス空間を、16KiBごとに区切られた「ページ」と呼ばれる領域ごとに任意に切り替えが可能である。Z80のシステムでありながら、基本的にI/Oアドレス空間は規格で規定されたもの以外直接割り当てられることはなく、ハードウェアとの入出力は、基本的にメモリーマップドI/O方式が推奨された。このため、アクセスの際にBIOSコールの時点でスロット切り換えを伴い、自動的にマッピングが変更されるためハードウェアの割り当ての競合は回避された。内蔵デバイスなど直接本体に実装されているものは例外があるものの、複数の同一ハードウェアの接続などでの競合に対応するため、I/Oアドレスを割り当てる場合でも、あらかじめ初期化処理によってI/O空間に割り当てる処理が必要になっている。スロットに接続される機器は、RAMやBASICやOSの収められたシステムROM、ゲーム等のROMカートリッジ、そして各社の独自拡張による周辺機器(ハードウェア)もこのスロットを用いて管理される。周辺機器には基本的に拡張BIOSが付随し、起動時に初期化ルーチンを呼び出されることで割り込みベクタがワークエリアに登録され、システムに自動的に組み込まれる。さらに、システムの起動後もハードウェアへのアクセスは拡張BIOSを介して行われる仕組みが整えられており、ユーザーがドライバーの組み込みや設定等の作業を行う必要は無かった。これらのスロットとBIOSで、互換性はBIOSレベルでのみ保証することによって、実際のハードウェア的な実装は各メーカーに一任され、多様化や低コスト化を可能とした。一方では高い拡張性と柔軟性を実現し、プラグ&インストール&プレイではなく文字通りのプラグ&プレイを実現できていた、歴史上ほぼ唯一と言ってよいパーソナルコンピューターでもある。物理的な拡張手段として、スロット機構に接続するコネクターが最低1基装備された。このコネクタはスロットに対して接続される機器であり、前述の通りゲームソフトやハードウェアも等価に接続され、多くの機種では差しこみ口が筐体上面や前面などに配置されていたため、他の多くのシステムのように、背面の拡張スロットで挿抜したり筐体を開けることなく。手軽に増設機器の差し替えができた。ただし、電源投入時の着脱防止機構やホットプラグは規格としては用意されていない。なお、着脱時に電源を切る機構は一部機種にあり、カートリッジが正常に装着されるとこの機構がキャンセルされ電源が入る。二次記憶装置がオプションであるハードウェアも多く、「ファミコン」等の当時一般的だったゲーム機と同様にカートリッジによるソフトウェアの供給も行われ、多くはそのソフトウェアの利用や、接続にこのコネクタは使われた。上記のように、スロットの仕組みは柔軟な運用や設計を可能にしたものの、「ページ間のアドレス空間の移動や再マッピングができない」「1つのスロットに4ページ64KiBを越える空間を配置できない」といった、Z80に由来するメモリー空間・アドレッシングに依存した制約が存在する。特にワークエリアとスタックが置かれるページ3の切り替えには若干の困難が伴い、スロットに単純にRAMページを増設するだけでは増設されたメモリーの有効な活用がやや煩雑なものとならざるを得ないという事情があった。これを改善するため、MSX2規格制定時にRAMページの拡張を行う“メモリーマッパー”が拡張規格として追加された。このメモリーマッパーを用いることで、前述のスロットによるメモリー空間の拡張にまつわる制約の多くをクリアすることができた。また、後に登場したメガROMの一部にもメモリーマッパー規格を応用し、酷似した仕様でROM空間の切り替えや拡張を行う製品が登場した。ただし、MSX-BASICはメモリ空間を前半をROM、後半をRAMに固定で割り当てその末尾に拡張用のワークエリア、フックなどを配置しているため、32KiB以上のRAMを搭載してもBASICから使用できるユーザーエリアは増えない。裏RAM、メモリマッパ上の切り替えが必要な部分については、RAMDISKなどとして使う形となっている。なお、プライマリ/セカンダリスロットは基本的には同等とされ、多くの機器はどのスロットに挿入しても規格の上では変わらず動作する。ただし、セカンダリスロットは再帰的な拡張を想定していないため、セカンダリスロット拡張を行う機器は、セカンダリスロットへの接続が出来ない。