太田駅(おおたえき)は、群馬県太田市東本町にある東武鉄道の駅である。駅番号はTI 18。1909年(明治42年)2月17日に東武伊勢崎線が足利町駅(現・足利市駅)から当駅まで延伸したのに伴い、開業したのが始まりである。開業当日は駅前広場で三横綱を招請して大相撲が行われるなど記念行事が行われ、盛況となった。1910年(明治43年)3月27日には東武伊勢崎線が当駅から新伊勢崎駅まで開通し、中間駅となった。人車軌道を運営していた藪塚石材軌道が太田軽便鉄道に改称して建設を進めていた路線を1913年(大正2年)3月5日に東武鉄道が買収し、同年3月19日に桐生線として当駅から相老駅間が開通した。1927年(昭和2年)10月1日に東武伊勢崎線の館林駅 - 伊勢崎駅間、1928年(昭和3年)3月1日には桐生線の当駅 - 相老駅間と当駅周辺の路線が相次いで電化された。近隣の大光院の一角にあった東武鉄道所有の博物館で中島知久平が設立した飛行機研究所が中島飛行機として急速に拡大して太田が工業都市として発展したため、1941年(昭和16年)4月に総工費16万円を掛けた2階建て延べ建坪585坪の新駅舎が竣工し、当時東武線随一とも言われた新駅舎の2階には貴賓室、大衆食堂が配置された。同年6月1日には小泉線が中島飛行機小泉製作所への輸送を目的として当駅から小泉町まで開通するなど整備が進められた。この小泉線の開通により、伊勢崎線(本線)・桐生線・小泉線(支線)の3路線が乗り入れることになった。しかし、中島飛行機がアメリカ軍による空爆の主要な対象の一つとなっており、1945年(昭和20年)4月4日に空襲を受けた。この空襲では、駅舎などの建物約1,067坪が全焼し、線路約350mに加えて電車線が約250m、送配電線約2,600m、通信線約23,000mが破壊された。その後、バラックの駅舎で仮復旧し、1954年(昭和29年)2月に新駅舎を開設して本格的に復旧した。当駅の南側は水田地帯であったが、「九合地区土地区画整理事業」として整備が進められ、1966年(昭和41年)12月に南口を開設した。高架化される前は、当駅の北側と南側は立体交差する車道と地下歩道のみで接続しており、町が分断される形となっていた。島式ホーム3面6線を有する高架駅。1 - 4番線と7 - 10番線はそれぞれ同じ線路を共有しており、館林寄りを1 - 4番線、伊勢崎寄りを7 - 10番線として区切っている。7・8番線、9・10番線の入り口にもそれぞれ「ご案内カウンター」があり、。1913年(大正2年)度の年間旅客数は108,331人で、一日平均で約300人となっており、館林駅より利用者が多かった。2014年(平成26年)度の一日平均乗降人員は10,819人である。この値は東武線各線間の乗り換え人員を含まない。群馬県内の東武線の駅では館林駅に次ぐ第2位である。1991年(平成3年)度時点では一日平均乗降人員が14,000人を上回っていたが、その後2003年(平成15年)度まで12年連続で減少し、2002年(平成14年)度に10,000人を下回った。しかし、その後は横ばいから持ち直し、2012年(平成24年)度に再度10,000人を上回った。近年の一日平均乗降人員の推移は下表のとおりである。太田の中心地として発展し、最盛期の昭和50年代前半には当駅から半径500mに大型店が5店舗出店していた。大光院の門前町で、宿場町として栄えた。本町通り商店街は、太田市の中心商店街としても栄えた時期があったが、1996年(平成8年)8月に最後に残った大型店の十字屋も閉店した。行政機関も集まる地区であったが、1956年(昭和31年)4月19日に落成した太田市役所の移転が移転したのを皮切りに、駅の南側に相次いで移転して行政の中心地でなくなった。当駅の南側は水田地帯であったが、「九合地区土地区画整理事業」として整備が進められ、1966年(昭和41年)12月に南口を開設した。1956年(昭和31年)4月19日に落成した太田市役所の移転が移転したのを皮切りに、行政機関が相次いで移転してきた。店舗の廃業などの影響もあり、1991年(平成3年)から南口の利用者も減少に転じた。乗り場番号は設定されていない。北口ロータリーの駅出口から見て左側(西側)より発車。
出典:wikipedia
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