マゴ(Mago、ギリシア語では Magon; とも)は、古代のカルタゴ人によく見られる姓名。この項目では特に、について述べる。マゴは、紀元前6世紀後半の事実上のカルタゴの指導者で、カルタゴ帝国の建設者。マゴ王朝の創始者となり、その一族は3代以上に渡りカルタゴを支配した。マゴ・バルカ(Mago Barca, 紀元前243年 - 紀元前203年)は、カルタゴの将軍。ハミルカル・バルカの末子、ハンニバルの弟。第二次ポエニ戦争においてしばしば重要な役割を担った。第二次ポエニ戦争中、マゴはハンニバルのイタリア遠征軍に加わり、主要な戦闘に参加した。紀元前218年のトレビアの戦いでは、騎兵を率いて決戦前夜に森に埋伏し、当日はローマ軍の後方を奇襲して勝利の一翼を担った。紀元前216年のカンナエの戦いの直後、マゴは戦勝報告と増援要請のためにカルタゴ本国に帰還した。この時、兄のハスドルバルが指揮するイベリア半島の戦線は、グナエウス、プブリウスのコルネリウス兄弟によって劣勢下にあった。そのため、カルタゴ政府は、マゴに援軍を率いさせてイベリアへ派遣した。その後、イベリアでのカルタゴ軍は少しずつ状況を好転させ、紀元前211年、ベティスの戦いでカルタゴ軍はコルネリウス兄弟を戦死させた。紀元前210年、プブリウスの息子である大スキピオ(スキピオ・アフリカヌス)率いるローマの援軍がイベリアに到着すると戦況は一変し、カルタゴ軍は敗退を繰り返すようになった。紀元前209年、カルタゴ・ノヴァ(現カルタヘナ)が大スキピオによって攻略された。紀元前207年、メタウルスの戦いでカルタゴ軍は大敗し、ハスドルバルが戦死した。ジスコーネが指揮権を継承し、マゴはその指揮下に入った。紀元前206年、イリッパの戦いでカルタゴ軍は再び大敗し、カディスまで後退を余儀なくされ、ほどなくマゴはカルタゴ本国へ逃げ帰った。紀元前205年、マゴはイタリアのハンニバルに援軍を届けるため、15000名の兵を率いて海路でイタリア北部のリグリア地方へ向かい、ジェノヴァに上陸した。しかし、ローマ軍に前進を阻まれ、マゴ自身も戦いで重傷を負い、マゴのカルタゴ援軍は3年間北イタリアから出ることができなかった。ハンニバルのカルタゴ帰還と前後してマゴも本国へ向かったが、戦傷が悪化して船上で死亡した。マゴ(Mago)は、カルタゴの将軍。第二次ポエニ戦争中、ハンニバルの部下として主要な戦闘に参加した。ハンニバルに信頼され、しばしば軍の一翼を任された。紀元前216年、カンナエの戦いで右翼のカルタゴ兵を指揮し、左翼のハンニバルと共同してローマ軍を包囲した。紀元前202年、ザマの戦いでは傭兵からなる歩兵戦列の一列目を指揮した。ザマの敗戦で戦死したとも言われている。
出典:wikipedia
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