若松 市政(わかまつ いちまさ、1942年1月1日 - )は、日本の元プロレスラー、マネージャー、政治家(元北海道芦別市議、4期就任)である。北海道函館市出身。中学卒業後電気技師の資格を取得し電気技術者を務めた後に「自分を試す」ということで港湾荷役作業者へ転職した後、1972年に国際プロレスに一般社員として入社。リング運搬や会場整備の傍らトレーニングに励み、翌1973年9月29日、31歳にして大位山勝三との試合でプロレスラーとしてデビュー。1979年8月26日に日本武道館で開催された『プロレス夢のオールスター戦』では第1試合のバトルロイヤルに出場、後にマシーン軍団で共闘する平田淳嗣とも邂逅した。1981年に国際プロレスが崩壊すると電気技師の資格を生かして電気工事の仕事をしながら資金を貯め、それを元手にカナダのカルガリーへ渡り、スチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリングにて、大剛鉄之助のブッキングで悪役マネージャーのショーグン・KY・ワカマツ(Shogun KY Wakamatsu)として活躍。ホー・チン・ロー、ヒロ・サイトー、ザ・コブラ、バッドニュース・アレン、ロン・スター、キューバン・アサシン、マイク・ショーなどのヒール勢をマネージメントし、彼らと組んで試合にも出場、ミスター・ヒト、アーチー・ゴルディー、ビッグ・ジョン・クイン、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス、ブレット・ハート、ジム・ナイドハートとも対戦した。日本に帰国後、1984年8月よりストロング・マシーンの悪役マネージャーとして新日本プロレスに参戦し悪党人気を博し、マシーン軍団解散後はアンドレ・ザ・ジャイアント、ケンドー・ナガサキ、ミスター・ポーゴの悪役マネージャーを務めた。1986年5月1日には両国国技館のメインイベントにてアンドレと組み、アントニオ猪木&上田馬之助とタッグマッチで対戦している(実況をしていた古舘伊知郎には「シンデレラ中年」と呼ばれた)。1990年のSWS設立に際しては選手獲得等に動いたと言われ、SWS旗揚げ後は同団体内の道場である「道場・檄」の道場主に就任、ブッカーとして活躍、レスラーとしてもリングに上がっている。SWS崩壊後は、他のプロレス団体に参戦しつつ、1994年北海道に「道産子プロレス道場 元気」を設立した。また高野拳磁が主宰していたPWCにも協力。何かを念じただけで相手が吹き飛ばされる「空気投げ」を実現させた。次第にその「宇宙パワー」は増強されていき、リング上で座禅を組み腕を広げただけで相手を悶絶させ、ついには指一本触れることなく失神に追い込んで勝利したこともある。公式記録は「大いなる宇宙のパワーによりKO勝ち」。1999年、芦別市の市議会議員選挙において当選、市会議員となった。その後は目立ったプロレス活動はしていないが、北海道でのインディー興行で挨拶したり、「道場・檄」時代からの縁で畠中浩旭の「ASIAN SPORTS PROMOTIONS」興行に選手として参戦して、健在ぶりをアピール。2007年12月31日に後楽園ホールで行われたプロレスサミットでは、芸タッグランブルに大日本プロレスのグレート小鹿とのタッグで出場し、勝利を収めた。2015年4月26日に行われた統一地方選挙にて落選し、4期務めた市会議員の職を失った。将軍KYワカマツとして手がけたレスラーの中で最も著名なのが、新日本プロレスにおける「ストロング・マシーン」および「マシーン軍団」である。ストロング・マシーンはワカマツに操られている覆面レスラーという設定で、1984年8月24日に後楽園ホールに1号が初登場。後に2号が出現してタッグチームとなり、最終的には4号まで増殖した。当時の実況アナウンサーだった古舘伊知郎は、ワカマツを「悪の羊飼い」「地獄のお茶の水博士」、マシーン軍団を「戦慄の殺戮マシーン」「暗黒増殖集団」「戦う金太郎飴軍団」などと形容した。1号の正体は平田淳嗣だが、マスクとコスチュームは全員が同じで外見上は見分けがつかないため、試合中にレフェリーの目を盗んで入れ替わるトリックプレイを得意とした。