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菅江真澄

菅江 真澄(すがえ ますみ、宝暦4年(1754年) - 文政12年7月19日(1829年8月18日))は、江戸時代後期の旅行家、博物学者。生まれは、三河国渥美郡牟呂村字公文(現在の豊橋市牟呂公文町)と伝えられる。本名は白井秀雄、幼名は英二といった。知之(ともゆき)、白超とも名乗った。父は秀真、母は千枝か。吉田町札木の植田義方に和学、和歌を学んだ。1770年頃から尾張藩の薬草園につとめ、1780年生家に戻った。その間丹羽嘉信について漢学・画技を、浅井図南から本草学・医学を修得した。各地をしばしば巡って紀行を執筆。一説には、これには植田義方というスポンサーがあり、彼が書いたものを本にして出していたともいう。1783年に30歳で故郷を出奔。刃傷などやましい事があったのではとも推測されるが、その理由は不明。故郷を離れてからも、郷里の知人に音信を知らせたりしているので、余程の事件があったものとは思えない。いずれにせよ、以来信越・東北から蝦夷地にいたる長い旅を重ねる。享和元年(1801年)に再度の秋田入りをした際には白井真隅と名乗ったが、文化7年(1810年)の日記『氷魚の村君』(ひおのむらぎみ)からは菅江真澄と名乗っている。旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。今日で言う文化人類学者のフィールドノート(野帳)のようなものであるが、特にそれに付された彼のスケッチ画が注目に値する。彩色が施されているものもあり、写実的で、学術的な記録としての価値も高い。彼は本草学をもとにして、多少の漢方の心得もあったという。著述は100種200冊ほどを数え、「菅江真澄遊覧記」と総称されている。この名前で平凡社の叢書・東洋文庫に収録され、2000年以降、同社の平凡社ライブラリーから5巻本として刊行されている。形態は日記・地誌・随筆・図絵集などとなっているが、内容は民俗・歴史・地理・文学・考古・宗教・科学など多岐にわたっており、特に近世後期の民衆の生活を客観的に記していることに特徴がある。菅江真澄は三河を出奔して1783年5月から1784年6月まで信濃国本洗馬村に逗留。その後、越後国を経て同年9月には出羽国庄内に至る。1785年さらに北上し、蝦夷地を目指したが天明の飢饉のため断念し奥州平泉をめざし南下した。平泉周辺にしばらく滞在した後、1788年再度蝦夷地への渡航を決意し北上した。念願の蝦夷地では、松前藩の庇護のもと各地を数年間漫遊し、数多くの記録を残した。1792年に蝦夷地を出て南部藩田名部に迎えられ、ここで数年を過ごす。1795年南部藩を去り、津軽藩に入る。1797年9月5日、弘前藩主津軽寧親によって開設されたばかりの藩校稽古館によばれ、薬事係に任命される。これは、弘前藩の山崎永貞(浪岡北畠氏の後裔の山崎氏出身。滝口館に住していた)によって推薦されたこともあるが、真澄の本草学の知識を利用し、弘前藩の薬草の自給自足をはかるためでもあった。真澄は藩医たちと薬草採取を行い、藩の期待に応えたが、1799年4月突如その任を解かれ、過去2年の報酬である金5百疋と盛岡藩を通っての帰国費用である5両が与えられた。しかし、真澄はその後2年間弘前藩領にいて、薬草収集の際やその後地元住民から見聞きした事柄をまとめた『岩木山物語』『善知鳥物語』『浪岡物語』を著した。村人に必要以上に接近し、見たことを丹念に記録したことによって、真澄は盛岡藩の間者ではないかと疑われた。少数の知人は弁護したが、結局身柄追放は動かず、真澄は1801年に3冊の本や弘前藩にいた時期の差し障りのある部分を没収され、弘前藩を追放されることになる。現在、没収されたこの部分の日記や記述した3冊の本は発見されていない。その後、1810年までは久保田藩(秋田藩)の北部や南部藩の鹿角地方を漫遊している。1811年、久保田藩金足の豪農奈良家を訪れた真澄は、久保田藩の藩校であった明徳館の学者、那珂通博(なかみちひろ)に出会う。那珂は領内の様子を書いた文章に自信がなく、真澄に密かに添削を頼んだ。これが縁となって真澄は藩主の佐竹義和から出羽六郡の地誌を作ってほしいと頼まれる。以降真澄は久保田城下に住み、藩主とも親交を持ち、久保田藩の地誌の作成に携わり、その後は久保田藩領から外に出ることはなかった。小説家の司馬遼太郎は、このことが真澄の書いた文章が散逸することを防いだと指摘している。秋田に住み始めた頃から、道士のような被り物を頭に被るようになった。これはそもそも吉田を出奔するに至った刀傷を隠すためではとも推測されたが、実際にはそのような傷はなかったといわれる。また、これは津軽藩を追い出された後の事であり、津軽藩で嫌疑をかけられたことを繰り返さないとそのような姿になったとも言われている。真澄は、以前は角館で亡くなったと言われていたが、神代村梅沢(現在の仙北市田沢湖梅沢)で病の床につき、そこで亡くなり、遺骸を角館の神明社に移して其処で死を公表して、その後秋田に運んだと考えられている。秋田市寺内にある菅江真澄翁墓は1962年(昭和37年)に秋田市史跡第一号に指定されている。真澄の著書は生存中の文政5年(1822年)に明徳館に献納された。明徳館の事業として編纂された『雪の出羽路 平鹿郡』『月の出羽路 仙北郡』も明徳館に献納された。1871年(明治4年)に明徳館本は佐竹家に移管され、1944年(昭和19年)には辻兵吉の所有となった。さらに秋田県立博物館に寄贈され現在に至っている。1957年(昭和32年)には『自筆本真澄遊覧記』89冊として秋田県有形文化財となり、1991年(平成3年)には国の重要文化財となっている。真澄没後に書斎に残された著書は墓碑建立に協力した人に形見分けされた。明治になって、これらは旧久保田藩士の真崎勇助によって収集され、のち栗盛教育財団に寄贈された。現在は、大館市立中央図書館蔵となっており、1958年(昭和33年)には『菅江真澄著作』47点として秋田県有形文化財に指定されている。このほか、全国各地や秋田県内の図書館や博物館に所蔵されている書籍等がある。豪農奈良家の別家の息子であった石川理紀之助も文書を収集している。また、書名は判明しているが、未発見本も数多い。秋田県立博物館には菅江真澄資料センターがあり、複製資料や映像で真澄の足跡を紹介する常設展示室、文献やDVDソフトを備えたスタディルーム、検索閲覧室などがある。著書名は万葉仮名で表現されており、同じ著書でも複数の表記の揺れがある。(この書の後の天明7年から天明8年5月までの行動は明らかになっていない。ただ、松島をさらに2度訪れて、福島の安積沼や安達ヶ原、都都古別神社を訪れたとも考えられる)(この年、現在の十和田市から三戸町、八戸市周辺を巡り、『千引の石』や『牧の夏草』を記述したと思われるが、これらは未発見本となっている)

出典:wikipedia

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