ここでは日本の自由民主党の派閥について記述する。かつては派閥内の結束は強く、夏は「氷代」、冬は「餅代」などと称して所属議員に資金を援助する派閥も存在し、55年体制下においては、新人議員は陣笠議員として各派閥に入り、当選回数・職歴を重ね、そして派閥の意向を酌みつつ政治活動に励んでいた。また中選挙区制の時代には、自民党は各選挙区に複数の候補者を擁立していたが、同一選挙区に同じ派閥に所属する候補者が複数立つことは無かった。同一選挙区の自民党候補者は保守層の票を奪い合うこともあり、極めて険悪な関係にあった(かつて政界で一番仲が悪いものは、自民党の同じ選挙区の議員同士ともいわれた)。55年体制、特に1970年代末から1990年代初頭においては、自民党の派閥は五大派閥に収斂されていた。これは、当時の中選挙区制では、最大定数が5であったためデュヴェルジェの法則により候補者も収斂されていったためである。2005年の衆議院総選挙の後では、時の首相であった小泉純一郎が自民党新人議員(小泉チルドレン)が派閥に属することを禁じ、「新人議員研修会」を開いて党が教育すると述べた。しかし、本来はどの組織にも属さない筈の「無派閥」議員が「新人議員研修会」という形(83会)で組織的なまとまりを帯び出し、マスコミからは「小泉派か?」と評された。そして1年後には半数近くの新人議員が派閥入会するに至っている。また、党紀で定められているわけではないが、内閣総理大臣や自由民主党執行部に就任した者はその在任期間は派閥を離脱することが慣例となっている。通常、これらの党役職を退任すると出身派閥に戻るが、小泉純一郎総裁、石破茂政調会長、谷垣禎一総裁などは戻らずに無派閥のままであった。ただし、河野洋平(大勇会会長)のように、衆議院議長在職中も派閥に留まった例があるほか、麻生太郎(為公会会長)のように、総裁在職中も派閥に留まった例がある。自民党の各派閥の役職は派によって多少の違いはあるものの、おおむね次のようになっている。テレビ・新聞報道などマスコミにおける自民党派閥の呼称は、総じて各派の会長職にある議員の苗字から、通称で「○○派」と呼ばれる。この通称については報道機関各社独自の判断で決定されており、場合によっては各社において違った呼び方をすることもあるため、主要派閥を「○○派(○○派閥)」、小派閥を「○○グループ」、派閥横断型連合を「○○政策集団」と呼んで区別することが多い(もっとも、2006年以降は「○○グループ」の呼称を「○○派」に統一する報道機関が多くなった)。派閥会長の引退・死去等で、派内に次期会長職を引き継ぐものがいない場合は、前会長の苗字の前に「旧」をつけて、「旧○○派」と呼ばれる。また、派閥会長を務めている者が内閣総理大臣や自由民主党執行部に就任すると、多忙な職務のため会長職から離れ、派閥の最高幹部に会長格ポストを預けることが多い。この場合は復帰を視野に入れ、派閥の呼称の変更は行われない。会長職から離れる例が短期間に留まる場合も同様である。以下に例を挙げる。ただし、高村正彦の自民党副総裁就任により高村派から大島派に変更された例、伊吹文明の衆議院議長就任により伊吹派から二階派に変更された例、大島理森の衆議院議長就任により大島派から山東派に変更された例では、復帰はなされないものと考えられるため、派閥呼称は変更されている。なお、河野派会長の河野洋平が衆議院議長に就任した際には、衆議院議員を引退していた相澤英之が座長のまま派閥を取り仕切り、会長は依然河野洋平のままだったほか、麻生派会長の麻生太郎が自民党総裁に就任した際には、中馬弘毅が座長のまま派閥を取り仕切り、会長は依然麻生太郎のままだった。特殊な例としては田中派がある。田中角栄は、1976年にロッキード事件で逮捕されて自民党を離党、田中派も脱会した。