見かけは一つのカートリッジであっても、複数のデバイスを収めるために内部的にスロット拡張をしていたμ・PACKやMSX-DOS2カートリッジ、拡張スロットなどの周辺機器がこの制限にあたり、プライマリスロットへの挿入以外では動作しなかった。また、この柔軟性ゆえに、ハードウェアの構成は固定されていることは規格として規定されたもの以外は期待できず、初期化・認識処理はスロットを検索する必要があるというオーバーヘッドを伴うものとなっている。一部アプリケーションなどでは、特定の構成を期待したコードになっているためMSX2で動作しなくなったり、実際には接続されているにもかかわらず、その拡張機器を認識できないなどの非互換性につながっている。また、FDD等の「同じ種類」のハードウェアであっても、スタック領域やワークエリアなど、実装の違いから特定条件で動作しないなどの現象が発生することもあった。MSXには安価で広範なメーカーが参入できるという目標があり、「本体が5万円台で買えて、一般家庭に普通にある機器とつなげばシステムとして完成できる」事が必須だったとされる。このことからMSX1ではその構成に専用品を用いず、その時点で市場に供給されていた利用実績の豊富な既存の汎用半導体製品を採用している。これは堅実ではあるものの、仕様としては平凡なものとなった。また、当時の主だったパソコンが高解像度化を求められていた中にあって、最大でも256×192ドットの解像度だったことと合わせて「先進的でない」と批判する意見もあった。日本向けのMSXでは、半角(1Byte文字)カタカナだけでなく、ひらがなの表示も可能だった事も特徴としてあげられる。これにより、MSXは漢字ROMなしでもカタカナとひらがなの使い分けが可能だった。また、特定の漢字(日月火水木金土・大中小・年時分秒・百千万円)は罫線などと共に半角記号(グラフィック文字)の中に入れられていた(海外向けMSXではアクセント記号付きアルファベットとなる)。また、MSXで半角ひらがなに割り当てられていたコード領域は、現在のSHIFT JISコードで使用されている。他にもテキストフォントをROMとして固定していないため、テキスト画面をPCGとして利用することが可能になっている。SCREEN0〜2,4では全ての文字形状をユーザーが自由に定義して使うことが出来る。BASICにコマンドは無いものの、SCREEN1・2・4ではVDPの設定を直接変更することによって、形状のみではなく、1ライン当たり2色のカラー指定したフォントも利用可能である。その他のコネクタ類としては、アタリのゲーム機と同様のポートを2ボタン仕様に拡張した汎用の9ピンコネクターが搭載され、主にジョイパッドやマウスの接続用に使われた。また、オプションでセントロニクス仕様の14ピンプリンターインターフェースも搭載された。汎用的な仕様のコネクタを採用したことは、のちに電子工作の接続・制御用途として重宝された。上記のスロットコネクターに関しては、電子部品を扱う店で電子工作用の汎用基板が入手できた。キーボード配列にはJIS配列と50音順配列(かな配列)の両方が規格にあり、ソフトでモードを切り替えることもできた。なおキーボードはパラレル入力で、同時押しもできたが、一部のキー以外にはダイナミックスキャンの回りこみ防止用のダイオードが入っていない(全部のキーにダイオードが入っていた機種があったかは不明)。なお、規格の上では、いくつかの特定の組み合わせを除いて、3つ以上のキーが同時に押下された場合の入力の整合性は保証されていない。また、セパレートタイプキーボードの規定は無いため、キーボードのコネクタは統一されていない。MSX仕様に準拠したハードウェアとソフトウェアにはMSXのロゴマークが付与された。このMSXマークで「MSXで動く」と分かるように、ホームビデオのVHSを参考に発案・デザインされた。以後、MSX2、MSX2+、MSXturboRとMSXがバージョンアップする度にロゴは作られて、MSX2からは起動画面にMSXロゴが表示されるようになった。公式MSXエミュレーターの「MSXPLAYer」でもMSXのロゴは踏襲された。デザインは全て西が元になるアイデアを出している。このロゴマークのついたMSX仕様のソフトウェアを発売する際にロイヤルティーは不要。これはMSX発表当時、対抗規格を打ち出して来た日本ソフトバンク(現ソフトバンク)の孫正義と西和彦のトップ会談によって決定されたものである。