宜野湾市(ぎのわんし、沖縄語:ジノーン)は、沖縄本島中南部の中央に位置する市である。キャッチフレーズは「ねたての都市(まち)ぎのわん」で、本市の広報紙の題名にもなっている。「ねたて」とは「おもろさうし」にも表された言葉で、「物事の根元」、「共同体の中心」を意味する。沖縄本島の中部、那覇市の北東約10kmに位置する。市の中央部の台地を普天間飛行場(Marine Corps Air Station Futenma)、北部をキャンプ・フォスターが占める基地の街である。この二つの施設を挟む様にして国道58号と国道330号が通っている。MapionBB沖縄県宜野湾市字大山付近地図 も参照。国道58号の東側から緩やかな台地となり、西原町と中城村に接する市南部から市東部にかけて小高い丘が点在する。市西部は東シナ海に面し、海岸線は出入りが少なく遠浅である。その周辺の西海岸地域では沖縄コンベンションセンターと宜野湾海浜公園を中心に、観光・商業地域としての発展を目指している。また、国道58号宜野湾バイパス沿いには大山タイモ畑が広がっている。宜野湾市役所から那覇市役所までは直線距離でおよそ10km、浦添市と沖縄市からはそれぞれおよそ6kmの距離にある。中央部アメリカ海兵隊の普天間飛行場(Marine Corps Air Station Futenma、MCAS FUTENMA)が占めている。面積は4.83kmで、市面積の約25%にあたる。ほとんどが民有地で、土地使用の見返りとして約2,800人の地権者へ軍用地料が支払われている。一般的には「普天間基地」と表記・呼称される事が多い。また、「普天間」と略称する事もある(「普天間」は宜野湾市北東部の地名であるため飛行場の周辺住民、とりわけ地元宜野湾市民は単に「基地」と呼ぶ事が多い)。1945年(昭和20年)にアメリカ陸軍工兵隊が日本本土への攻撃に備えて土地を強制接収し飛行場を建設して以来、60年以上米軍施設として使用されている。1960年(昭和35年)にアメリカ陸軍からアメリカ海兵隊に管理が移され、1972年(昭和47年)の沖縄返還の際に普天間海兵隊飛行場、普天間陸軍補助施設、普天間海兵隊飛行場通信所が統合し現在の普天間飛行場となった。北部宜野湾市伊佐と北中城村渡口を結ぶ沖縄県道81号宜野湾北中城線を東西軸とする。県道81号の北側では沖縄市・北谷町・北中城村にもまたがるキャンプ・フォスターが占めており、市内での面積は1.6kmとなっている。上記の中央部同様、土地使用の見返りとして地権者へ軍用地料が支払われている。キャンプ・フォスターの普天間ハウジング地区にはキャンプ桑江(Camp Lester)にある沖縄海軍病院(在沖縄アメリカ海軍病院)が移転する予定がある。北東部市の行政の中心地。宜野湾市役所、宜野湾市第二庁舎(消防本部・水道局)、宜野湾市民会館などがある。東部那覇市と沖縄市を結ぶ国道330号を軸とする。志真志から野嵩にかけての約4kmの国道330号沿いには30余りの自動車販売業者が点在し、その殆どが中古車販売店であることから宜野湾中古車街道(ぎのわんちゅうこしゃかいどう)と呼ばれる事もある。南西部嘉数地域の丘陵(嘉数高台、嘉数高地)周辺は沖縄戦で最大の激戦地となった(詳細は嘉数の戦いを参照)。現在は嘉数高台公園として整備されている。高台頂上の地球を模した展望台からは普天間飛行場を一望でき、景観が抜群であるために報道機関の取材や反戦教育などによく利用されている。閣僚・国会議員などが沖縄を訪れる際にもここから普天間飛行場の状況を視察する事が多い。また、アメリカ総領事公邸が立地している。西部コンベンションエリアを含む西海岸地域。沖縄の大動脈国道58号とそのバイパス道路である宜野湾バイパスを軸とする。真志喜・宇地泊地域の宜野湾バイパス沿い(通称コンベンションエリア)には沖縄コンベンションセンター、宜野湾海浜公園(総合運動公園)、トロピカルビーチ(海水浴場)、宜野湾マリーナ(宜野湾港)、ラグナガーデンホテル(全日空ホテルズ)など様々な施設が集積しており、那覇市の奥武山町と並んで沖縄県のイベントの中心地的な役割を担っている。有名アーティストのコンサートはコンベンションエリアで行われる事が多い。また、宜野湾海浜公園内のスポーツ施設群はプロ野球の横浜DeNAベイスターズが春季・秋季のキャンプ地として使用している。更なる発展を目指して宜野湾市は観光関連企業の誘致を行っており、過去にはプリンスホテルやDFSギャラリア・沖縄の建設計画があった。