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宇多郡

宇多郡(うだぐん)は、明治29年(1896年)まで福島県浜通り北部にあった郡。令制国下では陸奥国(のち磐城国)に属す。明治12年(1878年)当時の郡域は、現在の相馬市・相馬郡新地町にあたる。『先代旧事本紀』中の「国造本紀」では、7世紀前半までこの地方は浮田国造の支配下にあったとされている。大化の改新後に陸奥国が設置されると浮田国造の領土は分割され、宇多川流域が宇多郡に、新田川流域が行方郡になった。黒木田遺跡(相馬市中野)が宇多郡の郡衙と推定されている。『和名類聚抄』には「宇太郡」とあり、飯豊・仲村・長伴・高階の4郷が載せられている。江戸幕府の成立により、宇多郡内の相馬領は中村藩領、伊達領は仙台藩領として確定された。この後二百数十年間にわたって別の藩領に属したことで、相馬市域(中村藩領)と新地町域(仙台藩領)とでは文化・習俗等の面で異なる点が多々ある。初代宇多・行方郡長を務めた大須賀次郎(筠軒)は、着任直後の明治12年(1879年)に宇多郡内を巡察した際の感想を「今日巡視する処、真弓組・谷地小屋組八村及び駒ヶ嶺村の如き、仙藩に属する処なり。習慣の風俗、自ら相馬の旧封の人民と異なるものあり。言語の如きも判然別あり」と記している。『旧高旧領取調帳』に記載されている幕末時点での支配形態は以下の通り。(51村)宇多郡の仙台藩領9か村は基本的に亘理郡と一体に扱われ、代官・大肝煎の職も亘理・宇多二郡の計35か村を一人が担当する体制であった。郡内9か村のうち、藩境南端の最前線に位置する駒ヶ嶺村は駒ヶ嶺城主の知行地に充てられ、領主は新田氏→富塚氏→宮内氏と交替して幕末に至っている。駒ヶ嶺村を除く8か村の大部分は寛永7年(1630年)に亘理城主・伊達成実の知行地となり、新地要害には亘理伊達氏の城代家老が配置された。宇多郡の中村藩領42か村のうち、藩庁・中村城のある中村以下40か村は宇多郷に属し、玉野・笹町の2か村は行方郡・標葉郡の山間部(飯舘・津島など)と共に山中郷に属した。また、玉野村には一部天領が含まれており村全域が中村藩の所領ではなかった。

出典:wikipedia

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