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岡本太郎

岡本 太郎(おかもと たろう、1911年(明治44年)2月26日 - 1996年(平成8年)1月7日)は、日本の芸術家。血液型はO型。1930年(昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごす。抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも交流(ただし合流はしていない)した。第二次世界大戦後、日本で積極的に絵画・立体作品を制作するかたわら、縄文土器論や沖縄文化論を発表するなど文筆活動も行い、雑誌やテレビなどのメディアにも1950年代から積極的に出演した。太郎は神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現・神奈川県川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平、歌人で作家・かの子との間に長男として生まれる。父方の祖父は書家の岡本可亭であり、北大路魯山人の師匠であった。父・一平は朝日新聞で"漫画漫文"という独自のスタイルで人気を博し、「宰相の名は知らぬが、岡本一平なら知っている」と言われるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。母・かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。 世間知らずのお嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。太郎が3~4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子は兵児帯でタンスにくくりつけたというエピソードがある。また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平公認で自宅に住まわせていた。一平には創作の為のプラトニックな友人であると弁明していたが、実際にはそうではなかったという。放蕩三昧の生き方をひと頃していた一平は容認せざるを得なかった。後に太郎は「母親としては最低の人だった。」と語っているが、生涯、敬愛し続けた。家庭環境の為か、太郎は 1917年(大正6年)4月、東京青山にある青南小学校に入学するもなじめず一学期で退学。その後も日本橋通旅籠町の私塾・日新学校、十思小学校へと入転校を繰り返した。慶應義塾幼稚舎で太郎の理解者となる教師、位上清に出会う。クラスの人気者となるも、成績は52人中の52番だった。ちなみにひとつ上の51番は後に国民栄誉賞を受賞した歌手の藤山一郎で、後年太郎は藤山に「増永(藤山の本名)はよく学校に出ていたくせにビリから二番、オレは殆ど出ないでビリ、実際はお前がビリだ」と語ったという。絵が好きで幼少よりさかんに描いていたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれた。慶應義塾普通部を卒業後、画家になる事に迷いながらも、東京美術学校へ進学した。父・一平が朝日新聞の特派員として、ロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになり、太郎も東京美術学校を休学後、親子三人にかの子の愛人の青年二人を加えた一行で渡欧。一行を乗せた日光丸は1929年(昭和4年)神戸港を出港、1930年(昭和5年)1月にパリに到着。太郎は以後約10年間をここで過ごすことになる。フランス語を勉強するため、パリ郊外のリセ(日本の中学校に相当)の寄宿舎で生活。語学の習得の傍ら、1932年頃、パリ大学ソルボンヌ校においてヴィクトール・バッシュ教授に美学を学んでいる。パリ滞在の後半となる1938年頃から、太郎は「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを得るため、マルセル・モースのもとで絵とは関係のない民族学を学んだといわれている。1932年(昭和7年)、両親が先に帰国することになり、パリで見送る。かの子は1939年(昭和14年)に太郎の帰国を待たずに逝去したため、これが今生の別れとなった。同年、芸術への迷いが続いていたある日、たまたま立ち寄ったポール=ローザンベール画廊でパブロ・ピカソの作品《水差しと果物鉢》を見て、太郎は強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。岡本は、この時の感動を著書『青春ピカソ(1953年)において「私は抽象画から絵の道を求めた。(中略)この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ」と述べている。1932年、ジャン・アルプらの勧誘を受け、美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会のメンバーとなる。岡本と親交のあった戦場カメラマンのロバート・キャパの公私にわたる相方であった報道写真家ゲルダ・タローに岡本の名前が1936年よりビジネスネームとして引用された。しかしゲルダ・タローの活動期間はとても短く1937年にスペイン内戦のブルネテの戦いの取材に向かったが、この戦場の混乱で発生した自動車事故で重傷を負い、この怪我が原因で死去した。