野上 弥生子(のがみ やえこ、本名:野上 ヤヱ(のがみ やゑ)、旧姓小手川、1885年(明治18年)5月6日 - 1985年(昭和60年)3月30日) は、日本の小説家。大分県臼杵市生まれ。フンドーキン醤油の創業家に生まれた。14歳の時に上京し、明治女学校に入学する。夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚した。『ホトトギス』に『縁』を掲載して作家デビューした。以来、死去するまで現役の作家として活躍し法政大学女子高等学校名誉校長も務め、「女性である前にまず人間であれ」の言を残す。昭和初年のプロレタリア文学が流行した時代には、社会進歩のための活動の中にあった非人間的な行動を追及した『真知子』を発表する一方で、思想と行動について悩む青年に焦点をあてた『若い息子』『哀しき少年』などを書き、また日本が戦争へ傾斜していく時期には、時流を批判した『黒い行列』(戦後、大幅に加筆して長編『迷路』に発展させる)と、良識ある知識階級の立場からの批判的リアリズムの文学を多く生み出した。中条(宮本)百合子や湯浅芳子とも交友を持ち、『真知子』は、百合子の『伸子』を意識して書いた作品であるといわれ1920年代の女性の生き方を描いた作品として日本文学に大きな位置を占めている。第二次世界大戦が勃発した時期にはちょうど夫とともにヨーロッパに滞在しており、その前後の紀行文『欧米の旅』(現在は岩波文庫全3巻)はこの時期の激動の証言としての価値も高い。戦後、弥生子は宮本百合子が中心人物であった新日本文学会に賛助会員として加わったがまもなく辞退している。しかし百合子との交友は続き、1951年に百合子が亡くなったあとも、命日には宮本家に花を贈ることを恒例としていた。宮本側からも1950年に亡くなった豊一郎の命日には、毎年花が贈られてきたという。戦後も知識人の生き方を問う作品は多く、戦時下には書けなかった『黒い行列』の続編『迷路』で、敗戦までの日本の知識層のさまざまな生き方を重層的に描き、その後は秀吉という政治的人間と芸術的人間・利休の葛藤を描いた『秀吉と利休』を発表した。最晩年には、自らの少女時代の周辺のひとびとから材料をとった『森』を執筆していたが後数章を残し完結には至らず、それが絶筆となった。また『迷路』が完結した後に舞台となった中国を訪問し、延安まで足を伸ばすなど行動力も旺盛であった。弥生子は昭和初期から約60年、北軽井沢の大学村に春から秋にかけて過ごしていた。最近では、同じく北軽井沢に隠遁生活を送っていた哲学者の田邊元と密かな恋愛関係にあったことが判明され、その往復書簡300通余りが『田辺元・野上弥生子往復書簡』として岩波書店から刊行されている。また、軽井沢町の軽井沢高原文庫には北軽井沢の山荘の離れ(書斎兼茶室)が移築されている。臼杵市には、弥生子の生家の一部を改装した記念館がある。京都大学教授でイタリア文学者の野上素一は長男、東京大学教授で物理学者の野上茂吉郎は次男、保守派論客で哲学者の長谷川三千子は東京大学教授で物理学者の三男野上耀三の娘、高野岩三郎、穂積陳重らは弥生子の遠戚にあたる。1985年3月30日、老衰のため99歳で大往生した。戒名は天寿院翰林文秀大姉、墓所は鎌倉の東慶寺にある。弥生子が亡くなる直前までの日記が全集に入っている。1956年の ハンガリー動乱に際しては、「ロシアといえば、 第二次戦争の後漸くできあがったハンガリアの人民民主政体が一度 独占資本家、地主、…軍人 の支配に逆転しようとするのを、 少々粗暴に引き戻そうとしたわけで…」と武力介入したソ連を擁護し、動乱により発生したハンガリー難民を救済しようとした日本ハンガリー救援会の活動を、「事件が起こるまで「ハンガリー」がどこにあるかすら知らなかった者が、にわかに地球儀を買いに走り、またにわかに募金活動をはじめだす光景に複雑な思いがする」、と批判した。
出典:wikipedia
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