中央アフリカ共和国(ちゅうおうアフリカきょうわこく、、)、通称中央アフリカは、アフリカ中央部にある国家。北東にスーダン、東に南スーダン、南にコンゴ民主共和国、南西にコンゴ共和国、西にカメルーン、北にチャドと国境を接する内陸国で、首都のバンギはウバンギ川河畔に位置している。後発開発途上国、最貧国のひとつでもある。正式名称はフランス語でRépublique centrafricaine(レピュブリック・サントラフリケーヌ)。通称Centrafrique(サントラフリック)。日本語の表記は中央アフリカ共和国。通称中央アフリカ。植民地時代の名称はウバンギ・シャリ (Oubangui-Cha-ri)。7世紀頃からチャド湖周辺地域には、(700年 - 1387年、カネム・ボルヌ帝国を参照)ややが割拠していた。アラブ人の奴隷貿易におけるサブサハラ地域の主要な奴隷供給地であったウバンギ川流域を巡って、多くのスルタン国が領有を主張した。16世紀頃からがサハラ中央部の覇者となり、(1804年 – 1808年)の影響などから19世紀には人口流入がおこり、アザンデ族、、が移住して来た。フランスの植民地化が始まるまでは、各部族が首長を中心に居住していた。1885年、ベルリン会議でベルギー王の私領地がコンゴ自由国となった。1887年、フランスはウバンギ川右岸にベルギーとの協定でを建設する。さらにフランスは1889年に前哨基地(現バンギ)を建設し、1894年、(1894年 - 1910年)がフランス領となった。1910年よりフランス領赤道アフリカ(1910年 - 1958年)と改称しウバンギ・シャリは軍政下のチャドをその一部としたが、1916年にチャドを分離した。1958年のフランス第五共和国憲法国民投票に賛成、フランス共同体内の自治共和国となり国名を中央アフリカ共和国と改称、1960年8月にフランスから独立し、ダヴィド・ダッコ (David Dacko) が中央アフリカの初代大統領に就任した。1965年12月にダッコ大統領の従兄弟で当時国軍の参謀総長だったジャン=ベデル・ボカサ中佐による軍事クーデターが起こり、ダッコ政権が転覆。1966年1月、ボカサ中佐が大統領に就任し独裁政治を始めた。1970年10月、ジャン=ベデル・ボカサ大学開校。1972年にボカサ大統領が終身大統領を宣言し1976年12月、ボカサ大統領により中央アフリカ共和国に帝政を敷くことが決定された(中央アフリカ帝国)。1977年12月4日、ボカサ大統領は約65億円(2000万ドル)という国家予算の1/4に相当する国費をつぎ込むなど、贅を尽くしたフランス風の戴冠式を行い中央アフリカ帝国初代皇帝ボカサ一世を称する。(「黒いナポレオン」)。1979年9月、ボカサ皇帝の外遊中にフランスがクーデターを仕掛けボカサ政権を転覆しフランスが介入し共和制復活、新憲法の制定や複数政党制の導入などが行われダッコ元大統領が再就任した。1981年9月1日、アンドレ・コリンバ国軍参謀総長によるクーデターが発生し、ダッコ大統領はカメルーンに亡命した。1993年の選挙でコリンバ参謀総長は落選し、アンジュ・フェリクス・パタセが大統領に就任した。しかし国内の混乱は収まらず騒乱状態となり、1998年には国際連合中央アフリカ共和国ミッション(MINURCAT)による多国籍軍の駐留が行われた。2003年、チャドのイドリス・デビ大統領や MINURCAT の支援を受けたフランソワ・ボジゼがパタセ大統領が国外にいる間に権力の掌握に成功して大統領に就任した。(2004年 - 2007年)。2012年12月、反政府武装勢力CPSK-CPJP-UFDRの連合体であるセレカが北部および東部の広域を掌握していった。翌年3月には、1月の和平合意を履行しなかったとしてボジゼ政権への攻撃を再開し、24日首都のバンギを制圧した。ボジゼ大統領は隣国コンゴ民主共和国へと脱出し中央アフリカの旧宗主国であるフランスは、バンギ空港を確保した。セレカの主導者ミシェル・ジョトディアが自ら暫定大統領に就任(軍事独裁、)し、3年後の選挙まで首相が政権を担うことになった。だが、アフリカ連合はセレカによる首都制圧を非難、加盟国に対し「結束した断固たる行動」を求めた。4月、ジョトディアはアフリカ連合の要求を受け入れ、暫定評議会を設置。ほかに候補者がいないなかで、暫定評議会から大統領に選出された。8月、宣誓式が行われ正式にジョトディアが大統領に就任した。ジョトディア大統領は、中央アフリカの歴史上初めてのイスラム教徒の大統領であった。2013年9月にはジョトディア大統領によりセレカの解散が行われたが、単に非合法化されただけで武装組織そのものは温存された。一般市民への弾圧や新たに登場したキリスト教系武装組織、アンチバラカなどとの抗争は続き、次第に国内は無政府状態に近い状況に陥った。