信太郡(しだぐん)は、茨城県(常陸国)にあった郡。『常陸国風土記』によると、白雉4年(653年)、小山上物部河内、大乙上物部会津らが、惣領高向の大夫らに請いて、筑波と茨城の郡の700戸を分かちて信太の郡を置けり、この地はもと日高見国なり、とされる。後の『和名類聚抄』には、大野・高久・小野・朝夷・高田・子方・志万・中家・嶋津・信太・乗浜・稲敷・阿弥・駅家の14郷が載せられ、郷は即ち里であり五十戸なので、『常陸国風土記』の700戸と整合し14里の郡であったことが判る。これは行方郡の15里、700戸と同等であり、香島郡の3倍である。また、行方郡など他の常陸国の豪族には壬生氏の名が上げられることが多いが、当郡では物部氏が上げられ、香取海の対岸の下総国との関係をうかがわせる。式内社に楯縫神社と阿彌神社があり、香取・鹿島両神宮との関係もうかがわせる。『将門記』には平良兼が、上総国武射郡から下総国香取郡の神前の津(神崎町)を経て、当郡の苛前の津(江戸崎町)に渡り、良正がいる水守へ向かったとあり、桓武平氏将門流の信田氏の本拠地でもあった。1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。
出典:wikipedia
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