MSXは単価が安く、またカートリッジスロットからZ80のメモリーバス、アドレスバスをそのまま引き出すことが出来るため、Z80の付随回路としてシンプルに設計でき、拡張や工作が容易である。80系/Z80系の環境では標準とも言えるCP/M互換のMSX-DOSという原始的なOSや開発環境も整っており、既存のCP/M環境やMS-DOS環境からのクロス開発も容易だったため、組み込み用や制御用にも多く流用されていた。一部の市販ビデオタイトラーやビデオテックス(キャプテン)システム、また公共施設等に設置されたビデオ端末や簡易ゲーム機などにもMSXを流用したハードウェアが内蔵され、稼動していた例も少なくない。特にビデオタイトラーでは、ソニーのXV-J550/J770/T55Fシリーズや松下電器産業のVW-KT300などの家庭用タイトラーのハードウェア構成は明らかにMSXを応用・流用したものである。ただし、これらの機種では基本はMSXシステムをベースとしていても独自の実装がなされており、特にBIOSなどは大幅に簡略化されMSXとしての機能は望めないなど、簡単な加工程度では汎用のMSXシステムとして使うことは不可能である。それらのMSXベースのタイトラーは安価なビデオタイトラーとしてはかなり普及していた時期があり、一時期は企業VPや解説ビデオやインディーズAVなどの小規模なビデオ関連の作品などにはMSXの漢字ROMフォントとまったく同じフォントを用いたテロップを多く見かけることが出来た。これらのビデオ作品は一部では2009年現在でも流通している。MSX向けの主要な商用パソコン通信サービスとしては、1986年12月からアスキーが運営したアスキーネットMSX、および松下グループ(現パナソニックグループ)系のネットワーク企業・日本テレネットが運営するTHE LINKS(ザ・リンクス)がある。アスキーネットMSXは、MSXを所有していることが使用の条件だったが、実際に使えるマシンはMSXに限らなかった。NHK学園のパソコンの通信講座で使われたこともあった。対してTHE LINKSはMSX専用だった。画像通信やゲーム配信をサポートした独特のサービスで、対応機種をMSXに限定、モデムも専用ソフト搭載のカートリッジのみとする事で、他のパソコン通信サービスにはないカラフルなコンテンツの提供や画像配信、動くメールなども実現していた。MSXによる日本語表現の特徴の一つである半角ひらがなやグラフィック文字はJISの規格外で、機種によって全く別のキャラクタが定義されており、MSXに限らず多機種混在のパソコン通信では使わないのが常識となっていたが、THE LINKSはその逆にJISやシフトJISの2bytes文字の日本語は書き込むことができず、1byteのMSX文字でコミュニケーションを取ることになっていた。THE LINKSのためだけの専用通信ソフトが必要で、通信ソフトが内蔵されたTHE LINKS専用モデムカートリッジがあった他、松下電器産業のモデムカートリッジに通信ソフトが内蔵されていた。当初は通信速度300bpsのモデムカートリッジが発売され、後には1200bpsの物も出た。MSXturboRが発売された時期にはパソコン通信も9600bpsを超える速度のモデムが一般化し、MSXでもRS-232CカートリッジとPCモデムを使用するユーザーが増えた。MSX2の中には本体に1200bpsモデムを搭載した、通信パソコンと称される機種もいくつか存在する。それ以外にもPC-VANやNIFTY-ServeにMSXに関係するSIGやフォーラムが設けられた。また、MSXの話題を扱う草の根BBSが全国に開設されており、MSX専門誌が休刊し、商業的にMSXが衰退した後は同人活動とともにパソコン通信での活動によって培われたコミュニティーがMSXを支えた。パソコン通信で発表されたフリーソフトウェアは、MSX専門誌のMSX・FANに付録ディスクに収録されたり、ソフトの自動販売機TAKERUで販売されたりもした。その他にMSXを用いたネットワークサービスには、囲碁のネット対戦「GO-NET」や株式投資などがあった。通信ソフトにはアスキーからMSX-TERMが発売されたが性能の悪さからあまり使用されず、フリーソフトウェアのmabTermやRAETERMや松戸タームが使われた。