臺與(生没年不詳)は、日本の弥生時代3世紀に『三国志 (歴史書)』、魏志倭人伝中の邪馬台国を都とした倭の女王卑弥呼の宗女にして、卑弥呼の跡を13歳で継いだとされる女性である。魏志倭人伝中では「壹與」であるが、後代の書である『梁書』『北史』では「臺與」と記述されている。「台与」は「臺與」の代用。臺與の表記・読みについては異説が多く詳細は後記。『三国志』魏書東夷傳の倭人之条、(通称魏志倭人伝、陳寿編纂、3世紀・晋代)では2写本系統とも「壹與」と記載されている。発音は「い(ゐ)よ」か?。新字体では「壱与」。『梁書』諸夷伝 倭(姚思廉編纂、636年・唐代)、『北史』東夷伝(李延寿編纂・唐代)などに記述。新字体では「台与」。「臺與」を「とよ」と読むのが通説となっているが、これには議論がある。魏志の編纂が後者二書に比べ大きく先行している。三書はいずれも『魏略』を元にしていると考えられる。『魏略』には他の書に引用された逸文が残っているが、そこには該当部分は存在しないため正確にはどう書いてあったのか不明である。魏志倭人伝によると、とされる。張政が倭に渡った正始8年から卑弥呼の死と壹與の王位継承は、それ程年月が経っていないと思われる。『日本書紀』の神功紀に引用される『晋書』起居註に秦始2年(266年)に、倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。卑弥呼#神功皇后説にもあるように、江戸時代にはこの女王は卑弥呼と考えられていたが、卑弥呼は249年(正始10年)までに逝去(『梁書』)してしまっていることから、近年ではこの倭国女王は台与のことであると考えられている。なお、この正始10年(4月に改元されて嘉平元年)(249年)は、中国では曹操に始まる曹氏の魏から、司馬懿に始まる司馬氏の晋へ禅譲革命が行われる265年12月(泰始元年)に至る契機となった年である。この朝貢の記録を最後に中国の史書から邪馬台国や倭に関する記録が途絶え、次に現れるのは150年の後の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)である。台与と後のヤマト王権との関係は諸説あってはっきりしない。人物の比定については諸説ある(#人物の比定についての議論を参照)。台与を誰に比定するかという議論は、卑弥呼が誰であるかという議論、邪馬台国がどこにありどんな国家に受け継がれていったかと言う議論と、切り離すことができない。崇神天皇の皇女である豊鍬入姫命に比定する説。天皇の命で天照大神を祭った初代斎宮が臺與に当たるという説であり、この説の場合は卑弥呼を倭迹迹日百襲媛命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)と比定することが前提だが、卑弥呼を倭迹迹日百襲媛命に比定する説は箸墓古墳の研究などから勢いを増している。神功皇后の妹の豊姫に比定する説。肥前国風土記の神名帳頭注に「人皇卅代欽明天皇の廾五年(564年)甲申、肥前國佐嘉郡、與止姫神鎭座。一名豐姫。」とあり、與止日女神社の祭神。一説には、「日本神話の天の岩戸伝説の前後の天照大神(アマテラス)は別の人物であり、それぞれ卑弥呼と台与である」として「アマテラスを誰に比定するか」という議論とともに考えようとするものがある。卑弥呼没年前後1月の皆既日食によって岩戸隠れの故事を説明しようとする説である。卑弥呼をアマテラスに比定する場合の説。万幡豊秋津師比売(ヨロヅハタトヨアキツシヒメ)は高御産巣日神(タカミムスビ)の娘。アマテラスの息子アメノオシホミミと結婚し、アメノホアカリとニニギの母となった。アマテラスの極めて近い親族で名前の中に「トヨ」の文字がある彼女を臺與に比定する説で、安本美典が『新版・卑弥呼の謎』(講談社現代新書)で述べている。彼女はアマテラスが主祭神である伊勢神宮の内宮の相殿神の一人であり、安本はそれをこの説の根拠のひとつとしている。尾張氏、海部氏の祖彦火明、七世孫建諸隅命の子、天豊姫を臺與とする説。この人の二世代前に卑弥呼と思われる、日女命がある。
出典:wikipedia
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