阿部 正喬(あべ まさたか)は、江戸時代中期の大名、老中。武蔵忍藩主。忠秋系阿部家4代。寛文12年(1672年)4月28日、忍藩主・阿部正武の嫡男として生まれた。家督を継ぐ前から元禄12年(1699年)に奏者番、寺社奉行を歴任し、武蔵・相模国の内1万石を与えられ諸侯に列する。宝永元年(1704年)10月、父の死により家督を相続した。この時、弟の正晴に新墾田5000石を分与し自らは10万石を領している。また、以前に領していた1万石は収公され、奏者番と寺社奉行の職を解かれた。宝永7年(1711年)4月に老中となり、在任中は正徳金銀鋳造の総奉行(1714年 - )、ならびに7代将軍徳川家継と八十宮吉子内親王(霊元法皇の皇女)の婚姻の総奉行(1716年)、長州藩と徳山藩の争論(万役山事件)の審議を担当している。享保2年(1717年)9月、ちょうど享保の改革の直前に老中を辞任した。その後30年以上は藩政に専念する。正喬の代ごろから忍藩は財政難に見舞われるようになり、寛保2年(1742年)8月2日には江戸期を通じて最大の洪水が忍を襲う。すなわち利根川と荒川が決壊し、藩領10万石のうち6万石が収穫不可になる未曾有の災害を受け、幕府より1万両拝借を余儀なくされている。藩主になってから44年経った寛延元年(1748年)に隠居し、寛延3年(1750年)に79歳で死去した。長男の正秋は病気のため廃嫡、三男の正直は正喬に先だって死去し、五男の正敏もきわめて若年だったため、隠居後は実弟で分家の旗本・阿部正晴の長男正允が養嗣子となり家督を継いだ。
出典:wikipedia
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