シネマコンプレックス () は、同一の施設に複数のスクリーンがある映画館である。シネコン、複合映画館とも呼ばれる。モデルは北米発祥のマルチプレックス () またはシネプレックス () と呼ばれる映画館である。劇場構造はそれに準じた作りになっており、ロビー、チケット売場、売店、映写室等の設備を複数のスクリーンで共有している。世界的に見るとメガプレックス () と呼ばれる20スクリーン以上の例もある。アメリカカリフォルニア州のAMCオンタリオミルズ30(30スクリーン、約5700席、1996年12月13日開館)をはじめとする複数のメガプレックスがスクリーン数としては最多の30を有する。また、座席数はスペインマドリードのキネポリスマドリード(25スクリーン、約9200席)が最も多い。日本国内の場合、7 - 12スクリーン程度を1つの映画館内に集約していることが多い。これは日本では主要な配給チェーンが13しかないため、メジャー作品はおおよそ14作品以上同時に配給されない事情によるものである。各スクリーンの客席数は80 - 500席程度で、大小組み合わせることが多く、集客力の見込める作品は客席数の多いスクリーンで上映し、封切りから時間の経った作品や、集客力の落ちた作品は客席数の少ないスクリーンで上映する方式をとる。作品を抱き合わせた2 - 3本立てでの興行は通常は行われず、完全入替制を採用しているため、単一または複数の作品を退場せずに連続して見ることはできない。大抵の場合、ショッピングセンターのテナントとして運営されているか、スーパーマーケットなどが併設されている。これは、ショッピングセンターとシネマコンプレックスの双方の集客効果を狙ったものである。また、ショッピングセンターの駐車場が利用出来るため、シネマコンプレックスは車で来場する客層の取り込みに成功した。一方で、シネマコンプレックスの利用者はショッピングセンターでの購買率が低いとの調査結果もあり、相乗効果を疑問視する声もある。日本に現代型のシネマコンプレックスが登場した1990年代は、郊外に設置されることが多かったが、2000年代に入ってからは従来のロードショー館を置き換える形で繁華街に作られることも多くなってきた。シネマコンプレックスの登場に伴い、1億2千万人前後で推移していた日本の映画人口は1億6千万人以上にまで回復した。一方で、2001年以降はシネマコンプレックスが増加しているにもかかわらず、映画人口は横ばいとなっているため、飽和状態になっているとも言われている。なお、本項では慣例に基づき映画館(施設)内に設置された上映室を「スクリーン」と記述する。また、単一または複数のスクリーンを包括する映画館を「サイト」と記述する。シネマコンプレックスについて法令等での明確な定義はなく、統計や書籍によって条件が異なっている。例えば、通商産業省が1998年(平成10年)にまとめた『映像産業活性化研究会報告書』では、と定義されている。また、日本映画製作者連盟が毎年1月に発表する日本映画産業統計では、とされている。このように様々な定義があるが、おおよそ共通する条件として下記のようなものが挙げられる。なお、シネマコンプレックスという言葉自体は1980年代から使用されており、1990年代前半までは複数のスクリーンを持つことだけを条件にシネマコンプレックスとしていた。1990年代後半以降、マルチプレックスと同義とみなされるようになり、前述のような定義で使われることが多くなってきている。そのため、本項でも歴史的な記述を除きそれに従って述べる。シネマコンプレックスは前述の定義以外にも従来の劇場と比べて次のように異なる点がある。ただし、以下に挙げる事項は全てのシネマコンプレックスに当てはまるものではない。逆に、従来館でもこれらの特徴を取り入れた例もある。2009年以降、スクリーン数においてシネマコンプレックスは日本国内の映画館の8割以上を占めている。一方で、1993年のワーナー・マイカル・シネマズ海老名(現イオンシネマ海老名)の開業以降18年連続増加を続けていた日本国内のスクリーン数は、2011年には減少に転じた。1990年代において新しい手法であったシネマコンプレックスも目新しさをなくし、既に飽きられているという指摘もある。観客の映画館離れが深刻だとも言われており、商業施設の集客設備として開業していたシネマコンプレックスは曲がり角に差し掛かっている。2012年12月末現在、日本の全映画館のスクリーン数は3290。うち、シネマコンプレックスは313サイト、2765スクリーンである。日本で最も多くのスクリーンを運営する映画興行会社はイオングループ傘下の企業を統合したイオンエンターテイメントであり、同一ブランドのシネマコンプレックスとしてはイオンシネマが最も多い。一つの施設としてスクリーン数が最多なのは豊橋市のホリデイ・スクエア内にあるユナイテッド・シネマ豊橋18(旧AMCホリディ・スクエア18)で、18スクリーンを有する。シネマコンプレックスを運営する各社の資本関係は大きく変わりつつある。2009年9月30日に松竹マルチプレックスシアターズの資本から三井物産が撤退し、松竹の完全子会社になった。