1940年(昭和15年)、ドイツのパリ侵攻をきっかけに日本へ帰国する。帰国後、滞欧作《傷ましき腕》などを二科展に出品して受賞、個展も開く。1942年(昭和17年)、太平洋戦争下の軍備増強の為、補充兵役であった太郎は召集され帝国陸軍の兵士として中国戦線へ出征。アメリカやイギリスのような大国を相手にしたこの戦争は負けると信じており、上官から「日本は勝てるか?」と訊ねられると、婉曲的に「勝てません」と答えている。太郎は(20歳当時の徴兵検査時に甲種合格し現役兵として)軍隊に入営(入隊)した経験が無い未熟な補充兵(補充兵役)であり、階級は最下級の陸軍二等兵から始まっている。また兵としては高年齢である30代という事もあり、厳しい兵役生活を送ったと岡本は著書で回想している。一方、1942年、依頼に応じて師団長の肖像画をアカデミックな技法で描いているが、その制作中の写真からは、意外にも一般の兵士よりも従軍中も比較的優遇されていた様子がうかがわれる。1945年(昭和20年)、日本の降伏により太平洋戦争(第二次世界大戦)は終結。太郎は長安で半年ほど俘虜生活を経たのち帰国、佐世保から東京に到着するが、自宅と作品は焼失していた。東京都世田谷区上野毛にアトリエを構え、ふたたび制作に励む。1947年(昭和22年)、太郎は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。1948年(昭和23年)、 花田清輝らとともに「夜の会」を結成。会の名は太郎の油彩画《夜》から取られた。前衛芸術について論じ合う会で、ほかに埴谷雄高、安部公房らが参加した。またこの頃、平野敏子と出会った。敏子は後に秘書・養女となり、太郎が逝去するまで献身的に支え続けた。1951年(昭和26年)11月7日、東京国立博物館で縄文火焔土器を見て衝撃を受ける。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになったといわれている。おなじように琉球諸島や東北地方の古い文化や伝統を再発見し広く紹介した。1954年(昭和29年)、東京都港区青山に自宅兼アトリエを建て、生活と制作の拠点とする。同年、当時光文社社長だった神吉晴夫から、「中学1年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ」と依頼され、『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』を執筆・出版。芸術は小手先の問題ではなく、生きることそのものであると説くとともに、古くさい従来の芸術観を攻撃し、ベストセラーになった。同書において、岡本は「芸術」という言葉は、明治時代になって日本にもたらされた概念であると述べているが、この部分は明らかな錯誤である。諸橋大漢和によれば、「芸術」は、すでに漢時代に存在しており、諸芸術の総称として用いられている。また日本でも「芸術」は平安時代の日記文学に頻繁に登場し、今日の「絵画」とほぼ同義であった(『辻惟雄集 第1巻』2013岩波書店による)。1970年(昭和45年)に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、主催者(国)は紆余曲折の末、テーマ展示のプロデューサーを岡本太郎に依頼した。太郎は承諾すると、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」とひたすら構想を練った。そうして出来上がったのが総高70mの《太陽の塔》である。 1967年、テーマ展示プロデューサに就任後の最初の公式記者発表において岡本太郎は、高さ60mの「(仮称)生命の木」を作ることを発表しており、《太陽の塔》が樹木をモチーフとして造形されていることが判る。このことを裏付けるように、1967年10月26日撮影の原型制作中の岡本の記録写真(吉田優撮影)には、太陽の塔の原型に生命の木の枝と葉が下書きされている。そして左右に刻まれている2本の赤いジグザグは、1950年頃以降、岡本が愛読したミルチャ・エリアーデの著作に記されている「シャーマンの木」の7つないし9つの刻み目(notch)から着想を得ていることが指摘されている。また、内部を過去・現在・未来の三層構造とする着想なども、エリアーデの著作からの影響が指摘されている(佐々木秀憲「岡本太郎におけるミルチャ・エリアーデの影響」『美学』239号、美学会)。日本万国博覧会は成功のもとに終了。1975年(昭和50年)、《太陽の塔》は永久保存が決定。現在も大阪のシンボルとして愛されている。岡本太郎は、テレビ放送草創期の1950年代から、当時のバラエティ番組であったクイズ番組などに多数出演している。1970年代以降には、日本テレビバラエティ番組『鶴太郎のテレもんじゃ』にレギュラー出演。冒頭でリヒャルト・シュトラウス『ツァラトストラはかく語りき』を鳴り響かせ、ドライアイスの煙が立ちこめる中から太郎が異形の面貌で、「芸術は爆発だ」「何だ、これは!」などと叫びながら現れる演出が人気を博すと、これらのフレーズは流行語にもなった。また番組内で出演した子供たちの絵を批評、お眼鏡に適う作品を見出した際には、目を輝かせた。さらに、この番組内で共演した片岡鶴太郎の芸術家としての才能を見出している。1987年(昭和62年)にはテレビドラマにも出演。