ソニー・ロリンズ(Sonny Rollins、1930年9月7日 - )は、アメリカ合衆国のジャズ・サックス奏者。本名セオドア・ウォルター・ロリンズ(Theodore Walter Rollins)。ハード・バップの代表的奏者。長年、歌心溢れるアドリブや、リスナーをリラックスさせるプレイは、今も多くのファンに支持されている。1930年9月7日、アメリカ合衆国のニューヨークで生まれた。7歳の頃、ルイ・ジョーダンのレコードを聴いてサックスに興味を持つ。9歳でピアノを、11歳でアルト・サックスを学び、高校時代にテナー・サックスに転向。この頃、ジャッキー・マクリーンやケニー・ドリューと一緒にバンドを組んでいた。また、大御所サックス奏者のコールマン・ホーキンスが近所に住んでおり、サインを貰うためにホーキンスの自宅に押しかけたこともあったという。その後本格的にプロの道に進み、1949年にレコーディングを初経験。同年、J・J・ジョンソンのレコーディングに参加し、初の自作曲「Audobon」を提供。更にバド・パウエルと共演。1950年、マイルス・デイヴィスと出会う。マイルスは、当時のロリンズに関して「既に伝説的で、多くの若いミュージシャンにとっては神様みたいな存在だった。バード(チャーリー・パーカー)と同じようなレベルでサックスを吹いていると言う連中もいた」と証言している。1951年1月17日、マイルス・デイヴィスのリーダー・セッションの傍ら、初めてバンド・リーダーとしてのレコーディングを行う。この時、ピアニストのジョン・ルイスが所用で帰ったため、マイルスが代わりにピアノを担当。それを機に、ロリンズはプレスティッジ・レコードとの契約を得た。なお、ロリンズが初めて自己名義で録音した「アイ・ノウ」は、後年になってアルバム『ソニー・ロリンズ・ウィズ・ザ・モダン・ジャズ・クァルテット』に追加収録される。その後も度々、バンド・リーダーとしての活動と並行して、マイルスのレコーディングに参加。1953年3月にマイルスのセッションに参加した時は、ロリンズが憧れていたチャーリー・パーカーとも共演し、その模様はマイルスの『コレクターズ・アイテムズ』で聴ける。1953年10月に行われたロリンズのリーダー・セッションでは、モダン・ジャズ・クァルテットがバックを務めた。1954年、音楽活動を停止してシカゴに引っ込むが、1955年11月、クリフォード・ブラウン=マックス・ローチ・クインテットの一員として活動再開。更に、ローチのサポートを得てバンド・リーダーとしても再起する。そして、1956年のリーダー・アルバム『サキソフォン・コロッサス』が高く評価され、一躍知名度が上がった。本作の収録曲「セント・トーマス」は、21世紀に至るまで、ロリンズのコンサートで重要なレパートリーとなった。その後はブルーノート、コンテンポラリー・レコード、リバーサイド・レコードなど様々なレコード会社に多くの録音を残した。この時期の代表作としては『ウェイ・アウト・ウエスト』『ニュークス・タイム』『ヴィレッジ・ヴァンガードの夜』『フリーダム・スイート』などがある。また、1957年11月29日、殿堂カーネギー・ホールでコンサートを行った。1950年代末には人気の絶頂にあったが、ロリンズは自分の演奏を見つめ直すため、突如引退。最初は近所の公園で練習に励んだが、苦情が来たため、練習場所をウィリアムズバーグ橋に移した。1961年11月に突然活動を再開し、ほどなくRCAビクターと契約。1962年初頭にはジム・ホールなどを従えて、久し振りの新作をレコーディング。アルバムのタイトルは、練習場所にちなんで『橋』となった。同年発表の『ホワッツ・ニュー』は、ラテン音楽からの影響をふんだんに取り入れた明朗な作品となったが、一方、ライブ・アルバム『アワ・マン・イン・ジャズ』では、ドン・チェリーなどと組み、前衛的なアプローチも見せる。1963年のニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演した際、ロリンズにとって憧れの存在だったサックス奏者コールマン・ホーキンスと共演し、ホーキンスをゲストに迎えたアルバム『ソニー・ミーツ・ホーク』も制作。同年、初の日本公演を行う。演奏のみならず、モヒカン刈りの頭で、日本のファンに強烈な印象を残した。