MSX向けのネット運営用ホストプログラムはMSXマガジンが開発した「網元さん」やMHRVなどが多く用いられた。MSXはMSX2の次のバージョンはMSX2+、MSXturboRという規格名となり、MSX3が発表されることはなかった。しかし、アスキーにはMSX3の計画が存在していたことが、後に公開された資料や証言で明らかになっている。MSX2が発表された1985年前後には、Z80互換の16bitCPUのZ280、VDPはV9948、音源はMSX-AUDIO(Y8950)という内容でMSX3が計画されていたという資料が存在している。別の証言では、コードネームはTryX、CPUはZ80互換の高速CPU、VDPにはV9978かV9998とナンバリングされたVDPが予定されていたが、VDPの開発の遅れから高速CPUであるR800のみがMSXturboRに搭載されたとされる。1980年代当時パソコンは、一般への普及を標榜していたため、テレビCMや雑誌・新聞広告に知名度の高い芸能人やキャラクターを起用する事が多かった。MSXも多分に漏れず、数々のキャラクターでのCMを展開していた。MSXの400万台以上の販売台数のうち、約半分が日本、残りの半分は海外での販売である。当時のホビー用パソコンにはBASICインタープリタをROMで搭載することが一般的であり、MSXでもこれを踏襲する一方、MSX-DOSと呼ばれるCP/M互換OSも供給され、既存のCP/Mアプリケーションの多くがほぼそのまま動作する等、アセンブリ言語やC、Pascal等を用いた本格的なソフトウェアの学習・開発や、豊富なCP/Mアプリケーションを用いた実務なども可能だった。このように、MSXは単に子供に買い与えゲームやBASICで遊ばせる「入門機」としての側面のみではなく、その後本格的なコンピューター(ソフトウェア)の学習にも繋げて行くことが可能な、総合的なホームコンピューターとして設計されている。また、2bytesで処理し表示にも高解像度が必要な漢字を使う日本とは異なり、アルファベットを使う諸国ではMSX1の表示能力でも十分という事情もあった。またグラフィックチップのTMS9918を搭載するなどのハードウェア構成がゲーム機のコレコビジョンやマスターシステムとよく似ており、それらのゲームが移植しやすかった。こうした点が日本以外の諸国では評価され、普及に繋がることとなった。MSXは日本国内のみならず、オランダ、ブラジル、韓国を中心に現地企業でも生産され、他の国にも輸出された。日本でパソコン御三家に対して出遅れた家電メーカーがMSXに参入したのと同様に、ブラジルのグラジエンテやオランダのフィリップスといった、Apple IIやZX Spectrumに対して出遅れた現地の大手家電メーカーがMSX規格に頼らざるを得なかったという事情もあり、MSXに注力したこれら大手企業の影響力が強い諸国ではそれなりに普及した。また、ファミコンなど日本製の高性能なゲーム機が進出していなかった地域ではその代わりとなるハードが必要だったという事情もある。北米のホームコンピューターのマーケットは既にコモドールなどが低価格競争を繰り広げていたため、スペクトラビデオとヤマハのMSXのみ発売されたがほとんどシェアを獲得できず、現地企業として唯一MSXに参加したスペクトラビデオも倒産の憂き目にあった。MSXが発売された1984年の時点で価格帯やスペック的に直接的な競合製品となったのはコモドールPlus/4とコモドール16であるが、同時期に初代MSXのスペックを遥かに上回る上位機種のコモドール64やAtari 8ビット・コンピュータなどが低価格競争に突入し急速に普及したため、ZX Spectrumやコモドール16など同時期の諸外国でエントリークラスとされたパソコン自体がそれほど普及しなかった。学校などで使われる「教育用コンピュータ」としても既にApple IIが存在したため普及しなかった。欧州では当時コモドール64とシンクレアZX Spectrumがシェアを二分していた。欧州全体ではMSXとほぼ同じスペックで値段が安かったイギリス産のZX Spectrumの方が人気が高く、特にシンクレア社の地元イギリス、コモドールとアタリが強かったドイツなどではほとんど売れなかった。一方で、フィリップス社の地元オランダのほか、イタリア、スペインでは人気があった。