道祖王(ふなどおう、生年不詳 - 天平勝宝9年7月4日(757年7月24日))は、奈良時代の皇族。天武天皇の孫で、一品・新田部親王の子。天平9年(737年)藤原四兄弟の相次ぐ死去に伴って、朝廷の新体制構築に向けて叙位任官が行われた際、無位から従四位下に直叙され、翌天平10年(738年)散位頭に任じられる。天平12年(740年)従四位上に叙せられ、のち中務卿を務めた。天平勝宝8年(756年)5月に聖武上皇は死に臨んで、道祖王を孝謙天皇の皇太子に立てることを遺詔した。しかし翌天平勝宝9年(757年)3月になって孝謙天皇は群臣を招集し、聖武上皇への服喪中にかかわらず、淫らで勝手気ままな気持ちがあり、教え戒める勅にも悔い改めることがなかったことを理由に道祖王の皇太子を廃することの是非を問うた。これに対して右大臣・藤原豊成を始めとする群臣は一致して廃太子に反対しないことを奏したため、道祖王は皇太子を廃された。同年4月に後継の皇太子に大炊王(のちの淳仁天皇)が立てられた際に、孝謙天皇は勅して以下の理由を挙げて、道祖王の廃太子を正当化している。同年7月に橘奈良麻呂の乱が発覚すると、奈良麻呂らが擁立しようとした天皇候補(塩焼王・安宿王・黄文王・道祖王)の中に道祖王の名があったため、朝廷の兵士に右京の邸宅を包囲され、捕縛された。道祖王は「麻度比」(まどひ=惑い者の意)と改名させられた上、同時に捕縛された黄文王、大伴古麻呂、多治比犢養、賀茂角足らと共に杖で激しく殴打される拷問を受けて獄死した。『続日本紀』による。
出典:wikipedia
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