2011年3月1日には同社に松竹が映画興行事業を移管した。これにより9大都市ロードショー館は松竹、ローカル館は松竹マルチプレックスシアターズと言う体制から他社と同様に全国を同一会社で運営することになった。2013年2月28日にはワーナー・マイカルからタイム・ワーナーグループが資本を撤退し、イオンの完全子会社となった。同年7月1日にはワーナー・マイカルを存続会社とし同じくイオンの完全子会社であるイオンシネマズを合併し、イオンエンターテイメントとなった。また、屋号もワーナー・マイカル・シネマズからイオンシネマに変更した。日本上陸当初は多くの外資系のシネマコンプレックスが存在していたが、これにより外資系資本は全て撤退したことになる。2012年3月9日にはユナイテッド・シネマが住友商事から投資会社のアドバンテッジパートナーズ傘下のユナイテッド・エンターテインメント・ホールディングス株式会社(以下、UEH)に売却された。2013年3月29日には角川シネプレックス株式会社が同じくUEHに売却され、同年6月1日にユナイテッド・シネマ株式会社を存続法人として合併した。これにより、ユナイテッド・シネマはイオンエンターテイメント、TOHOシネマズに続く第3位のスクリーン数を持つ興行会社となった。ユナイテッド・シネマはその後2014年8月にローソンがグループ内でプレイガイド(ローソンチケット)やCD・DVDソフト販売店(HMV)を運営しているローソンHMVエンタテイメントの子会社を通じて株式を取得し、ローソングループに入っている。2001年以降、映画人口は1億6千万から7千万人程度でほぼ横這いの状態が続いている一方で、2010年までスクリーン数が増加し続けたこともあり、各社の経営状態は厳しくなった。各社はこれに対応するためオペレーションの見直しによる人件費の削減を行なっている他、家賃の見直しも進んでいる。出店競争が激化していた時期は出店条件が吊り上がり、中小興行会社は出店出来ない状況が続いていた。一方、これらの時期に出店を進めた大手各社は固定費削減のため、2008年頃から家賃の値下げ交渉を進めた。ディベロッパー側の収益にも関わるため難しい交渉となっているが、シネマコンプレックスの初期の劇場は特に収益性が悪化しているため、場合によっては撤退も視野に入れて進めている。また、劇場の不動産自体をグループ会社が所有する企業にとってこの施策は不動産事業の収益悪化にもつながるため困難を極めた。この課題の解決のため、東宝の不動産経営部の専務である中川敬が2010年から2012年までTOHOシネマズの社長を兼務するなどの人事も見られた。これらの見直しや後述する設備のデジタル化を見送り従来の興行会社が撤退した映画館では、集客のためにディベロッパー自身が事業主となって経営し、興行会社に運営委託する例も現れてきた。例えば、2010年1月31日に閉館したMOVIX六甲の跡地は神戸ファッションプラザが事業主となった。オーエスが番組編成業務を受諾し、子会社のオーエス・シネブラザーズ株式会社が運営を行いシネウェーブ六甲として2010年7月31日に再開館した。また、2012年8月31日に閉館したTOHOシネマズトリアス久山の跡地はラサール不動産投資顧問株式会社が経営し、ユナイテッド・シネマが運営を受諾し2013年3月1日に再開館した。ユナイテッド・シネマは同劇場をローコストオペレーションのモデルケースとしたいとしている。しかし、これらの経営も順風ではなく、シネウェーブ六甲は2011年11月30日に閉館している。近年は前述のコスト削減のための見直しや、新たな観客獲得のための動きが見られている。また、急速にデジタルシネマが普及した。コスト削減の例としてチケット販売の自動券売機化が進んでいる。TOHOシネマズでは2012年5月から6月にかけて自動券売機の導入を本格的にすすめた。また、ユナイテッド・シネマもトリアス久山に自動券売機を5台導入し、有人窓口は設置しない方向である。これにより効率化を図るとしている。しかし、前売券の取り扱いもあるため、完全な無人化は難しいのが課題となっている。新たな観客層獲得のため、試験的に鑑賞料金を変更する動きも見られる。ワーナー・マイカルは2010年1月9日から4月9日まで海老名と釧路の2サイトで1000円均一とした。しかし、従来の契約のままだと値下げにより配収が減少する可能性がある。結果、配給契約の条件が折り合わず『ラブリーボーン』や『LIAR GAME ザ・ファイナルステージ』が上映中止となった。また、TOHOシネマズは2011年4月(一部3月)から2012年春までの予定とし、7サイトで試験的な料金変更を行った。一般料金を1500円、18歳未満を1000円に値下げする一方、シニア割引を60歳から65歳に引き上げる、レイトショーを廃止するなど、複雑な割引をやめ料金を均一化した。しかし、全国平均と比べ5%程度動員が減る結果が得られ、高校生料金は1000円と据え置いたが、それ以外は予定より早く2011年11月末に試験を中止した。その後、2013年6月1日より高校生料金を1000円とする料金変更のみ全国に広げている。