しかしこれらの国でも、1985年発売のコモドールAmigaとAtari STにMSX2は対抗できず、1980年代末にかけて衰退していった。マイクロソフト社員として欧州でのMSX2の普及に携わったトム佐藤は、欧州における初代MSXの失敗の理由として「アスキーの世界戦略の欠如」「英語版のマニュアルの出来が悪いなどのサポートの悪さ」などを理由に挙げており、また自身が中心となってソニー・フィリップス・アスキー・マイクロソフトの4社による共同普及体制をまとめ上げたはずのMSX2が失敗した理由として「プラザ合意による円高」「ビル・ゲイツと西和彦の関係悪化によるアスキーとマイクロソフトの提携解消」「アスキー上層部でも対立があった」などを理由に挙げている。トム佐藤は1985年9月のベルリン・ファンケスターラング見本市(IFA)で大きな反響を呼んだMSX2の発表会がMSXのピークだったとしている。イギリスではZX Spectrumの人気が非常に高く、MSXは東芝の現地法人が大きな宣伝をかけたわりにほとんど売れなかった。現地企業の社が参入を表明していたが、「」として知られるプロトタイプ機がいくつか作られたのみで、発売前に倒産した。MSXはZX SpectrumとCPUが同じだったため、ZX Spectrum用ソフトのベタ移植と言う形でMSX用ソフトもそれなりに発売されているが、MSXではバンク切り替えやキーバインドなどメーカーごとの細かい差異を考慮する必要があり、さらにゲームを移植する際にはMSXのVRAMの遅さが致命的であり、特殊な技術(を参照)を必要とした。規格としてはメモリ16Kだったものの現実にはメモリ48Kが標準だったZX Spectrumに対し、MSXにはメモリがたった8KBのCasio PV-7が現実に存在したことも悪い意味で大きかった。ヨーロッパでMSXの最低ラインとなったフィリップス VG 8000もメモリが16KBしかなく、しかもフィリップスの初期シリーズは正規のMSXであるにもかかわらず互換性問題が発生した。オランダでは現地企業であるフィリップス社がMSX機を販売していた。MSXは当時オランダで最も人気のあるパソコンであり、世界的にもユーザーベースで考えた場合に日本に次ぐ第2の市場となった。MSX専門誌の「MSX Computer Club Magazine」の定期刊行は1995年12月/1996年1月号まで続き、これは日本のMSX・FANよりも長い。MSXの商業的な活動が終息した後、1990年代以降の同人ベースでの活動、また2000年代以降のwebベースでの活動も活発であり、世界のMSX情報の集積地となっているwebサイト「MSX Resource Center」もオランダのサイトである。スペインではリリースされたMSX用ソフトの数が日本に次いで多く、ソフトウェアベースで考えた場合には日本に次ぐ第2の市場となった。リリースされたソフトはほとんどがゲームで、ほかに実用ソフトも販売されており、ワープロなどを含んだ統合GUI環境の「EASE」まで存在していた。EASEはフィリップス社製MSX2機に標準添付されたため、オランダやイタリアでも愛用者が多かった。スペインのMSX市場は1985年に最盛期を迎え、MSX専門誌が3誌も販売されていたが、1980年代末にかけて衰退していった。MSXの商業的な活動が終息した1989年以降は同人による活動が活発になり、やはり多くのゲームがリリースされたが、著作権的に問題のある移植ものが多い。webでは2002年設立の同人ゲームサークルが母体となった Karoshi MSX がコミュニティの総本山にあたり、2003年から開催されている欧州のMSX1用インディーズゲームコンテストの MSXdev を2011年より引き継いで主宰している。韓国でMSXは三星電子、金星電子、大宇電子、と複数の現地大手メーカーから発売され、Apple IIとシェアを二分する成功を収めた。三星電子と金星電子は早期に撤退し、MSX2は大宇電子のみが発売した。FDDも周辺機器として発売されたが、当時としてはかなり高価だったためにあまり普及しなかった。ただしMSX発売当時の韓国はコンピュータプログラムに対する法的保護がなかったことから、コンピュータショップではROMゲームを手数料程度でFDにコピーするサービスを行っており、それらの恩恵を受けるために高額なFDDを買う需要が多少あった。