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リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー

リヒャルト・カール・フライヘア・フォン・ヴァイツゼッカー(、1920年4月15日 - 2015年1月31日)は、ドイツの政治家、貴族(男爵)。キリスト教民主同盟(CDU)所属。西ベルリン市長(在任:1981年 - 1984年)、第6代連邦大統領(在任:1984年 - 1994年)を歴任。外交官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー()の息子として、シュトゥットガルト新宮殿()の一室に生まれた。兄二人と姉が一人。長兄は哲学者・物理学者のカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー。祖父カール・フォン・ヴァイツゼッカー()はヴュルテンベルク王国文化相・首相を歴任し、1916年に世襲の男爵("Freiherr")の称号を授与された。父親の転勤に従い1920年 - 1924年にスイスのバーゼル、1924年 - 1926年はデンマークのコペンハーゲン、さらに1931年 - 1933年にノルウェーのオスロ、1933年 - 1936年は再びスイスのベルンで過ごし、1936年にベルリンに戻った。1937年にベルリンのギムナジウムを卒業し、イギリスのオックスフォード大学やフランスのグルノーブル大学に留学して哲学や歴史学の講義を聴講した。1938年、勤労奉仕義務のためドイツに帰国。同年兵役でドイツ国防軍に入営し、ポツダムの第23歩兵師団第9連隊の機関銃中隊に配属された。同じ連隊に少尉として次兄のハインリッヒがいた。1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発、彼の部隊はポーランド侵攻作戦に参加する。開戦翌日(9月2日)のブィドゴシュチュ近郊の戦闘で、彼から数百メートル離れた地点で次兄が戦死した。部隊はルクセンブルクとの国境に配置転換され、ヴァイツゼッカーはそこで法務士官の教育を受け、西方電撃戦に参加。1941年には東部戦線でバルバロッサ作戦に参加、ソ連軍と戦う。1941年夏に最初の負傷をして4週間を野戦病院で過ごした。1942年に陸軍総司令部付の連絡将校となるが、中尉に昇進するとすぐに前線の自分の部隊に復帰し連隊長付副官となった。のちに予備役大尉となり、1944年5月にはローマ教皇庁に大使として派遣されている父を訪ねてローマに赴いた。同じ部隊の戦友にはヒトラー暗殺計画に参加していた将校がおり、計画を打ち明けられていたという。1945年3月に東プロイセンで軽傷を負い後送され、同年5月8日の終戦時はリンダウにいた。1945年に学業に復帰し、ゲッティンゲン大学で歴史学と法学を専攻。しかし1947年から1949年まで、ナチス・ドイツの外務次官としてニュルンベルク裁判で裁かれていた父の弁護に関わるために休学。担当弁護士の事務所でアシスタントとして研修、父親の弁護を手伝った。1950年に司法修習生、1953年には国家司法試験に合格。1955年には法学博士号を取得した。1953年にマリアンネ・フォン・クレッチマン(Marianne von Kretschmann)と結婚し、4人の子に恵まれ、うち3人は異なる分野で大学教授に就任している。1953年から5年間、マンネスマン社で法律顧問などとして働きマンハイムとデュッセルドルフに住む。その後1962年まで妻の縁故の銀行に勤務、1966年までにあるベーリンガー・インゲルハイム社に勤務。1954年キリスト教民主同盟(CDU)に入党。党の連邦代表委員を1966年から1984年まで務めた。1966年にドイツ連邦議会選挙への出馬を勧められるが、当時ドイツ福音主義教会大会(キルヘンターク)の議長職にあったため辞退した。1967年から1984年までドイツ福音主義教会(EKD)常議員も務めた。1968年、ラインラント・プファルツ州の党代表だったヘルムート・コールに初めて党の連邦大統領候補に推薦されたが、党内投票でゲアハルト・シュレーダー国防相に敗れた。1969年、ヴォルムス選挙区から出馬してドイツ連邦議会議員に初当選、1981年までの4期にわたり連邦議会議員を務めた。1971年にCDU党首ライナー・バルツェルにより党の政策調査会長に任命された。その成果は2年後の党大会で発表されて議論を呼び、1978年の党綱領に盛り込まれた。1973年には党の連邦議会院内総務職に出馬したが、決選投票で院内副総務のカール・カルステンスに敗れた。1974年の連邦会議において、ヴァイツゼッカーはCDUの連邦大統領候補となったが、ドイツ社会民主党(SPD)・自由民主党(FDP)の連立与党が推すヴァルター・シェール(FDP)に敗れた。1976年、コール率いる「影の内閣」に入閣。