また、ティ・ジョイはTOHOシネマズの試験サイトと競合する広島、鹿児島の2サイトで、2011年4月7日から翌年3月31日まで高校生料金を1500円から1000円に値下げした。上映機材のデジタル化は2010年から2012年の2年間で一気に進み、2012年12月時点で全スクリーンの88%に導入されている。デジタルシネマプロジェクターは当初、ワーナー・マイカルやティ・ジョイを中心に導入されたが、コスト負担が大きくそのペースは遅かった。しかし、現在では35mmフィルムのノンリワインド映写機から置き換わってデジタルシネマプロジェクターが主流となった。導入の進んでいたティ・ジョイは主要各社では一番早く、2010年7月までに全スクリーンへの導入を完了した。TOHOシネマズは、2011年3月17日に開館したTOHOシネマズ甲府ではデジタルシネマプロジェクターのみを設置するなどの施策をとり、2011年に全劇場のデジタル化を完了した。2012年には定期借地等、運営期間の限りがあるものや一部の小規模興行会社を除き、おおよそのシネマコンプレックスでは導入が完了している。2013年3月5日に開館したワーナー・マイカル・シネマズ春日部(現イオンシネマ春日部)のようにデジタル化により映写室を廃止した劇場も現れてきた。この背景にはバーチャル・プリント・フィー(以下、VPF)による導入スキームの変化があったことが要因として挙げられる。VPFとはVPFサービス会社が興行会社の代わりにデジタルシネマ機材の購入費用を一括支払いし、配給会社が導入費用の70%までを、興行会社が残りの30%をそれぞれ10年間かけて作品ごとまたは月ごとにVPFサービス会社に対して償還していく仕組みのことである。映画館のデジタル化により配給会社はプリント代や輸送費が削減できメリットを受ける一方、興行会社は機材入れ替えのコスト負担が大きくデメリットが大きかった。しかし、VPFの導入により興行会社の負担が軽減されたため上映機材のデジタル化が進んだ。ただし、それでも一定のコスト負担はあるため、導入を見送り閉館を選択する劇場もある。設備のデジタル化により、上映コンテンツ自体の変化も現れている。Other Digital Stuff(以下、ODS)と呼ばれる映画以外のコンテンツを上映することも増えてきた。TOHOシネマズやティ・ジョイではパブリックビューイングや舞台演劇の上映が行われている。2008年10月25日に全国上映としては日本初のフル3D実写映画『センター・オブ・ジ・アース』が公開されて以降、RealDなどのデジタル3D映画の上映も増えた。2009年公開の3D映画である『アバター』のヒットにより一気に普及に弾みがついている。ただ、2010年頃までは3D映画は一定の興行成績をあげていたが、近年の興行では期待ほどの成績をあげておらず陰りを見せている。マルチプレックスの発祥である北米では、主に1960年代から複数スクリーン化の傾向が見られた。日本でも映画館の複数スクリーン化傾向は古くからある。当初はこれらの映画館をシネマコンプレックスと呼んでいたため、いくつかの映画館が日本初のシネマコンプレックスを名乗っている。以下、シネマコンプレックスとマルチプレックスの歴史について記述する。日本では1930年代に大劇場時代が到来すると、その地下や高層スペースにもう1つの劇場を設置する映画館が現れはじめた。例えば、日本劇場の地下にニュース映画専門館として1935年12月30日に開館した第一地下劇場などがそれである。これらは当時新興勢力であった東宝の経営手法であったが、良いものは真似をするという姿勢で松竹にも取り入れられていった。だが、一般的には「1つの映画館(施設)に、スクリーンは1つ」であった。1950年代になると映画館の全盛期が到来し、映画館の新設や建て替えが多数発生した。これに伴い、「1つの施設内に、複数のスクリーンを持つ」劇場が徐々に増えてきた。また、1000席程度のスクリーンの中に壁を入れて左右に仕切ったり、1階席と2階席との間に床を入れて上下に仕切ったりすることで、複数のスクリーンに分割するケースも見られた。これらの運営システムは、個々の建物として存在する従来の映画館と変わりがない。入替制は導入しておらず、それぞれのスクリーンには独立した館名が付けられ、配給チェーンとスクリーンが固定化されており、「複数の映画館が1つの建物の中にある」状態だった。1984年3月30日に「シネマコンプレックス日本初登場」と銘打ってキネカ大森が開館する。設立した株式会社西友文化事業部によれば、欧米の映画館の動向を調査した結果、動員で上映館を入れ替えられたりインターロック上映をすることが出来たりする複合映画館の形態に行き着いたとしている。同館は流通系店舗のテナントであること、入替制を採用していることなど現在のシネマコンプレックスに近い。一方で、スクリーン数が3と少ないこと、ロードショー、名画座、アート系と言うように各スクリーンの特色を定めていることなどが、現在のシネマコンプレックスとは異なる。また、現在は上映作品の傾向からミニシアターと認識されることが多い。この時期から同館と同様に郊外のショッピングセンターに、複数のスクリーンを持つ映画館をテナントとして迎え入れるところが現れはじめた。