ロリンズは後年、「僕は同じマイノリティ(アフリカ系アメリカ人)として、インディアンが抱えていた社会問題とは無縁でいられなかったから、衝動的に髪を剃った」と発言している。その後インパルス!レコードに移籍。1966年初頭、イギリス映画『アルフィー』の音楽を制作。同年制作した『イースト・ブロードウェイ・ラン・ダウン』が、ロリンズにとって1960年代最後のスタジオ・レコーディングとなった。1968年、2度目の日本公演を行い、日本のジャズ・ピアニスト菊地雅章と共演。同年、精神修行のためインドを訪れる。1969年秋、みたび活動を停止した。1972年、マイルストーン・レコードに移籍。復活作『ネクスト・アルバム』では、1960年代末から流行しつつあったエレクトリック・ジャズの分野に挑戦。1973年から1976年にかけて、日本人ギタリストの増尾好秋と共に活動。1977年のアルバム『イージー・リヴィング』は、スティーヴィー・ワンダーのカバー「イズント・シー・ラヴリー(可愛いアイシャ)」が話題となった。1981年、ローリング・ストーンズ『刺青の男』のレコーディングに参加。ストーンズのドラマー、チャーリー・ワッツは以前から生粋のジャズ・ファンで、ミック・ジャガーから「最高のサックス奏者は誰か」と相談され、ロリンズの名前を出したという。その結果、本当に共演が実現し、チャーリーは後年「目の前で吹いている姿が観られて感激した」と述懐している。この時、ロリンズが参加した「友を待つ」はシングルカットされ、全米シングルチャートで13位にまで上昇した。1985年7月19日には、ニューヨーク近代美術館で1時間近くに渡って無伴奏のサックス・ソロを演奏し、話題となった。その一部始終は録音され、ライブ・アルバム『ザ・ソロ・アルバム』として発売された。1986年、ジャズとクラシック音楽の融合に挑戦し、「テナー・サックスとオーケストラのための協奏曲」を作曲。オーケストラ編曲は、フィンランドの指揮者ヘイッキ・サルマントが担当。5月18日の東京公演で読売日本交響楽団を従えて初演され、その模様の一部はDVD『サキソフォン・コロッサス』で視聴できる。1989年の作品『JAZZに恋して』では、ロリンズを慕うサックス奏者ブランフォード・マルサリスと共演。2001年9月11日、ロリンズは世界貿易センターからわずか6ブロック先の場所で、アメリカ同時多発テロ事件を目撃。大きなショックを受けるが、妻の支えもあって、9月15日のボストン公演はキャンセルせずに敢行。ロリンズはメンバー紹介の後、音楽の素晴らしさや美しさについて改めて力説した。この模様は、2005年にライブ・アルバム『ウィザウト・ア・ソング (9.11コンサート)』として発売される。2005年、活動を縮小することを発表し、11月に再度日本公演を行う。その後、自主レーベルのドキシーを立ち上げ、2006年には6年ぶりのアルバム『ソニー・プリーズ』を発表。2007年9月18日、カーネギー・ホールで50周年コンサート(ロリンズ初のカーネギー・ホール公演から50年という意味)を行う。2008年、5月に再度日本公演を行う。1980年代以降のジャズ・シーンの代表的サックス奏者として知られるブランフォード・マルサリスは、「高校から大学にかけての時期、ロリンズ風に吹きたいと思っていたから、毎日のように聴いていた」と語っている。また、ロリンズは『ウェイ・アウト・ウエスト』など多くの作品で、ピアノ抜きのトリオ編成での演奏を試みた。サックスは構造上和音を出せないため、こうした編成でバンド・サウンドに厚みを出すのは難しいが、それで多くの名演を生み出したロリンズは、やはり希有のソリストと言える。作曲面でも、「エアジン」「セント・トーマス」「オレオ」などのスタンダード・ナンバーを生み出した。サックス奏者はもちろん、ビル・エヴァンスやマル・ウォルドロンなどのピアニスト、ウェス・モンゴメリーやジム・ホールなどのギタリストも、ロリンズの作品を取り上げている。また、カリプソやボサノヴァといったラテン音楽を、早くからジャズと融合させていたことも特筆すべきである。文学の分野でも、ロリンズへの敬意が伺える作品が存在する。筒井康隆の『ジャズ小説』(文藝春秋、ISBN 416718110X)は、短編小説『ソニー・ロリンズのように』収録。書籍・ムックサイトオリジナル英文ライナー・ノート
出典:wikipedia
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