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大山ねずの命神示教会

(おおやまねずのみことしんじきょうかい)は、神奈川県横浜市南区宮元町4丁目82番地に本部を置く宗教法人である。神の名前であるとともに、教会名にもなっている「大山ねずの命」の「ねず」は、「」に似た文字で、「氏」の横棒がない字()であるが、表示することが難しいため、以下平仮名で表記する。なお、記紀神話に登場する「大山祇神(おおやまづみのかみ)」とは関わりがない。神社本庁や大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)などとも無関係である。派手なマスコミの宣伝や、強引な布教活動を行わず、もっぱら家族、親族、知人への口コミにより、地道な布教で今日に至っている。行事や勉強会は全て無料で、極めて良心的な運営がされており、「新興宗教は、営利が目的」と言われる中で、特異な存在といえる。新宗教団体が攻撃の対象とされやすい特性の極めて少ない教団と言われる。それでいながら、教団信者には顕著な人格の向上が見られ、個別化の進んだ現代社会に適応した心直しの教団として成功していると評される。1946年(昭和21年)11月15日、横浜市南区宮元町で、大山ねずの命の御魂を宿した赤子が生まれる。森日出子(1946年-2002年)、後の供丸姫である。同じ頃、咽喉がんで生死のふちをさまよっていた、大山ねずの命神示教会の創始者となる稲飯定雄(1905年-1988年)、後の供丸斎の夢の中に女神が表れた。神は、「命が欲しければ、神にすがれ。神の教えを世に伝えよ」と言われ、夢から覚めると、水を飲んでも楽に通るようになり、命が救われたことを知った。1948年(昭和23年)9月23日、稲飯定雄は、神から「大山ねずの命の名を世に広め、神の力によって大衆を救助せよ」との言葉を受ける。その日から神の教育が始まり、1952年(昭和27年)に宗教法人の認可を受け、翌1953年(昭和28年)9月23日に、横浜市西区戸部町に大山ねずの命神示教会を設立する。その際、神から「使者供丸斎」の称号を与えられる。使者の称号と併せて、「神示人相鑑定官」の肩書を受けた供丸斎は、経営する銭湯の一角に6畳の神前を設け、そこで訪れる人々の相談に乗った。「よく当たる神様」と評判になり、毎月23日に浴室を開放して行う講話には、入りきれないほどの人が集まるようになった。供丸斎は有力な信者を支部長にし、横浜を中心に多くの支部が生まれて、神示教会は発展していった。横浜市南区で代々地主として知られた森家に生まれた日出子は、兄(後の教会長)、弟(後の供丸光)と共に健やかに成長したが、中学生の頃から病がちとなる。やがて原因不明の病に侵され、20歳で医師から、余命いくばくもないことを宣告される。その折、大山ねずの命の存在を知り、家族中が信者となって、命を救われる。1967年(昭和42年)2月4日、御礼のために戸部総本部を訪れた日出子に、供丸斎は、神の運命であることを告げる。その言葉を裏付けるように、その年の7月には神から神示を受けられるようになり、2年後には宮元支部の支部長として頭角を現していく。そんな中で、神示教会にとって一大事件が起きる。横浜市内の有力な支部の支部長が、女性信者への暴行容疑で逮捕され、供丸斎も警察の聴取を受ける事態となり、それが週刊誌等に報道されたことから、教会信者に動揺が広がった。この事件を利用し、供丸斎の妻(供丸嬢)や教会幹事長による供丸斎の排除も計画された。一連の事件は、森日出子の迅速な処置により、速やかに混乱が治まった。森日出子の弟の依頼を受けた弁護士沼野輝彦(後に教会法律顧問、法学者)の活躍で、事件は不起訴処分となり、供丸斎の潔白も証明された。供丸斎の排除を計画した教会幹事長は教会を去り、妻は教会運営から遠ざけられた。1975年(昭和50年)に、神から「副使者供丸姫」の肩書を受けた森日出子は、3年後には教会監査役となり、教会運営の中心となっていった。供丸斎、供丸姫は、信者を私物化するなどの弊害を生みやすかった支部制度を廃して、教会を一元化し、教会信者数は、約10年の間に、5万人から十倍以上に大発展を遂げた。1987年(昭和62年)には、教会本部が西区戸部町から、供丸姫の生家のある南区宮元町に移り、「神総本部(しんそうほんぶ)」と称される。付近には次々と教会の建物が建ち、大勢の信者が訪れるようになった。そうした中で、供丸姫は、1985年(昭和60年)に「使者」、翌年に「直々の使者」、いわゆる「直使(ちょくし)」となり、1987年(昭和62年)11月15日には、神の御魂が封じ込められた、神そのものの存在であることが明かされた。この日は、教会にとっての聖なる日、聖日(せいび)とされ、この年を紀元とする教会暦が制定された。供丸斎は、自身が目指した教会の実現した姿に満足し、翌年に亡くなった。現在は、大山ねずの命の側近の神である代神(だいしん)として、「大山ねずの命の代神供丸斎命(ともまるさいのみこと)」と呼ばれている。それから15年後の2002年(平成14年)9月、救いの道筋を完成した供丸姫は、神の世界へと戻った。それからは、「大山ねずの命の神魂(しんこん)」として、神と人間との橋渡しとなっている。2002年(平成14年)9月からは、教会の組織長である神主教会長(しんしゅきょうかいちょう、供丸姫の実兄)と、教会教義を説き、信者教育を担当する教主正使者供丸光(きょうしゅせいししゃともまるこう、供丸姫の実弟)、そして2人を補佐する神奉仕供丸清(しんほうしともまるしょう、教会長の長男)の3人体制で、教会を運営している。現在は、教主正使者供丸光が神示を受け、一つ一つを解析して、人々の豊かな心を育んでいる。神の教えを守ることによって、神から授けられた自分の運命が輝き、悔いのない人生を送ることができるとされる。信者は、教団本部のある神奈川県を中心に、東京、千葉、埼玉などの近県をはじめ、北海道から沖縄まで、全国各地に分布している。教会施設は、横浜市営地下鉄蒔田駅周辺に、神殿や教育会館、儀式会館、食堂など、多くのビルがあり、全国に「偉光会館(ひかりのやかた)」と呼ばれる施設も32カ所ある。納骨施設は、神奈川県湯河原町の他、11カ所の偉光会館にも併設されている。信者数は、85万人となっている。教会教義の中心は、供丸斎の時代から説き続けられている神、仏、人の道である。神の道は、朝夕、また事有るごとに神に祈願し、神の教えに沿って生活する。仏の道は、故人、先祖にお願い事をするのではなく、親、先祖、目上に感謝の心で暮らし、安心感を与える。人の道は、人との調和を保ち、人と支え合って暮らすことである。供丸姫は、どのような人の心も救うことのできる「希望の光(きぼうのみち)」と、繰り返し仕合せな人生に生まれることができる「真実の光(しんじつのみち)」を表し、救いの道を確立した。海外では、在留邦人信者を中心に、カナダのバンクーバーやカルガリー、アメリカのニュージャージーやロサンゼルスで勉強会が開かれ、本部の職員が出向くこともある。

出典:wikipedia

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