稚泊連絡船(ちはくれんらくせん)は、太平洋戦争終結前の鉄道省(日本国有鉄道の前身)により北海道の稚内と当時日本施政下であった樺太の大泊の間で運航されていた航路(鉄道連絡船)である。宗谷海峡は冬になると流氷によって閉ざされるため、就航船には砕氷船が使用された。厳冬期の大泊では氷上で旅客・貨物の取り扱いをすることもあった。鉄道連絡船の性格上、宗谷本線の優等列車と接続するダイヤを組み、1938年からは稚内側では列車が船に横付けできるよう、稚内駅構内扱いに稚内桟橋駅という仮乗降場が設けられていた。また大泊側も桟橋上に大泊港駅が設けられ、樺太東線と接続していた。なお、稚内から樺太への定期航路は稚泊連絡船の他に北日本汽船経営の稚斗航路(稚内 - 本斗間)があり、こちらは樺太西線と接続していた。航路開設当初は連絡船の繋留できる岸壁がなく、大泊駅近くの連絡船待合所(大泊営業所)から1.2km沖合に錨泊する連絡船までは艀で、海面が結氷する厳冬期は徒歩やソリで接続していた。1928年(昭和3年)8月に大泊港の南から橋梁を渡って沖に突き出す形の突堤が完成し、大泊駅から桟橋まで1.6kmの臨港線を敷設。11月には突堤上の連絡船待合所が竣工、12月から大泊港駅として開業した。現在もコルサコフ南埠頭()として使用されており、連絡船と同じ航路のSASCO社ペンギン33(稚内 - コルサコフ間)が発着している。接続駅として稚内桟橋駅が設けられた。現在、防波堤は稚内港北防波堤ドームとして保全が図られ、連絡船の業績を顕彰する稚泊航路記念碑()が建てられている。
出典:wikipedia
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