ゲームマシンとしても利用され、MSXソフトが動作するもののキーボードがないなどMSX仕様を満たさない大宇電子のZemmixという家庭用ゲーム機も発売されている。1990年代には三星電子のメガドライブ互換機や金星電子の3DO互換機なども発売されたが、高価な次世代機に移行できない層の存在と、Zemmixの普及率から、旧世代機であるZemmixの市場が長く併存したことにより、大宇電子は1995年までZemmixを販売し続け、日本国外の製品としては唯一MSX2+規格に対応したゲーム機Zemmix Turboまでも発売している。ブラジルでは現地大手家電メーカーのグラジエンテと、シャープのブラジル法人シャープ・ド・ブラジルが1986年頃より製造販売した。Atari 2600の代理店からMSX機の販売に切り替えた経緯があるグラジエンテを始めとして、シャープもMSXをパソコンというより安価なゲーム機の代替品として捉えていたようで、MSX2規格の発表以後にも関わらず初代MSXしか販売されなかった。ブラジルでは国内産業保護のために海外製ハード・ソフトの輸入に法外な関税をかけて事実上禁止する法律があるため(ライセンスを得て現地生産することで関税を回避できる。または密輸か違法コピー)、当地で流通したゲームは全て国内製、販売されたMSX機は上記の現地大手家電メーカー2社によるものだけだったが、テレビCMを含む積極的なキャンペーンの結果、MSXは発売から2年で10万台、トータルで40万台の大ヒットとなった。初代MSXが普及し専門誌による情報交換も盛んだったブラジルではユーザーコミュニティがMSX2の発売を切望していたが、シャープは1988年にMSXから撤退。グラジエンテも1990年にはMSXから撤退し、以降はMSX2ではなくファミコンを販売した。そのため、サードパーティからMSX2相当にパワーアップする製品などが発売され、ユーザーコミュニティによる自主制作も盛んとなった。それなりの知識があれば、各種アップグレードパーツを用いてMSX2用のメガROMのゲームを日本と同様にプレイすることが可能だった。5.25インチフロッピーディスクを流通媒体とする独特の同人文化も発達した。アルゼンチンでは地元メーカーのテレマティカが1984年にDaewoo MSX DPC-200をベースにしたTalent MSX DPC-200を発売。他にはスペクトラビデオやグラジエンテ、東芝の製品もわずかながら販売された。MSXはアルゼンチンで非常に成功したが、これは「教育用コンピューター」として学校教育で国家レベルで導入されたことによる。学校教育の中でMSX-LOGO言語が教えられていた。テレマティカが1987年に発売したMSX2 TPC-310はコマーシャルで「ターボ」のキャッチコピーを売りにしていたが、あくまでキャッチコピー上の文句だけで、実際は普通のMSX2機である。アルゼンチンでのMSXの販売は1990年に終息した。アラブ諸国ではクウェートの大手SIであるAl Alamiahが日本からヤマハのMSX機を輸入しており、子会社のSakhr社によってアラビア語のローカライズを行い販売していた。このように、韓国向けではハングル、アラブ諸国向けにアラビア文字を使えるなど、現地向けに仕様をローカライズすることが可能だった。Sakhr AX330はファミコンとMSXの複合機、Sakhr AX660とSakhr AX990はメガドライブとMSXの複合機であるが、アル・アラミアはMSXのライセンスを得ていないため、ハードの詳細は不明である。パソコンとゲーム機の複合機はテラドライブなど他に例があるが、1993年に発売されたSakhr AX990がMSX2以降ではなく初代MSXとの複合機なのは、MSXマガジンでも「謎」としている。ソ連などの旧共産圏などでMSXは学校などに多数納入され、初等教育の現場でも応用されていた。ただし当時の東側諸国は市場経済が導入されておらず、庶民がパソコンを気軽に購入・利用できる時代ではなかった(ゲームも含めて「国家が人民に供給する」という形態をとる)ため、西側諸国とは違ってあくまで教育用途がメインである。と言うのが表向きだが、実際は多くの東側諸国で日本を含む西側諸国のパソコンがパソコンとして存在しており、その流通には不明な点が多い。