NHK『ばら色の人生』に俳優(学校校長役)としてレギュラー出演した。太郎は老いを重ねても創作意欲は衰えず、個展など精力的な活動を続けていたが、80歳のときに太郎が所蔵するほとんどの作品を川崎市に寄贈。市は美術館建設を計画する。1996年(平成8年)1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により慶應義塾大学病院にて死去した(満84歳没)。生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった太郎に配慮するため、葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれる。会場には太郎の遺した作品たちが展示され、参加者たちは太郎との別れを惜しんだ。1998年(平成10年)、青山の太郎の住居兼アトリエが岡本太郎記念館として一般公開された。1999年(平成11年)10月30日、川崎市岡本太郎美術館が開館(川崎市多摩区枡形の生田緑地内に所在)。2003年(平成15年)、メキシコで行方不明になっていた大作《明日の神話》が発見された。愛媛県東温市で修復されたのち、2006年(平成18年)、汐留日テレプラザで期間限定で公開、岡本太郎再評価の機運が高まる。現在は京王井の頭線渋谷駅連絡通路に設置され、広く一般に公開されたパブリックアートととして新たな名所となった。2011年(平成23年)、「生誕100年 岡本太郎」展が東京国立近代美術館で開催された。この展覧会を区切りとして、岡本太郎研究は堰を切ったかのように次なる段階へと進展した。2013年(平成25年)、「岡本太郎のシャーマニズム」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。これに併せて学術団体協力による学術シンポジウムが開催され、1950年頃以降の岡本太郎の創作活動に世界的宗教学者ミルチャ・エリアーデの思想が多大なる影響を与えていたことが、学術的に確認された。同展では岡本太郎の創作活動をイコノロジー(図像解釈学)研究の観点から再構成する画期的内容が展開され、各方面からの注目を集めた。2014年(平成26年)、「岡本太郎と潜在的イメージ」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。同展は、スイス・ジュネーヴ大学教授のダリオ・ガンボーニ博士の著書『潜在的イメージ』に基づいて構成された内容であり、岡本太郎芸術を西洋近現代美術史の観点から検証した初の展覧会であった。従来、日本人の美術評論家等により岡本太郎は独自の創作活動を展開した孤高な作家とされてきたのに対し、同展では岡本の個人様式が西洋近現代美術の諸様式に追従するように展開していることを検証した。岡本太郎の造形作品を美術様式論として紹介した意欲的な展覧会であり、岡本太郎の創作活動を論じるには日本美術史の観点からのみでは無理があることを実証した。また、パリ時代の岡本の住所が判明し同展図録で紹介された。さらに、アヴァンギャルド芸術研究を専門とする美術史家グラディス・ファーブル(Gladys Fabre)博士によるアプストラクシオン・クレアシオン協会に関する1976年の論文が初めて翻訳され同図録に掲載された。同展以降、ヨーロッパ、とくにスイス系の芸術家(アルプ、レジェ、セリグマン、ヴュリアミ―等)と岡本との交流に関する研究が不十分であったことが認識されるようになり、現在、研究者各位によって調査が進展しつつある。一方、岡本はスイス系の芸術家との交流があったものの、1930年代後半の作風が、アルプやセリグマンやヴュリアミ―等とも全く異なっていることから、この時期、岡本はアルプ等の作風以外の要素も模索していた可能性を考慮すべきであることも指摘されている(佐々木秀憲「岡本太郎と潜在的イメージ」)。すなわち、アルプ等の作風はこの時期シュルレアリスム的な傾向性を次第に強くしていくが、岡本の場合、シュルレアリスムとも抽象主義とも言い切れない作風となっていく。ゆえに、1937年のパリ万国博覧会のために、パリ市内にナショナリズム的思潮が高揚し市内の各所にネオ・クラシシスム風のモニュメントが設置されていたこと、またパリに隣接するブーローニュ=ビアンクールを拠点とする芸術家たちによってエコール・ド・パリとは異なる作風の芸術活動が行われていたこと(同地の1930年代美術館は優れた展示活動を展開している)など、1930年代後半のパリ市内における芸術思潮の変遷が岡本にも及んで独自の画風を確立しつつあったことを考慮すべきであることが指摘されている(佐々木秀憲「岡本太郎と潜在的イメージ」)。1937年頃以降、岡本がアルプらによる展覧会に出品した記録は管見の限り見当たらない。このことは、岡本自身が自著の中で、この時期、絵が描けなくなりパリ大学に通ってマルセル・モースの下で民族学の研究に没頭したと述べていることと符合している。よって、岡本太郎がアルプ等スイス系芸術家との交流があったからと言って、1930年代後半の岡本の作風をシュルレアリスムに帰属させることができるほど単純では無いと考えられる。芸術一家に生まれ、少年期より既存概念にとらわれる事がなく育った岡本太郎は、人間としての自由や権利を阻害する者、権威を振りかざす者、かさにかかって押さえつけようとする者には徹底的に反抗した。