後藤 光尊(ごとう みつたか、1978年7月27日 - )は、 秋田県南秋田郡八郎潟町出身の東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するプロ野球選手(内野手、外野手)。妻はかつてイエローキャブに所属していたタレントの斉藤ますみ。秋田県南秋田郡八郎潟町出身。八郎潟町立八郎潟中学校時代は野球とラグビーを掛け持ちし、ラグビーでは県大会優勝経験がある。秋田工高に1年からレギュラー確約条件にスカウトされたが、秋田県内有数の進学校である秋田高校に進学、3年時にエース投手として第68回選抜高等学校野球大会に出場する。その後スポーツ推薦で法政大学に進学したが、上級生らによりいじめを受けて留年が確定し、そのまま大学を中退する。その後、に同じ秋田高校OBで川崎製鉄千葉野球部監督の斉藤正直に誘われて同野球部に練習生として参加し、に入社。同年の第69回都市対抗野球大会に出場し、決勝戦ではプロでチームメイトとなる川越英隆を擁する日産自動車と対戦し準優勝、最も優秀な活躍を収めた新人選手に贈られる若獅子賞と三塁手部門での優秀選手賞を受賞。バンコクアジア大会日本代表、シドニーオリンピック野球日本代表候補に選出された。社会人時代のチームメイトには同じ秋田県出身の藤田太陽がいる。2001年のドラフト会議でオリックス・ブルーウェーブから10位指名を受け入団。シーズン終了後の12月19日に、鉄平との交換トレードで東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍することが発表された。背番号は4。パンチ力のある中距離打者で、軸のブレない鋭いスイングからライナー性の打球を放ち、オリックス・バファローズ時代の本拠地京セラドーム大阪の試合では甘い球を5階席まで運んだこともある。左投手を苦手とし、2008年にはミートすることを重視し対左打率.303を誇ったが、2006年から2010年まで対左打率.252と苦戦している。少々のボール球でも強引に打ちにいく悪球打ちの面もあるため、四球が少ない。2014年にはボール球スイング率48.8パーセントを記録。また、オリックス時代の監督の岡田彰布には「みんなが打てんボールを打つ」と評された。2011年には14盗塁を記録した走力を持つ一方、左打者でありながら一塁到達は4秒後半が多い。内野の3ポジションを守れるユーティリティープレイヤーで、二塁手としての起用が比較的多い。二塁守備では高い身体能力を生かしたダイナミックなプレーを持ち味とするが、2010年は守備イニング500以上の選手ではワースト2位となるRF5.18を残し、得点換算でも低い数値を残した。憧れの選手はケン・グリフィー・ジュニアである。高校時代選抜大会に出場した際、でもその名前を確認できる。投手として出場した甲子園では、初戦で完投するも滝川二に15安打を浴びて敗れている。この試合、滝川二の三塁打(6本)、両チームの三塁打(滝川二6本、秋田1本)、滝川二が7回の攻撃で記録した三塁打(3本)はいずれも大会記録である(チーム1イニング三塁打のみ最多タイ記録)。試合後、オフにウエイトトレーニングを欠かさず、体脂肪率は9パーセントである。下戸でもあり、あまりチームメイトと食事にいったりするような性格ではなかった。2010年にオリックス・バファローズの監督に就任した岡田彰布からはチームリーダーの役割を期待され、当初は自分が一匹狼のような性格なため悩んだが、シーズン途中には無理のないリーダー像が見えてきたという。2003年に元イエローキャブのタレントである斉藤ますみと結婚。彼女との間に娘がいることを公表しており、テレビ番組で紹介されたこともある。2011年現在、1男1女の父。2011年9月、オリジナル写真集PHOちょ+より自身初の公式写真集がリリースされた。2015年12月5日、秋田県大館市で開催されたシンポジウム「夢の向こうにin秋田」(日本野球機構、日本プロ野球選手会、日本高野連主催)に、同じ県内出身・ゆかりのロッテ・木村優太投手、ヤクルト・石山泰稚投手、DeNA・砂田毅樹投手を含めた8人の選手とともに参加し、県内32校272人の高校生に野球指導を行った。後藤は母校・秋田高の選手に直接指導する機会にも恵まれ、「こういう機会が来るとは思わなかった。少しでも力になれれば。基本の積み重ねが将来を決める。真剣に取り組んでくれれば」とエールを送った。
出典:wikipedia
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