また、シネマコンプレックスという言葉も使われはじめるようになる。他にも後年になってからではあるが、小牧コロナ会館とチネチッタが日本初のシネマコンプレックスを称している。小牧コロナ会館は、スクリーンで統一された名称が付けられていないこと、入替制が導入されていないことなどが、現在のシネマコンプレックスの概念とは異なる。なお、同館を運営するコロナグループはこの時期に同様の劇場を愛知県江南市、春日井市(1983年3月19日開館)、半田市(1986年7月26日開館)、豊川市(1989年7月15日開館)にも展開している。チネチッタは「総合映画館ビル」として開館当時のメディアには紹介されている。やはり入替制が導入されていないこと、複数フロアに渡っているためロビーなどが共有されていないことなどが、現在のシネマコンプレックスの概念とは異なる。しかし、1996年ごろから同社の企業沿革や地元自治体の広報誌などを中心にいくつかの文献で同館を「日本初のシネマ・コンプレックス」とする記述が見られるようになった。また、池袋シネマサンシャイン(現シネマサンシャイン池袋)についても、開館時の雑誌記事ではシネマ・コンプレックスと言う用語を用いて紹介しており、一部の関係者が日本初のシネマコンプレックスと見ることもあった。しかし、これも映写室などが共有されておらず、配給チェーンとスクリーンを固定化した運営を行っており、現在シネマコンプレックスと呼ばれる映画館とは異なる。さらには、シネシックスを日本初とする例も見られるが、スクリーンごとに東宝と松竹という別々の経営母体で運営されており、集客に応じてスクリーンを変更できる柔軟性がなかった。いずれにせよ、後述するマルチプレックスが日本国内に上陸する以前から、日本独自のスタイルでこれに近い形の興行形態が存在しており、当初はこれら複数スクリーンを持つ映画館をシネマコンプレックスと呼んでいた。ただ、1990年代に見られるような爆発的な普及は起こらなかった。その要因の1つとして「入場者数の改竄を懸念して同一窓口で複数作品のチケットを扱うことを配給会社が嫌っていた」とも言われるように、因習に縛られ運営システムを変えるまでには至らなかったことが挙げられる。また、当時の映画館が主に建てられていた市街地は地価が高く、収益を上げるのが難しいと考えられていた点も挙げられる。さらには、興行場法、建築基準法、消防法の3法とそれに付随する条例が現在より厳しく、スクリーンの増設がコスト的に難しかったことも挙げられる。そこで、全国興行生活衛生同業組合連合会が1990年頃からこれらの規制緩和を求め各法の所管省庁に対して働きかけを行った。その結果、1992年に規制緩和の方針が決定し、先行して1993年7月1日から東京都では建築安全条例と火災予防条例が改正されている。だが、そのころには既に旧来型のシネマコンプレックスの時代ではなく、外資系を中心とした後述のマルチプレックスの普及に一役買うことになるという皮肉な結果となった。一方、北米初の2スクリーンを持つ映画館は、1947年にカナダの首都オタワに開館した。ナット・テイラーが築20年の施設を拡張したエルジンシアターである。他にも1960年代中盤から後半にかけて2スクリーンの映画館が開館している。1965年、ジョージア州イーストポイントに開館したマーチンズ・ウェストゲート・シネマズなどが挙げられる。ナット・テイラーは、マルチプレックスの発明者とされる。後の1979年4月19日にシネプレックス・オデオンを設立し、同年中に、当時世界最大であった18スクリーンのトロント・イートン・センター・シネプレックス(2001年3月閉館)を開館している。1963年にマルチプレックスの先駆者となるアメリカン・マルチ・シネマ(現AMCシアターズ)のスタンリー・ダーウッドは各映画の上映開始時間を慎重に管理し複数スクリーンを数名で運営する方法を確立した。1960年代はテレビの普及に伴い、アメリカであっても映画人口は減少気味であった。しかし、1970年代これらマルチプレックスがショッピングセンターに併設される形で各地に展開されたことで、再び上昇に転じた。マルチプレックスがショッピングセンターでの購買につながるかどうかについては当初から疑問視する考え方もあったが、ショッピングセンターを認知させる効果があると認められ、コア施設の扱いを受けた。以来、複数スクリーンの映画館が北米では当たり前のものになり、多くの従来館は複数のスクリーンに改装されていった。複数スクリーンが1つのロビーを共有する形態であった。1スクリーンの映画館(従来館)は市場からほとんど撤退した。残った従来館は一般に、アート系映画や小規模製作の映画、映画祭などの上映に使用されている。例えば、カリフォルニア州サクラメントの市街地にあるクレストシアターなどが挙げられる。この流れはヨーロッパにも広まっていく。1972年にはアルバート・バートとローズ・クライズによって、トリオスコープハッセルト(現キネポリスハッセルト、当時3スクリーン)が開館した。現在、同サイトを経営するキネポリスはこれをヨーロッパ初のマルチプレックスとしている。