この反逆児ぶりは生涯貫いており、またそれが創作への情熱にもなった。東京美術学校(現東京藝術大学)油絵科の入試対策として、川端画学校に通いアカデミックな絵画技法を修得した。また、パリ滞在のごく初期である1930年頃にも、パリの画学校であるアカデミー・ランソンに午前、グランド・ショーミエールに午後通い、極めてアカデミックな絵画技法の修得に努めている。この頃のアカデミックな鍛錬が、後年の長期にわたる岡本の造形作品制作を支え続けたのである。岡本太郎の芸術観は、パリ滞在時代に参加した美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会に所属している間に醸成されたと考えるべきである(『岡本太郎と潜在的イメージ展図録』川崎市岡本太郎美術館、2014年)。著書『今日の芸術』の中で、芸術は「うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」と宣言している。これは手先の巧さ、美しさ、心地よさは、芸術の本質とは全く関係がなく、むしろいやったらしさや不快感を含め、見る者を激しく引きつけ圧倒することこそが真の芸術と説いている。岡本太郎の代表的著作の一つである『美の呪力』は、ミルチャ・エリアーデ著『イメージとシンボル』と近似する部分が多いことが指摘されている。岡本はエリアーデによる同書フランス語初版を所持しており、多数のアンダーラインが施されていることが確認されている。今後、岡本の『美の呪力』とエリアーデの『イメージとシンボル』との比較研究が、宗教学の専門家によって為されることが期待される(『岡本太郎のシャーマニズム 学術シンポジウム報告書』川崎市岡本太郎美術館、2014年)。岡本太郎が造形作品は無意味であり、作品に込められた意図や思想を解明することは無意味であるとする学識経験者もいるが、それは誤りであると考えられる。岡本は著書『私の現代芸術』(1963)において「私は絵画の訴えるのは単なる視覚、美感覚ではないと考える。(中略)ところが近代造形は意味、内容、思想を不純物のように否定してしまった。(中略)問題はそこにあると思う」(313頁)と述べている。「職業は人間」「芸術は爆発だ」「芸術は呪術だ」「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」などの名言を残した事でも有名である。 岡本太郎没後、岡本敏子らの著作や岡本太郎記念館や川崎市岡本太郎美術館による啓蒙活動によって再評価されることとなり、芸術を志す者のみならず広く一般にも共感と影響を与えることになった。自らの作品をガラス越しで展示されるのを非常に嫌い、そのままの状態で鑑賞してもらうことを善しとする考えであった。それを表す逸話として、国立近代美術館で展示中だった《コントルポアン》を傷つけられたことがあり、それ以降関係者がガラス越しでの展示を提案すると太郎は激怒して、「傷がつけば、俺が自ら直してやる」と言ったという。渋谷駅の駅ビルのような位置づけである渋谷マークシティという、渋谷駅からの電車の微振動や乗降者数の多さ、そして気温・湿度の激しい変化に晒されるなど設置場所としては不向きなところに展示される《明日の神話》も、以上の理由で何の防護措置も施されずに展示されることになった。プレイボーイとしても名を馳せ、封建かつ閉塞的な男女関係をことに嫌った太郎は、徹底したフェミニスト・ロマンティストである。女性を見下したりすれば、たとえ相手が誰であろうと激しく叱責した。また太郎は、生涯独身を通した。秘書であった岡本敏子を養女とする。太郎は多くの女性との恋愛を志向。これは母かの子の影響に起因するものと思われる(知ってるつもり!?の岡本太郎の回などではこのように触れている)。じっとしていることが嫌いな太郎は、野球が好きで巨人の千葉茂や中西太らと野球を楽しんだ。スキー愛好家としても知られ、親交があった三浦雄一郎から賞賛されるほどの腕前だった。太郎はスキーの魅力について「どんな急斜面でも直滑降で滑るのがスキーの醍醐味だ」と語っている。スキーを始めた頃、急斜面コースで上級者が滑っているのを見た太郎は、どんな絶壁なのかと思い登ってみると、実際目もくらむほどの高さであった。後に引くことが許せない性格の太郎はその急斜面に挑戦した。結果は大転倒したが、太郎自身その経験をこう語っている。また、太郎は当時流行していた白いスキー板と白いウェアに対抗して、カラフルなデザインの板とウェアを作ったり、自らのスキー体験を綴った「岡本太郎の挑戦するスキー」(講談社、絶版)という本も出版している。太郎は1930年代の滞欧時代からピアノに親しんでおり、芸術家仲間の集まりでもよく弾いたという。とくにモーツァルトの作品を好み、帰国後もアトリエにピアノを置き、制作の合間にクラシックやジャズなどを弾いた。太郎のピアノの腕前はプロ級と言われており、その演奏はほとんどが暗譜であったという。太郎がピアノを弾いた映像はいくつか残されており、1978年(昭和53年)にはドキュメンタリー番組『もうひとつの旅』(毎日放送)の撮影のため、ショパンゆかりの地マヨルカ島を訪れ、太郎が作曲家の使用したピアノを弾く映像がテレビ放映された。※所蔵先記載無は、川崎市岡本太郎美術館蔵後年は民放テレビ局のバラエティ番組等にも積極的に出演していた。

出典:wikipedia

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