現在はインターコンチネンタル東京ベイを運営するホスピタリティ・ネットワーク社、サイバーファームの子会社サイオン、不動産業のジョイント・コーポレーション、ボウリング・アミューズメント企業のラウンドワン進出が決定し、「沖縄インターコンチネンタルホテル(仮称)」や「沖縄宜野湾BAYリゾート計画」などの開発が予定されている。大山地域は豊富な湧き水を利用したタイモ栽培が盛んで、国道58号と宜野湾バイパスの間にはタイモ畑(大山タイモ畑)が広がっている。北から時計周り、町村は中頭郡。宜野湾市・西原町・中城村で 任意合併協議会 を設立したが合併には至らず解散。沖縄県は宜野湾市・中城村・北中城村の枠組みを提唱している。宜野湾市では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。会派別構成常任委員会特別委員会衛生:沖縄市・宜野湾市・北谷町の2市1町で「倉浜衛生施設組合」を組織し、沖縄市字倉敷152番地にゴミ処理施設を有している。国内昭和60年4月姉妹都市提携。太平洋戦争中に普天間・宜野湾・嘉数の3国民学校の学童が疎開した町である。海外平成7年11月友好都市提携。昭和61年に市職員野球チームが厦門市で友好親善試合をしたのが始まりである。農業漁業基地不動産業は、本市においては活発である。市域の中央部と北部のかなりの面積を普天間飛行場(Marine Corps Air Station Futenma)およびキャンプ・フォスター(Camp Foster)等としてアメリカ海兵隊へ賃貸し、市民らの不動産収入となっている。宜野湾郵便局が市内全域の集配を担当する。無集配局ショッピングセンター老人福祉施設障害者福祉施設児童福祉施設保育所2004年4月1日時点で公立保育園が3ヵ所、認可保育園が10ヵ所、認可外保育園が54ヵ所ある。宜野湾市は教育行政に力を入れている。そのため、美術館、博物館、図書館を始め、IT時代に先駆け宜野湾ベイサイド情報センターをオープンした。市内には鉄道は運行しておらず、駅なども存在しない。最も市内から近い駅は沖縄都市モノレール線の古島駅であるが、那覇市内にあり、かなりの距離がある。この駅などより、下記「路線バス」の項目に解説する通り、市内各地へ通ずる路線バスが多数運行されている。第二次世界大戦以前は沖縄県営鉄道嘉手納線という軽便鉄道線が通っていた。この線は、ガソリンタンク車爆発炎上により不通となり戦後も復旧せず、1945年休止(事実上廃止)され、現存しない。通称は「軽便(けいべん・けエビん)」。 宜野湾市内には大謝名駅・真志喜停車場・大山駅があった。琉球バス交通・沖縄バス・那覇バス・東陽バスの4社が市内を運行しており、一般道経由の路線バスと、沖縄自動車道経由の高速バスがある。宜野湾市内は、那覇市内 - 中・北部間を結ぶほとんどの路線の通過地点となっており、国道58号、330号を中心にかなりの数の路線が運行している。また、琉球バス交通と沖縄バスが市内に出張所・駐車場を構えており、市内を起終点とする路線も多い。本市内には沖縄都市モノレール線は運行されていないため、市内への公共交通によるアクセスは専ら路線バスを利用することになる。宜野湾市内へ向かう路線バスは那覇バスターミナルを中心に運行されているが、沖縄都市モノレール線とバスとの乗り換えが可能な駅もある。那覇バスは、那覇交通時代に125番知花(首里)線が25番普天間空港線に路線縮小した2004年4月24日以降、高速バスを除く一般路線バスでは本市が北限となる。なお、琉球バス交通の一部の路線が2006年2月20日より那覇バスターミナルから豊見城市我那覇まで延長された。また、99番天久新都心線は2006年9月1日より那覇空港から那覇市具志三丁目まで延長されたが、2008年10月8日より再び空港起点に戻った経緯がある。那覇方面より、国道58号大山を経由し中・北部方面に向かう路線那覇方面より、国道330号(バイパス)を経由し中部方面に向かう路線※なお、98番の終点「琉大駐車場」は西原町内である。那覇方面より、大謝名交差点から国道330号を経由し中部方面に向かう路線(国道58号 - 県道34号 - 国道330号)那覇方面より、首里を経由し宜野湾市内へ入る路線※なお、97番の終点「琉大北口(構内駐車場)」は西原町内である。宜野湾市内を終点とする路線那覇方面より、沖縄自動車道経由で中・北部方面に向かう路線(高速バス)毎年、夏にはごろも祭りが開催され、花火大会などが催される。名所ホテル宜野湾市西海岸地域に大手ホテルのプリンスホテルが進出予定だったが2005年に進出断念。
出典:wikipedia
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