田中角栄自身は田中派の会長に就任したことはなく(派閥発足時から西村英一が会長)、逮捕後も西村英一・二階堂進が派閥会長を務めたが、マスコミにおける呼称は全て「田中派」であった。これは、実際は派閥議員への政治資金や派閥運営の全権を田中角栄が担っていたためで、派閥の所属議員ではないが実質的な派閥のオーナーであることは明らかであったためである。なお、この田中派が1987年に竹下派と二階堂グループに分裂した際、二階堂側は引き続き木曜クラブ(田中派の正式名称)を名乗っていたが、マスコミでは分裂を境に「二階堂グループ」「旧田中派二階堂グループ」などと呼ぶようになった(もっとも、この時期田中角栄は脳卒中の後遺症でほとんど政治活動をしていなかった)。派閥の俗称は「むら」である。研究者によっては、自由民主党を一つの政党ではなく「派閥と呼ばれる政党が複数集まった、長期政党連合」との見方を採る場合もある。ここで言及されている政党連合とは、政治において政策や主張に共通点のある政党が集まって、意見の集約と統一された政策の形成を図り、政策の実現に向けての活動として、政権を担当することを目標とし、議会の運営の基本単位として働いている組織である。政党は定義上は個人の集合体であるが、ある程度の規模を持つ政党をこの定義で分析するのは非常に困難である。したがって、自由民主党のような大政党をより小さな規模の政党(=派閥)の集合体と看做せば、政党連合と政党との間には余り大きな違いが見出せなくなり、政党内に存在する派閥は、政党連合を構成する政党と同様の働きをすると言える。なお、自民党の党則には派閥に関する規定はない。派閥政治は政党連合と同等であり、与党内に多様性をもたらす。これにより、幾多の政治変動にも対応でき、単一政党では本来成し得ない広大な支持基盤をもった長期政権が誕生した。価値観の多様化が進む現代社会では、政党制も支持基盤の多様化に合わせて多党化しないと問題が生じ、小党乱立を受け入れざるを得ない。その時でも実効性のある政権を運営するのに、政党連合=派閥政治の経験は大きく役立つだろう。また派閥同士の関係は険悪であったが、日本社会党が与党になることを放棄した状況の中で、政治の緊張感を維持し、与党であり続けた側面もある。また、新人議員の教育機関としての役割を自民党派閥は担っていた。派閥解消が要求された時期には「政策勉強会」という建前で実質的な派閥の維持が図られたが、その勉強会としての機能も無視できるものではなかった。派閥政治は政党政治のあり方の観点から批判されることがある。派閥は政治資金とポストを仲立ちとした議員間の結びつきであるため、資金の不足しがちな若手議員や入閣適齢期の中堅議員は派閥領袖の意向に大きく左右される。そのため党総裁の判断よりも派閥領袖の意向が影響力を持つことが多々あり、密室政治や長老支配の原因となってきた。また派閥から閣僚候補として推薦されるためには派閥の資金獲得に大きく貢献する必要があり、さらに派閥の領袖になるためにはその稼ぎ頭ともならなくてはならない。派閥の領袖になることは総理総裁候補になることの前提条件でもあるため、金権政治の温床になるとの指摘もある。また角福戦争に代表される派閥抗争が各派閥の行きがかり(「怨念」)を主題に争われ、政策課題が二の次となることもあった。派閥政治は時折有効な政治ができなくなる恐れがある。派閥力学によって党や国会の役職や閣僚などが割り振られ、適任とは言えない人が大きな役職につく恐れがある。政党間の政権交代を民主政治のあるべき姿とみなす立場からは、派閥間の政権移譲が「疑似政権交代」であり、政党間の政権交代を阻害するとして問題視する向きもある。自由民主党そのものが、保守本流の旧自由党と保守傍流の旧民主党による「保守合同」を経て出来た政党であり、その構成メンバー間の経歴・信条・政策などは決して一致していなかった。