また、1981年には10スクリーン(当時)を備えるキネポリスヘントが開館した。定義により異なるが、通常20スクリーン以上のマルチプレックスはメガプレックスと呼ばれる。 一般的に、世界初のメガプレックスは1988年にベルギーのブリュッセルに開館したキネポリスブリュッセル(25スクリーン、7,500席)であると考えられる。 アメリカ初のメガプレックスは1988年に改装したミシガン州グランドラピッズのスタジオ28(20スクリーン、6,000席、2008年11月23日閉館)である。1983年、イギリスではユナイテッド・シネマ・インターナショナルが設立。1985年にマルチプレックスに参入し、5年間で約1200スクリーンから1.5倍に増加させた。世界規模で展開する興行会社が次に参入を考えたのが日本市場であった。1991年10月8日、ワーナー・ブラザース・インターナショナル・シネマズはニチイと合弁で日本にワーナー・マイカルを設立する。;日本市場への各社の参入1993年4月24日神奈川県海老名市に日本初の本格的マルチプレックスであるワーナー・マイカル・シネマズ海老名が開館した。同社は北米やイギリスと同様にマルチプレックスという用語を用いていたが、日本市場では以前から存在する複数スクリーンの映画館と同様に、シネマコンプレックスと呼ばれた。そして、シネマコンプレックスの定義自体が後にマルチプレックスのことを指すようになる。そのため、現在では同館を日本初のシネマコンプレックスとすることが多い。日本国内のスクリーン数は減少傾向であったが、この1993年を底に増加に転じた。ワーナー・マイカルの進出当初は業界内では失敗するものと思われていた。従来館が既に撤退していた海老名には大きすぎる映画館だと考えられていたからである。その後開館した同社のサイトについても同様であった。しかしながら、ワーナー・マイカルは主要他社が参入する1996年までに7サイトを開館し、年商は44億円以上、1スクリーン当たりの興行収入も当時の全国平均を上回る9200万円という成功を収めた。この成功を機に外資の参入が相次ぎ、国内各社もシネマコンプレックスの建設に取りかかる。外資系のAMCエンターテインメントとユナイテッド・シネマ ・インターナショナル・ジャパン(以下、UCIジャパン)は1996年、東宝と松竹は1997年、東急レクリエーションは1998年にそれぞれ自社系列のシネマコンプレックスを開館させた。1999年にはさらにヴァージンシネマズ・ジャパンが参入し外資系シネマコンプレックスは4社に増えている。各社の出店戦略は様々であった。AMCエンターテインメントは当初九大都市ロードショー地域を中心にメガプレックスを計画していたが、後に地方都市の郊外型ショッピングセンターにも出店するようになった。UCIジャパンは地方の県庁所在地クラスの都市を中心に出店を計画していった。また、ワーナー・マイカルは親会社マイカルのショッピングセンターに併設する形で計画を進め、九大都市ロードショー地域である本牧の出店はマイカル松竹に譲り大手映画会社との摩擦を避けた。後に親会社自体が駅前再開発に参画していったため駅前立地型も増えていく。東宝グループは有楽町マリオンやシネシックスでの成功を元に、番組編成のしやすい東宝邦画系と洋画系の1・2番手の3スクリーンで組み合わせる劇場展開にこだわり続けたため出遅れた。1997年頃からこの方針を転換し、5 - 6スクリーンのシネマコンプレックスを展開しはじめたが、そのころ開館した天神東宝は当初は定員入替制の導入をしておらず立ち見を出していたり、浜大津アーカスシネマはスタジアムシートを導入しておらずフラットな床だったり、サービス面で見劣る部分があった。1998年12月5日にやっと本格的な郊外型のシネマコンプレックスとされる鯖江シネマ7を開館させたが、ワーナー・マイカルにスクリーン数で国内1位の座を明け渡し、外資系他社の買収を模索するようになる。一方、松竹は国内興行会社としてはマルチプレックスへの対応が早かった。1990年から海外情報の収集を進め、1995年4月にはマルチプレックスシアター開発委員会を設立。二条駅周辺区画整理事業用地内(現BiVi二条)への1号店進出を計画した。1996年5月には松竹マルチプレックスシアターズを設立し、2000年までに10地区100スクリーン、国内のスクリーン数が3000を越えた時点で1割に当たる300スクリーンの目標を掲げた。しかしながら、ノウハウ吸収を目的として合弁契約をしたシネマーク・インターナショナルとは開発スタンスの違いが原因で合弁契約を解消したり、競合会社の増加によりテナント契約が困難を極めたりしたため、出店計画に若干の遅れが発生した。東宝系の興行各社や松竹マルチプレックスシアターズは、新設される地方のショッピングセンターを中心に出店計画を立てていった。当時各地で開発していたイオン系のショッピングセンターも多く含まれた。逆に、ヴァージンシネマズ・ジャパンは初期に計画された名古屋ベイシティを除き、イオン系のショッピングセンターへの出店計画は行っていない。ジャスコ久御山ショッピングセンター(現イオンモール久御山)の出店決定が目前と思われていたにも関わらず、同社と同一のコンセプトで子会社のイオンシネマズを出店させたからとされる。