マシーン軍団初期には、平田と同じくカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングにて海外修行を行っていたヒロ斎藤も行動を共にしていた。2号は力抜山のリングネームで新日本プロレスに参戦し、国際プロレスにも出場したことのある韓国人レスラーの梁承揮(ヤン・スンヒー)。リングシューズが同じであることや、得意技であるコーナー最上段からのローリング・ソバットを国際プロレス時代に使用していたことなどにより、登場当時から力抜山正体説が有力視されていた。当時のリングアナウンサーである田中秀和も自身のブログにて、正体が彼であることを証言している。3号は元国際プロレス(のちフリー)のヤス・フジイ。長身のベテランレスラーで老練なレスリングをみせた(3号は当初、若松や平田とカルガリーで一緒だったダニー・クロファットとなる予定だったが、風邪で体調を崩し体重が10kgほど落ちていたため、1984年11月1日の東京都体育館におけるアントニオ猪木対2号のシングルマッチへの乱入のみで終わった)。4号は小錦の10人兄弟姉妹の長兄が扮していたが、プロレスの経験はなかったという(「4号の正体は1人ではなく複数のレスラーが入れ替わっており、ハワイ在住の日本人レスラーだったヒロ佐々木、頭突きが強い選手は国際プロレスに参加していた韓国人レスラーの南海山、ラリアットを多用する選手は阿修羅・原」などという説もあった)。当時の新日本プロレスはヒロ佐々木(ミスター空中の兄で、同時期に猪木と異種格闘技戦を行った小錦の兄アノアロ・アティサノエのマネージャー)と密接で、リア・メイビア(ピーター・メイビアの未亡人であり、ザ・ロックことドウェイン・ジョンソンの祖母)がハワイにて主宰していたポリネシアン・パシフィック・レスリングとも提携しており、ヤス・フジイも当時ハワイに居住していたことから、3号と4号はハワイのルートによる人選だったとされる。その後、1985年4月に1号が若松と仲間割れして軍団を脱退し、スーパー・ストロング・マシーンと改名してベビーフェイスに転向。ほどなくして新日本プロレスを離脱し、マシーン軍団も一時消滅したが、同年8月開幕の『チャレンジ・スピリット'85』において、アンドレ・ザ・ジャイアントがジャイアント・マシーン、マスクド・スーパースターがスーパー・マシーンに変身して若松と共闘。1シリーズのみの変身だったものの、このアングルは当時すでに新日本との業務提携を解消していたWWFにも注目され、ジャイアント・マシーンとスーパー・マシーンは「日本出身」という設定のもと、ビッグ・マシーン(ブラックジャック・マリガン)を加えた覆面ユニットとして1986年下期にWWFに登場している。マネージャーはルー・アルバーノが務め、ハルク・マシーン(ハルク・ホーガン)、パイパー・マシーン(ロディ・パイパー)、クラッシャー・マシーン(クラッシャー・リソワスキー)、アニマル・マシーン(ジョージ・スティール)なども単発的にメンバーに加わった。なお、若松もアンドレからWWF行きを誘われたが、テレビ朝日との契約のため断ったという。マシーン軍団の増殖ギミックは、のちに新日本マットを混乱させた海賊男や魔界倶楽部、さらには宇宙パワー、マミーなど、広くインディーにもみられる。なお、前述のシングルレコード『俺はKYワカマツだ 檄!』のB面タイトルは『ストロング・マシーン We are No.1』である。こちらの曲は、マネージャー・ワカマツに付きものの「カ・エ・レ! カ・エ・レ!」のコールで始まり、英語のラップ風歌詞の上から「ストロングマシーン! ウィーアーナンバーワン!」「ゴー・マシン・ゴー! ゴー・マシン・ゴー!」の若松のシャウト連呼がひたすら続くというもの。後半疲れたのかシャウトがトーンダウンする。2009年10月12日のNHK-FM「今日は一日プロレス・格闘技テーマ曲三昧」において、当時のIWGPヘビー級チャンピオンの中邑真輔のリクエストにより放送された。
出典:wikipedia
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