そのため、経歴・信条・政策などが比較的近い議員達が党内の有力議員の下に集まって形成されたのが自由民主党の派閥のルーツである。その後、1956年12月の総裁選挙をきっかけに8つの派閥(通称「8個師団」、ただし石橋派は他派より規模が小さかったため「7個師団1個旅団」と呼ばれたこともあった)が形成され、やがて五大派閥(十日会系の福田派・木曜研究会系の田中派・宏池会系の大平派・春秋会系の中曽根派・政策研究会系の三木派)に収束していった(三角大福もしくは三角大福中も参照)。各派閥の系列の特徴としてはタカ派色のある十日会系とハト派色のある木曜研究会系が伝統的な二大勢力となっている。ただし、十日会系も財政出動による景気拡大を推進してきた過去を持つなど、多彩な特徴を有している。なお、いずれも鳩山一郎・吉田茂という自民党結成前からの保守の源流をそれぞれ軸に発足しているが、二系列を完成させたといえる岸信介・佐藤栄作は実の兄弟である。宏池会系は「公家集団」の名門であるものの、要所要所では潤滑油的な働きをした影の薄い役回りとなっている。春秋会系は挙党態勢を志向してきた歴史があり、政策研究会系は独自路線を志向してきた歴史がある。また、小派閥の離合集散がポストを巡る争いによるものだけでなく必要以上に繰り返された理由は、春秋会系の河野一郎・中曽根康弘・渡辺美智雄などといった面々の支持・被支持を巡って巧みな党内遊泳が求められたためである。このように、保守本流と保守傍流の区別は意味をなさなくなって来ており、各派閥の系列(十日会系・木曜研究会系・宏池会系・春秋会系・政策研究会系)で捉えた方が自由民主党の実態に即している。また、麻生派・山東派の合流と二階派・石原派の合流により五大派閥に回帰する可能性もあった。ただし、無派閥議員を多く巻き込んだ石破派の誕生のため党内情勢は流動的になっている。×は断絶を表し、※は離脱、分派を表す。【 】は現存する派閥。ほかに、結党間もない頃には芦田派・大麻派・北村派などの小派閥や短期間で消滅した広川派が存在した。1970年代には田中派と福田派による角福戦争が繰り広げられ、田中派が勢力を持つこととなり、調整や根回しなどの人心掌握術に長ける一方で何度も自派閥議員の首相就任を画策した田中派の政治手法に批判が集まってゆき、打破しようという目的で若手議員が中心となり青嵐会が結成された。上記のほか、河野洋平の「政治工学研究所」、小坂徳三郎の「新風政治研究会」、中川一郎の「自由革新同友会」、石原慎太郎の「黎明の会」、武村正義の「ユートピア政治研究会」、83会に所属する小泉チルドレンを支援することを目的とする武部勤の「新しい風」など一部の政策集団は、そのまま代表者を領袖とする派閥に発展する可能性を持っていたといえ、実際に石破茂の「さわらび会」と山本有二の「のぞみ」と石破茂を要とする山本有二の「無派閥連絡会」が母体となって石破派が結成された。古くは砂田重政・賀屋興宣・一万田尚登などが派閥形成を試みている。また、春秋会系から離反した議員を中心に、日本のこころを大切にする党が設立されている。結党以来、派閥の弊害が指摘されており、1963年10月の「三木答申」により穏やかな派閥解消が成立するか注目されたが、当時の池田総裁は党史上初めてとなる試みを受け流した格好となり、結局派閥解消には至らなかった。その後、1977年3月の福田総裁下と、1994年の河野総裁下での野党時代に派閥解消が行われ、各派が派閥の看板を降ろし、マスコミでも「旧○○派」の通称に統一された。しかし実質的には派閥は連綿と存続しており、いずれの解消時も総裁選挙が近づくにつれて公然と派閥活動が行われるようになった。脱派閥を訴えた小泉純一郎も、実質的には生粋の派閥政治家だとする評価があり、実際小泉は自分の政権で出身派閥の清和研(当時:森派)を厚く遇し、長年対立関係にあった平成研(当時:橋本派)は冷遇した。