また、後に関東、関西の駅ビルを中心に出店計画を行っていくようになった。一方、イオンシネマズは親会社のショッピングセンターに併設する形で計画を進めていった。1999年UCIは住友商事、角川書店と合弁で新法人ユナイテッド・シネマ株式会社を設立し、1999年10月1日開館のユナイテッド・シネマ岸和田以降に開館したサイトはUCIジャパンではなく同法人での運営とした。住友商事は1985年にアスミックの設立にも参画しているため、この合弁で製作・配給から興行まで関わる企業となっている。また、AMCエンターテインメントは1999年7月に日本法人の株式会社日本AMCシアターズを設立し、劇場運営を移管している。シネマコンプレックスが各地に展開していくにあたり、従来その地方で興行を行っていた企業の反発を招いたり、シネマコンプレックス間での競争が発生したりしはじめた。当時は大津市や横浜市の例に見られるように、配給会社から配給を受ける上映権を得るために争うことが多かった。しかしながら、従来は7割程度を占めていた従来館中心のロードショー館の興行収益比率がシネマコンプレックス中心のローカル館に押され、2000年には5割近くまで落ち込んでいた。このため配給会社はシネマコンプレックスにも配給を行うようになり、洋画系については2000年以降、おおよその地域ではこのような争いは見られなくなっていった。そして、大半の競合地域では、単純に集客力を争っていくようになり、後に邦画3社が従来館中心からシネマコンプレックス中心へと軸足を動かす要因にもなっていく。1999年から2001年1月の間にシネマコンプレックスは急増する。この2年1ヶ月の間に主な興行会社だけで、ワーナー・マイカルが24サイト、ユナイテッド・シネマが7サイト、松竹マルチプレックスシアターズが7サイト、東宝および東宝系の六部興行が6サイト、ヴァージンシネマズ・ジャパンが5サイトの出店をしている。これは、1998年に「大規模小売店舗立地法」が成立したため、旧法である「大規模小売店舗法」の基準で計画されたショッピングセンターが旧法の期限である2001年1月までに駆け込み出店したためである。ショッピングセンターに併設されるシネマコンプレックスは結果的に急増する形になった。2001年1月18日にはロウズ・シネプレックス・エンターテインメントが京都市二条の二条駅周辺区画整理事業用地内に出店することが京都市より発表された。外資系シネマコンプレックスとして5社目の参入だったが、同年2月15日に同社は日本の民事再生法にあたる連邦倒産法第11章を申請し破綻。参入は実現しなかった。アメリカで連邦倒産法第11章を申請したのはロウズ社だけではなかった。アメリカでは1990年代にシェア獲得のためメガプレックスの出店競争が加熱した一方、年間観客数は14億人程度と横ばいであったため、採算性が悪化していた。各社とも不採算スクリーンの閉鎖を行ったが、出店の資金負担に耐えられず1999年から2001年の間に相次いで連邦倒産法第11章を申請することになった。日本でも前述の通りシネマコンプレックスが急増していたため、先行きが不安視されるようになる。しかしながら、日本での急増の流れは一旦歯止めがかかる。AMCエンタテインメントはアメリカでの厳しい状況に対応するため、アメリカ国内への投資に集中させた。そのため、日本での出店は2000年7月8日に開館したAMCイクスピアリ16以降、全く行われなくなった。また、2001年9月14日にマイカルが民事再生法を申請、同年11月22日には会社更生法へと申請を切り替えた。この影響での神奈川県の川崎駅北口地区第3西街区(現川崎DICE)への出店など、子会社ワーナー・マイカルの複数の出店計画が白紙撤回された。このため、これ以降約3年間、同社は移転を除き新規出店を行うことはなかった。他の各社も大規模小売店舗立地法が施行されショッピングセンターの開発が減少したため、特に郊外型の出店数は落ち着くようになった。2001年以降になると、邦画3社がシネマコンプレックス中心に大きく舵を切り、郊外型に代わり大都市のロードショー館が続々シネマコンプレックスのスタイルへ変化していくことになった。京都四条河原町では京都松竹座、SY松竹京映、京都ピカデリーが2001年11月22日に閉館し、翌日MOVIX京都が開館。東京有楽町では日本劇場、日劇東宝、日劇プラザが2002年3月2日に日劇PLEX(現TOHOシネマズ日劇)に、大阪梅田の北野劇場、梅田スカラ座、梅田劇場は2002年11月23日にナビオTOHOプレックス(現TOHOシネマズ梅田)に生まれ変わっていった。一方、邦画3社がシネマコンプレックスへと舵を切ったことで、系列館として番組配給を受けていた従来館は閉館を余儀なくされる状況に追い込まれていった。例えば、2003年3月6日の札幌シネマフロンティアの開館に当たっては、帝国座会館やニコー劇場を経営していた天野興業株式会社が同年2月末で番組提携契約を打ち切られ、同年9月5日に自己破産を申請している。