LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

後藤孝志

後藤 孝志(ごとう こうじ、1969年5月14日 - )は、愛知県一宮市出身の元プロ野球選手、野球指導者。本名及び1991年までの登録名は後藤 孝次(読み同じ)。守備位置は内野手(三塁手・一塁手)及び外野手。2014年度より巨人の育成コーチ、2015年度より二軍内野守備走塁コーチ、2016年度より三軍外野守備走塁コーチを務める。小学校では捕手として近藤真市とバッテリーを組んだ。中京高校で1987年に甲子園大会に出場。高校通算33本塁打。地元が愛知県なので、子供向けファンクラブ「少年ドラゴンズ」の会員だったほどの大の中日ドラゴンズファン。子供の頃からよくナゴヤ球場に観戦に行っていた。高校生の時、巨人に入団した槙原寛己に「名古屋の裏切り者」と大声でヤジを飛ばし、自身が巨人に入団した際、槙原が後藤の声を聞いた時「よくもナゴヤ球場で、裏切り者!とヤジを飛ばしやがって」といういきさつを『関口宏の東京フレンドパークII』で公表した。中日の応援歌である「燃えよドラゴンズ!」は最新版まで歌えるが、巨人の応援歌『闘魂こめて』は「全く歌えない」と、『東京フレンドパークII』で槙原に暴露されている。ドラゴンズの選手の呼び方はたとえ年下であっても「…選手」と丁寧。実兄の後藤篤は高校野球の監督を務め、豊田大谷高校監督時代には甲子園出場経験がある。その時の主力選手に古木克明がいた。1987年のドラフト2位で読売ジャイアンツに入団。入団当時の背番号は50。名字の(ごとう)に掛かっていたこともあり気に入っていた。また、入団当時の目標は「原辰徳選手と一緒にスタメンに入ること」であり、この目標は原引退の年に達成されている。原は後藤の仲人でもある。入団後3年間は2軍生活が続いた。1991年に1軍初出場。同年は17試合に出場し、3安打を放った。1992年は再び1軍出場なしに終わった。1993年は2年ぶりに1軍出場を果たすが、4試合しか出場できず、1安打も打てなかった。1994年は20試合に出場したが、控えでの出場ばかりでこの年も安打を打てなかった。1995年は代打などで出場機会を増やし、51試合の出場ながら打率.343を記録し、プロ初本塁打を含む4本塁打をマークした。1996年は59試合に出場し、打率.285とこの年も打撃がよかった。またプロ入りしてから初めて打席数が100を超えた。1997年は更に出場機会を増やし、80試合に出場した。1998年は打率が.250を下回るなど不調に苦しんだ一年となったが、自身初となる100試合出場を果たし、104試合に出場した。1999年7月10日、東京ドームでの広島東洋カープ戦で3球連続して自打球を当てたことがある。その日の実況と解説は日本テレビの今井伊佐男アナウンサーと中畑清であり、2球目が当たった際にベンチの味方選手が笑っていたのを見て「笑えませんよ」などと言っていたが、3球目が当たった際は2人とも笑ってしまっていた。このシーンはその年の珍プレーにも取り上げられた。同年は自己最多の112試合に出場し、ガッツ溢れる勝負強い打撃のほか、内外野どこでも守れたため重宝された。2000年は94試合に出場し、チーム3年ぶりのリーグ優勝に貢献した。2001年は前年より出場機会を減らし、66試合の出場に終わった。2002年はシーズンでの成績は、86試合の出場で打率.233と精彩を欠いてしまったが、西武ライオンズとの日本シリーズ第4戦で松坂大輔からダメ押しとなるタイムリー三塁打を放ち、チームの日本一に大きく貢献した。松坂からはオープン戦でホームランを打っており、相性が良かった。2003年は9回に数多く起用され決勝本塁打や同点タイムリーを放つなど活躍し、「ミスター9回」または「9回の男」の異名が付いた。73試合の出場ながら、打率.283と前年より復調した。2004年は新監督に堀内恒夫が就任した。この年は68試合に出場するもこれまでのような打撃が残せず、打率.208と不本意な成績で終わってしまった。2005年はスコアボードの表記は「後藤孝」となった。これは同シーズン開幕直前に西武から移籍してきた後藤光貴がいたためである。なお、後藤光貴はシーズン終了後に西武に復帰したため、ジャイアンツの後藤姓が存在しなくなった。この年は堀内監督の構想から完全に外れて開幕から一度も1軍出場することができず、戦力外通告を受けて現役引退を表明した。最終戦の広島戦が引退試合となり、同年初出場となった。この試合では代打の1打席のみの出場だったが凡退した。チームは初回の4失点だけで抑えたが打線が、1点しか取れず、最終戦及び引退試合を勝利で飾ることはできなかった。結局同年はこの1試合のみの出場で1994年以来の無安打で現役生活に別れを告げることとなった。現役時代は清原和博と行動を共にすることが多かったため、清原の子分と報道されることが度々あった。復帰したばかりの原辰徳監督の勧めもあり、2006年にはニューヨーク・ヤンキース、ヤンキース傘下1Aのタンパ・ヤンキースにコーチ留学した。2007年、北信越BCリーグの新潟アルビレックス・ベースボール・クラブの初代監督に就任したが、チームは最下位に終わる。いったんは来年も続投と伝えられたが、11月8日に「球団運営方針についての考え方の相違」を理由に来季の契約を結ばないことが球団から発表された。2008年からは、J SPORTS野球解説者かたわら、幼児を中心とした野球スクール「TOKYO GUTS」を設立し子供達に野球を伝えている。コーチ陣には巨人時代の同僚である原俊介(2006年引退)や十川孝富(2007年引退)らがいる。2012年2月、東海大学野球部の臨時コーチに就任。2013年2月、ヤンキースのキャンプで7年ぶりに特別コーチに就任。キャンプ終了後は、1Aスタテンアイランド・ヤンキースのコーチに就任する予定と報じられた。2013年11月、読売巨人軍の二軍育成コーチに就任。2014年10月、読売巨人軍の二軍内野守備走塁コーチに就任。4月28日に、「侍ジャパン大学日本代表 対 NPB選抜」のNPB選抜コーチを務める事が発表された。2015年10月、2016年度から巨人に新設される三軍の外野守備走塁コーチに就任。ほか、1991年は失策3。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。