しかし、自民党内における派閥は本来中選挙区制を前提にできており、現在の小選挙区制では必ずしも機能していない。一方、小選挙区制では党執行部や選挙の顔である総裁の役割が拡大し、派閥は徐々に変質しつつあるとも言われる。2009年に行われた第45回衆議院議員総選挙では自由民主党が大幅に議席を減らしたため、派閥そのものが衰退する可能性もあり、実際に各派閥で退会者が相次いだ。高村派を退会して議員グループ「のぞみ」を立ち上げた山本有二は、派閥は昼食を食べるサロンになったと批判した。2010年になってからは、新党結成や参院選の公認争いを巡って離党者に歯止めがかからず、派閥の退会にもつながっている。鳩山邦夫、藤井孝男、小池正勝らの離党によって、どの派閥にも属さない「無派閥」議員の人数が33人と、額賀派を抜いて党内の第二勢力となった。2011年には無派閥の議員が48人となり、党内の第一勢力となる。自民党内における派閥は、戦前の議会活動から保守合同に至る過程で形成された思想的・政策的・党派的・人的な利害関係で結ばれた同志集団が基礎となっており、1956年の鳩山一郎の後継総裁選挙の過程で党内実力者たちが形成した8個師団と呼ばれる集団が原型とされる。以降、総裁の座を巡る権力闘争による離合集散が繰り返される過程で小派閥が次第に淘汰され、1970年代後半には中選挙区制に対応する形での五大派閥に収束した。五大派閥に至る時代には党三役や閣僚を経験した党内実力者が派閥の領袖に就いており、各派領袖が党総裁の座を争った。1980年の大平正芳死去を受けた後継総裁に、派閥領袖でない鈴木善幸が話し合いで選出されたことは結党以来初となる異例事態であった(選出後に大平派を継承し、領袖となる)。竹下登内閣下で発覚したリクルート事件では、総裁を始め派閥の領袖を含む党内実力者たちが軒並み事件に関わっていたことから、1989年に再び派閥領袖でない中曽根派の宇野宗佑総裁が誕生する。宇野内閣崩壊後には河本派の海部俊樹総裁が続いた。さらに自由民主党が下野した1993年に宮澤派の河野洋平総裁、1995年に小渕派の橋本龍太郎総裁が誕生するに至り、総裁の座は派閥領袖が競うものから選挙の顔としての価値に重きが置かれるものへと変貌した。衆議院選挙が中選挙区制から小選挙区制主体へと変わり、候補者選定過程で党本部が発揮する力が非常に大きくなった。このことにより派閥の影響力が激減し、総裁の座を争うための集団からポスト獲得互助組織へと派閥の存在目的の変質が見て取れる。(2016年8月現在)※会派離脱中である衆議院議長の大島理森(山東派)と参議院議長の伊達忠一(細田派)を含む。細田派客員会員である井上義行、二階派客員会員である中村喜四郎と小泉龍司と長崎幸太郎は除外。このほか、無派閥が98名(衆議院68名、参議院30名)で、「有隣会(谷垣会長)」、「さいこう日本(甘利代表)」、「伝統と創造の会(稲田会長)」、「きさらぎ会(菅顧問)」、「無派閥有志の会」など、無派閥議員間での連携を模索する政策集団が様々な形態で見られる。また、第2次安倍内閣では保守系超党派議員連盟(政党横断型連合)として「創生「日本」(安倍会長)」に参加する議員が多く登用された。このほか、青年局が主として無派閥の一年生議員向けに主催する勉強会なども開かれており、かつての派閥が果たした役割は分担されている。これらの意見懇談会などには派閥と重複して参加している議員もいる。このように派閥には一長一短があり、教訓として生かされている。一覧に見るように、第46回衆議院議員総選挙において自民党が大勝したため議員数が飛躍的に増加し、派閥の内実に大きな変化が生じた。
出典:wikipedia
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