旧東側諸国全体では、MSXよりもソ連や東ドイツの国営メーカーなどが独自に解析して国産機と化したZX Spectrum互換機の人気が高かったが、一方ソ連ではMSX機も普及し、国営メーカーが独自に解析して国産機としたMSX互換機のなどが存在した(これについては、独自開発したICを使っているため互換性は低い)。なお、東ドイツにはKC 85、ソ連にはなどの独自開発機もあり、西側の製品にばかり頼っていたわけではない。冷戦終了前後にはMSX機が東側で正式に販売され、ビデオタイトラーやラベリング機などとして利用された。市場が開放された時期は国によって違うが、例えばソ連でパソコンが正式に発売されるのはゴルバチョフ政権による1988年の協同組合(コーポラティヴ)解禁以降となる。冷戦時代、西側諸国ではコンピューターを含む電子機器の輸出を対共産圏輸出統制委員会(ココム)で制限しており、ソビエト連邦を中心とする共産圏の国々では16ビット以上の高性能コンピューターを西側から輸入することが出来なかった。そのため、規制対象外とされていた8ビット機を大量に輸入し、またコピーして使用していた。機種は用途に応じてよく選別されていた。これらの中にはMSXも含まれており、特にロシアやキューバでは国家の教育プログラムで大々的に導入された。その拡張性や互換性などが評価された結果、学校教育のみならず各分野で応用された。教育用には独自に簡易ネットワークシステムまで構築して利用していた例もある。ソ連では1985年に学校へのコンピュータ導入プロジェクト「」、略称:(KUVT)が開始され、ヤマハのMSX機をベースとする教育用ネットワークシステムが「」として各学校に構築された。ヤマハの機種を用いたシステムとしては、YIS 805R(先生側)とYIS 503IIR(生徒側)が採用されたと、YIS 128R(先生側)とYIS 503IIIR(生徒側)が採用されたが存在する。それぞれ、ただの輸入機ではなく、ロシア語キーボードを搭載したソ連専用モデルである。1986年度のでは国産機のが採用されるなど、すぐに輸入機から国産機に切り替わったため、YISの採用数は1万5千台程度とされる。教育映画の『』(1986年)では、教育の一環として教師の監督の元『イーアルカンフー』や『けっきょく南極大冒険』を楽しそうにプレイする子供たちの姿が描かれている。ソ連の軌道宇宙船ミールでも、MSX2規格の動画編集機であるソニーHB-G900APと見られる機材が設置されており、1990年12月のTBS宇宙プロジェクト『日本人初!宇宙へ』にて撮影されたビデオの編集に使用されていたことがスポンサーであるソニーの技術情報誌の特集記事として掲載された。音楽制作ではYAMAHA CX-5が良く使われ、はソ連初のテクノアルバム『パルス1』(1985年)を制作している。これは体操用の音楽としてロシア文化省の要請により制作されたものである。アンドレイ・ロジオノフはMSX用ゲームも制作してリリースしているが、こちらも教育用としてロシア文化省と防衛省の要請によって作られたもので、パッケージにはその旨の記載がある。国産ハードにも影響を与え、はMSX-BASIC互換のインタプリタを搭載している。キューバでは東芝とパナソニックのMSXが1985年に学校教育で採用され、"Intelligent keyboards"の名称で呼ばれた。ただしパソコンの一般への販売は禁止されていた。MSXは音源としてPSG(AY-3-8910相当品)を持っていた。1983年当初はそれでも十分だったが、他のゲーム機やパソコンが音源機能を強化する中、MSXにも対抗上各種ミュージックシステムが開発された。これらインテリジェントなものや、スロットに差し込むハードウェアはコストが高く、規定のシリアルデータとしての信号を生成できれば演奏は可能であるため、汎用インターフェイス等を利用したMIDI出力の方法並びに実装がユーザによって行われている。MSX規格のもの、MSX向けのもののみ※すべて創刊時は月刊、毎月8日発売なお、MSX発売メーカーの機種の専門誌としては他にOh!FM・Oh!PASOPIAがあるが、どちらもMSXは発売時に紹介された程度の扱いしかされていない。これら以外にも、ユーザーにより自主制作されたものも存在する。
出典:wikipedia
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