外資系シネマコンプレックスとの競争にさらされながらも生き残っていた従来館は、これ以降各地から姿を消していくことになった。予約システムシネマコンプレックスの場合、定員制をとっているため、見たい映画が完売して見られないと言うリスクが利用客にある。そのため、インターネット普及以前はワーナー・マイカルの一部などいくつかのシネマコンプレックスで電話予約が行われていた。しかし、映画館側の運用が煩雑で、需要が高い繁忙期に対応しきれない問題があった。このため、1997年頃までに電話予約は廃止された。代わって2002年にヴァージンシネマズ・ジャパンがインターネットチケット販売システムVitを導入したのを皮切りに、インターネットでの販売が主流になっていった。座席指定ワーナー・マイカルやAMCエンターテインメントは、座席指定を行わない定員入替制を採用していた。また、一部を指定席にし一般料金より高めの料金設定をする劇場も見られた。しかし、1996年11月にUCIジャパンが開館したOTSU7シネマは全席指定制を採用した。そのため、1998年9月26日公開の『プライベート・ライアン』からワーナー・マイカルは全席指定制を部分採用する形に切り替えた。これ以降、シネマコンプレックスでは全席指定制が主流になっていった。さらに、1999年4月23日に開館したヴァージンシネマズトリアス久山はプレミアスクリーンとして座席幅を広くし、サイドテーブルのあるシートを採用した高付加価値のスクリーンを設置した。これにより単なる全席指定制では差別化が図れなくなり、各社とも特徴のあるサービスを行うようになっていった。2003年以降になると、外資系シネマコンプレックスの撤退を引き金に業界再編がはじまる。外資系各社の攻勢でワーナー・マイカルが337スクリーンを保有していたのに対し、東宝グループは284スクリーンと劣勢に立たされていた。この状況に際し、東宝は他社の買収を模索していたとされる。2003年4月4日、野村證券の仲介により100億円でヴァージンシネマズ・ジャパンを買収し、シェアトップの座に返り咲いた。買収されたヴァージンシネマズ・ジャパンは改称しTOHOシネマズとなった。東宝は同社系列の興行会社をこれ以降再編していく。2006年10月1日に東宝直営館をTOHOシネマズに移管し、続いて2008年3月1日に東宝東日本興行、中部東宝、東宝関西興行、九州東宝をTOHOシネマズに吸収合併させた。各興行会社が運営していたTOHOプレックスをはじめとするシネマコンプレックスは、改装しTOHOシネマズのブランドに変わった。また、TOHOシネマズ高槻、浜大津アーカスシネマ、鯖江シネマ7と言った地方のサイトの一部は独立系の興行会社に事業譲渡された。2004年4月22日にはマイカルと松竹の合弁であったマイカル松竹シネマズ本牧が松竹ニューセレクトに事業譲渡されることが発表された。同年4月30日以降、同サイトは改装しMOVIX本牧として運営された。また、2004年9月にUCIが撤退し、同社保有分のユナイテッド・シネマの株式を住友商事と角川グループに売却した。さらに、2005年にはAMCエンターテインメントが撤退をする。AMCイクスピアリ16を除いた4サイトと日本法人の日本AMCシアターズが7月1日にユナイテッド・シネマに売却された。AMCイクスピアリ16は東京ディズニーリゾートを運営するオリエンタルランドと家賃を巡って係争中であったが、9月1日にそのオリエンタルランドに事業譲渡された。同サイトはデジタル3D映画システムの導入などを行い、2006年3月1日に同社の直営のシネマイクスピアリとなっている。この時期になると、大都市ロードショー館のシネマコンプレックス化が加速した。この動きの中では札幌シネマフロンティア(TOHOシネマズ、松竹、ティ・ジョイの共同経営)や、大阪の梅田ブルク7、なんばパークスシネマ(松竹、ティ・ジョイの共同経営)等、日本国内の大手映画会社による、共同経営もみられた。ただし、横浜桜木町で計画されていた共同運営の劇場開発からTOHOシネマズが撤退する事例もあり、完全に足並みがそろっているわけではない。動員もシネマコンプレックスが主体となっていった。2003年から2006年まで川崎市のチネチッタが年間観客動員数日本一に、2007年は観客動員数はMOVIXさいたま、興行収入はTOHOシネマズ六本木ヒルズが日本一になった。大規模小売店舗法の下での駆け込み出店が行われた影響もあり、大規模小売店舗立地法が施行された後、しばらくは郊外型シネマコンプレックスの出店ペースは落ち着いていた。前述の通り、大都市ロードショー館のシネマコンプレックス化はあったが、従来館の置き換えであるため、スクリーン全体としては微増であった。2000年に2524スクリーンだったものが2003年末までに2681スクリーンになっただけで、157スクリーンしか増えていない。しかし、大規模小売店舗立地法自体が郊外型ショッピングセンターの出店を行いやすい法体系であったため、2004年以降、増加傾向に拍車がかかった。さらに、2006年にまちづくり3法が改正され、郊外型ショッピングセンター新設に抑制がかけられたため、再び駆け込み出店が行われることになった。