1979年から1981年まで、ドイツ連邦議会副議長。1979年、初めて西ベルリン市長候補として西ベルリン市議会選挙を戦い第一党を獲得するが、政権奪取はならなかった。1981年の市議会選挙では48%の高得票率でCDUは再び第一党になり、ヴァイツゼッカーは西ベルリン市長に就任した。1983年11月、高齢を理由に連邦大統領の再任を辞退したカール・カルステンスの後継として、ヴァイツゼッカーはCDUの連邦大統領候補に選ばれた。1984年5月23日の連邦会議において第6代連邦大統領に選出され、7月1日に就任した。ヴァイツゼッカーは、その格調高い演説によってドイツ内外に感銘を与えた。1992年には目先の選挙の勝利にこだわりすぎる各党の党派性を批判する意見を『ディー・ツァイト("Die Zeit")』紙に寄稿するなど、全ての政治的党派を越えた威信を保持した。1989年5月23日に連邦大統領に再選されて二期目を迎えたが、このときは対立候補がいなかったため、候補者がヴァイツゼッカーひとりであった。これはドイツ連邦共和国が建国されて以来、唯一の例である。ドイツ国民の敬愛ぶりは、在任中の1988年に彼の名を冠した学校が設立されたことからも伺える。日本でも『荒れ野の40年』(邦訳は岩波ブックレット)と題する、1985年5月8日の連邦議会における演説の中の一節“過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる”で知られる。「過去についての構え」である罪と「未来についての構え」である責任とを区別し、個人によって罪が異なるとしても共同で責任を果たしていくことを呼びかけた。同時に「若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでほしい。われわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい」とも述べた。この日はドイツ降伏40周年にあたり、ヴァイツゼッカーはこの記念日を「ナチスの暴力支配による非人間的システムからの解放の日」と形容した。他にも“自由民主主義体制において必要な時期に立ち上がるなら、後で独裁者に脅える必要はない、つまり自由民主主義擁護には法と裁判所だけでは不足で市民的勇気も必要”など名言は多い。その在任中に1990年10月3日のドイツ再統一を迎え、「統一することとは、分断を学ぶことだ」と題する演説をして、新たに加わった国民(旧東ドイツ国民)を歓迎した。1994年6月30日の連邦大統領退任後は、国家の元老であるにもかかわらず、政治及びの慈善事業の第一線で活躍し続けていた。ゲアハルト・シュレーダー政権によってドイツ連邦軍改革委員会議長に任命された。また、「Three Wise Men」の一員として欧州委員会に任命され、EU統合の過程を担っていた。またローマ・クラブ会員でもあった。2015年1月31日、ドイツ大統領府がヴァイツゼッカーが死去したと発表した。。2月11日、国葬がベルリン大聖堂で執り行われた。1985年5月8日の連邦議会での演説の中の「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」(永井清彦訳)という有名な一節は、演説が行われた当初は特に注目されていなかった。この一節を日本で最初に見出しにしたのは、岩波書店の雑誌「世界」1985年11月号で、朝日新聞も同年11月3日にコラムで取り上げている。岩波書店はさらに、1986年2月に演説全文を掲載したブックレット、1991年には単行本を出版している。この頃からこの一節が有名になり、歴史認識で韓国が日本を批判するのにも使われるようになった。しかし、演説の3日前にコール首相とレーガン米大統領がナチス親衛隊も埋葬されているビットブルク墓地を訪れ、ヴァイツゼッカーもレーガンに謝意を述べている。また演説の中には謝罪に当たるものはなく、「民族全体に罪があるということはない」「当時に子供だったり生まれていない人達が自分が手を下していない行為に対して罪を告白する事はできない」などと述べている。伊奈久喜は、これは日本の政治家が語れば「妄言」と批判されるかもしれない内容であり、ヴァイツゼッカー演説は史実とは異なる「神話」になった、と述べている。ウァイツゼッカーは演説の中で、ソ連も自らの利益のためにポーランドに侵攻したとし、ヒトラーの台頭を英仏が放置したことは無実とは言いかねるというチャーチルの言葉を引用し、戦後の東欧からのドイツ人追放でドイツ人は不正にさらされた、と述べた。岡田邦宏は、これは、日本の首相が演説で、日米開戦は日本だけではなく米国にも責任があると述べ、満洲でのソ連の蛮行やシベリア抑留に触れることにも等しい、としている。(主なもの)

出典:wikipedia

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