首都のバンギでも、イスラム教とキリスト教の対立が激化していった。数百人規模の死者が出る状態となったため、2013年の後半には旧宗主国のフランスやアフリカ連合の治安維持を目的とした派遣軍の軍事介入を受けた。2014年1月10日、混乱を収拾するためにジョトディア大統領とチャンガイ首相が辞任した。2014年2月には、評議会内の選挙によりカトリーヌ・サンバ=パンザが大統領に選出され、キリスト教徒の立場から国内融和に乗り出した。2014年2月、国際刑事裁判所(ICC)の検察官が政治的な混乱の中で行われた人道に対する罪の予備調査を開始、同年4月10日、国連安全保障理事会は中央アフリカにおいて、国外から派遣軍を倍増させる11,800人規模の平和維持活動部隊(PKO)を発足させる決議案を全会一致で採択。フランス軍に事実上の指揮権を与えた。中央アフリカは共和制、大統領制をとる立憲国家である。現行憲法は2004年12月5日に制定され、同月27日より施行されたもの。国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出され任期は5年。3選は禁止されている。首相は総選挙の結果に基づき、国民議会が選出する。内閣に相当するものとして閣僚評議会が設置されている。議会は一院制で、正式名称は国民議会。定数109議席で国民議会議員は直接選挙で選出され、任期は5年である。主要政党としては、ボジゼ現大統領政権の事実上の与党である国民集合クワ・ナ・クワ(KNK, ボジゼ自身は党員ではなく無所属)、パタセ前大統領の所属する中央アフリカ人民解放運動 (MLPC)、コリンバ元大統領が率いる中央アフリカ民主連合 (RDC) の3党が挙げられる。他には社会民主党 (PSD)、進歩愛国戦線 (FPP)、 (ADP)、新進歩同盟 (NDP) といった小政党がある。反政府武装勢力として「」(APRD) があり、主に北部を拠点に活動している。最高司法機関は最高裁判所 ("Cour suprême") である。憲法裁判所も存在。2013年3月、セレカの首都進攻により初めてイスラム政権が誕生した。同年中に2004年に制定された憲法は廃止され、2015年まで有効とする暫定憲法が公布された。議会も解散し、新たな議会として暫定評議会、次いで国民移行評議会(135議席)が設置された。評議会は大統領を選出する機能を有しており、2014年2月には会内の選挙によりサンバ=パンザを新しい大統領として選出している。中央アフリカは14の行政州と2つの経済州、そして州に属さない首都のバンギがある。また州はさらに71の地区(支庁)に分けられる。中央アフリカの14の行政州は以下の通り。また、2つの経済州は、ナナ・グリビジ州 (Nana-Grébizi) とサンガ・ムバエレ州 (Sangha-Mbaéré) である。主要な都市はバンギ(首都)があり、人口10万人以上の都市はがある。国土面積約623千平方kmはアメリカ・テキサス州よりやや小さい。大部分が海抜500mの平坦地で北部にはボンゴ山地が聳え立つ。中部から北部にはサバンナが広がり、南部に全土の8%程度の熱帯雨林がある。北部と南部には川(ウバンギ川、シャリ川)が流れており、植民地時代の名称の由来となっている赤道に近いため熱帯気候を示す。北部は熱く乾いたハルマッタン風が吹き砂漠化を進める。氾濫原やサバンナを含むマノヴォ=グンダ・サン・フローリス国立公園はユネスコの世界遺産に登録されている。第一次産業が主。プランテーション的なモノカルチャーであり、綿花やコーヒーを輸出している。ダイヤモンドやウラン、金などの鉱産資源も産出し、同様に輸出している。主要な輸出先はベルギー,中国,モロッコ,コンゴ(民)、輸入先はオランダ,韓国,フランス,カメルーン(2010年)である。しかし内陸国であるため資源の輸送費は高くつき、加えて政情不安が度重なっておりそこにはウラン利権も関係している。また経済も大きな打撃を蒙り低迷が続いていて、人口の9割は一日2ドル以下で生活している状況である。住民は、を話す民族が中心である。主な民族は、 (33%)、 (27%)、 (13%)、 (10%)、 (7%)、 (M'Baka, 4%)、 (4%)、フラニ族 (3%) などである。言語は、公用語がフランス語である。日常生活では、フランス語とのが混淆して形成されたサンゴ語というクレオール言語が事実上の共通語となっている。宗教は、伝統的宗教が24%、プロテスタントが25%、ローマ・カトリックが25%、イスラム教が15%、その他が11%である。中央アフリカ国内にはユネスコの世界遺産リストに登録された自然遺産が2件存在する。
出典:wikipedia
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