結果的に2006年には従来館も含めると3000スクリーンを突破し、2007年には3221スクリーンとなった。これは1970年頃のスクリーン数とほぼ同じである。当時の映画人口は2億5千万人程度であったが、2001年以降、映画人口は1億6千万から7千万人程度でほぼ横這いの状態が続いており、飽和状態になったとも言われる。観客数が横ばいでありながら各社の出店が続いていること、映画ソフトのレンタルやテレビでの放映までの期間が近年では短くなってきていること、インターネットによるオンデマンド配信も増えていることなど、シネマコンプレックスの経営は年々厳しくなっていった。また、後述する競合他社との差別化のための設備投資の結果、1998年頃は平均座席占有率が10.2%で経営が成り立っていたものが、2004年には14.7%まで上昇していった。結果的に、興行収入からの営業利益は4.3%しか得られていない。従来館を含めると2006年には3000スクリーンを突破しているが、3000スクリーンの経営を成立させるには1億8千万人の映画人口が必要との試算もある。このため、入場者の安定確保と共に飲食物など売店収入の増加などが鍵になるとされた。シネマコンプレックスの同士での競合商圏内での出店が増えたため、再編、閉館などの動きが見られるようになった。シネマコンプレックス間での差別化を図るため、サービスや設備の個性化が進んだ。コンテンツの差別化という点では、チェーンによる独占上映が行われた。2007年4月9日にユナイテッド・シネマと東急レクリエーションが独自の番組編成を目的に提携したことを発表し、『アドレナリン』など複数の作品が2社の劇場を中心に上映された。2007年12月20日にはティ・ジョイ、東急レクリエーション、ユナイテッド・シネマ、ワーナー・マイカル4社に拡大した「オープン・コラボレーション」という提携を発表し、『』などが4社で独占上映されることになった。顧客サービス面の差別化ではTOHOシネマズの「ママズ クラブ シアター」などが挙げられる。小さな子供を持つ親を優先にした上映回を設定し、周りの観客に気兼ねなく鑑賞できるようにした。サービス面の向上を図った結果、各地のシネマコンプレックスで導入されたサービスもある。例としてインターネット予約は各社で導入された。また、ポイントサービスはTOHOシネマズのシネマイレージをはじめ、各社とも導入を行った。一般にポイントサービスはヘビーユーザー向けの物だが、ワーナー・マイカルは「ティーポイント」と提携し、劇場であまり見ない層の集客を図っていた。しかし、2009年6月27日にこのサービスは終了した。座席幅が広かったりサイドテーブルが付いていたりする付加価値の高い座席も導入するところも増えた。TOHOシネマズでは「プレミアスクリーン」として、1スクリーンを全て高付加価値のシートとしているほか、新宿ピカデリーではプライベートルーム型で3万円の「プラチナルーム」を設置している。他にもワーナー・マイカル・シネマズ(現イオンシネマ)の「ゴールドクラス」、109シネマズの「エグゼクティブシート」、シネマメディアージュの「スーパープレミアシート」などが挙げられる。一方で、改装時に高付加価値のスクリーンを撤去する動きもある。東日本大震災後、東北、関東地方の多くの映画館が営業休止に追い込まれた。2週間以上営業休止に追い込まれた劇場は40サイト近くにのぼる。ここでは特に半年以上再開が滞ったり、休閉館したサイトについて述べる。シネマコンプレックスが国内に参入した当初は映画館の存在しない地域での設置が多かった。しかし、1997年頃から地方都市の駅前立地型が増え始め、2001年頃からは大都市ロードショー館の置き換えとしてシネマコンプレックスが設置されるようになった。「映画館数は商圏人口に比例する」と1950年代から言われており、シネマコンプレックスも例外ではない。シネマコンプレックスが併設されることが多いショッピングセンターは、およそ20 - 30kmが商圏と言われている。シネマコンプレックス自体の商圏は、かつてそれより広い50km程度と言われていた時期もあったが、近年ではショッピングセンターより狭く、車で30分程度とすることが多くなった。また、商圏人口もかつては50万人程度必要と言われていたが、近年では40万人程度にまで下げ、かつてより狭い商圏での開発が行われている。シネマコンプレックスの売り上げは、ショッピングセンターの売り上げの5%程度であり、集客力もあることから、ショッピングセンターでは破格のテナント料で誘致されてきた。例えば、ヴァージンシネマズ南大沢(現TOHOシネマズ南大沢)は20年の定期借家契約を結ぶ代わりに賃料は相場の80%程度となっている。結果的に出店競争が過熱し、競合する商圏内での設置が増えていった。2009年以降になると、シネマコンプレックスの新規開業も1桁台が続いており、落ち着きを見せている。近年は新たな出店が落ち着いてきたが、不採算サイトの撤退が見られている。また、地域活性化のための出店など新たな動きもある。
出典:wikipedia
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