


マドリード()は、スペインの首都である。マドリード州の州都であり、マドリード州の唯一の県であるマドリード県の県都でもある。人口は約325万人。2011年の都市圏人口は541万人であり、世界第57位、欧州では第5位である。紋章はイチゴノキとクマ。スペイン中央部のメセタ地帯のマンサナーレス川沿いに広がる。近郊にはモストレス、アルカラ・デ・エナーレス、ヘタフェなどの都市があり、マドリード首都圏を形成している。2014年にアメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第15位の都市と評価された。ヨーロッパではロンドン、パリ、ブリュッセルに次ぐ第4位である。スペイン語では、Madrid の発音は本来「マドリード」 (太字はアクセント)であるが、実際には語末の「d」はほとんど発音されず、「マドリー」となるのが通常である。また、マドリード首都圏の発音では、語末の「d」を無声ので発音して、「マドリース」となることがある。なお、スペイン語に長母音はなく、カナ表記の長音符はアクセントのある母音がやや長くなっていることを示しているにすぎない。一方、英語等の発音から「マドリッド」ともいう。漢字による当て字は馬徳里。マドリードの地には先史時代から人間が住んでいた。古代ローマ時代にはコンプルトゥム(現在のアルカラ・デ・エナーレス)の司教管区に属していた。マドリードが最初に歴史の記録に残されたのは、9世紀に後ウマイヤ朝のが現在の王宮の位置に、小さな宮殿の建設を命じたときである。この宮殿のそばには小さな要塞が建てられた。近くのマンサナーレス川はアラビア語で「アル・マジュリート」(、「水の源」の意)と呼ばれ、そこからこの地は「マジェリト」と呼ばれるようになり、現在の「マドリード」となった。1085年に要塞はトレドに向かう途上のアルフォンソ6世に征服され、モスクは教会に建て替えられた。1329年、フェルナンド4世に助言するための最初の議会(コルテス)がこの都市で開かれた。セファルディム(ユダヤ教徒)やイスラム教徒もここに住み続けたが、15世紀の終わりに追放された。エンリケ3世の時代には、都市は大火のあとに再建され、王は城壁外のエル・パルドに住んだ。カスティーリャ王国(首都トレド)とアラゴン王国(首都サラゴサ)が連合したのち、16世紀にカルロス1世の元でスペイン王国としての融合が進んだ。1561年にフェリペ2世が宮廷をマドリードに移した。王の公式な宣言はなかったものの、宮廷の位置が事実上の首都となった。マドリードが首都とされたのは、国土のほぼ中央にある地理的条件や、水が豊富で気候が穏やかだったことによるとされる。1601年から1606年の短期間、フェリペ3世が宮廷をバリャドリッドに移したが、1606年に再び首都はマドリードに戻った。スペインの黄金時代にマドリードは新大陸から流入する富によって栄え、ミゲル・デ・セルバンテスを筆頭に、ロペ・デ・ベガ、フランシスコ・デ・ケベード、ルイス・デ・ゴンゴラ、ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカなどの文人や、宮廷画家ディエゴ・ベラスケスといった芸術家がマドリードを拠点として次々と作品を発表していき、文化の一中心となっていた。18世紀にフェリペ5世は、ヨーロッパの首都としてふさわしいようにマドリード王宮を含む新しい宮殿の建設を行ったものの、マドリードが近代的な都市となったのは、カルロス3世の代であった。彼の時代に、当時の市街の東端にあった王室の土地がレティーロ公園として整備されて市民に開放され、また現在プラド美術館として使用されている建物が建設された。マドリードの歴史の中でもっとも人気のあるカルロス3世は「最良の市長であり王」と呼ばれた。カルロス4世が即位すると、マドリードは反乱を起こした。1808年、息子のフェルナンド7世に率いられたアランフエスの蜂起のあと、カルロス4世は退位し、スペイン王家はフランスに追放されて、ナポレオンの兄であるジョゼフ・ボナパルトがホセ1世としてスペイン王位に就くこととなった。5月にナポレオン・ボナパルトの部隊がホセを王位につけるためにマドリードに入城した。5月2日、これに反発するマドリード市民はフランス軍に対して反乱を起こしたが、鎮圧された。この時の光景を画家フランシスコ・デ・ゴヤが描いたものが、『マドリード、1808年5月3日』である。しかしこの蜂起はスペイン全土に波及し、1814年まで6年間にわたって継続するスペイン独立戦争の口火を切る形となった。1814年に最終的にナポレオン軍は敗北し、フェルナンド7世が王位に復帰したが、復帰したフェルナンドは極端に復古的な政治を行ったため、19世紀の間は自由主義派と保守派の争いが続いた(カルリスタ戦争)。20世紀に入っても、マドリードは産業があまり興っておらず、経済的には非常に停滞していた。スペイン内戦(1936年 - 1939年)では、マドリード市内は戦場となった。マドリードは内戦が勃発した1936年7月19日から20日にかけて反乱軍の蜂起が起きたものの瞬時に鎮圧され、人民戦線の手に残された。そして内戦期を通じて人民戦線側に保たれ、バルセロナやバレンシアと並ぶ政府の拠点だったが、1936年11月、マドリードを奪取しようとするフランコ軍が猛攻撃を開始し、政府機能はバレンシアへと移された。この猛攻はしかし政府軍の抵抗によって食い止められ、以降マドリードは3年間抵抗を続けるものの、1939年3月28日に降伏した。この降伏によって共和国側は最後の拠点を喪失し、3日後の3月31日にはスペイン全土がフランコ軍によって制圧され、4月1日にはフランコがマドリードに入城して内戦の終結を宣言した。マドリードは初めて民間人を標的とした航空爆撃を受けた都市となった(を参照)。フランコ軍の勝利とともに、マドリードは再びスペインの首都となった。フランコの独裁時代の間、マドリードの南は工業化され、多くの移民が地方から流れ込んだ。マドリードの南東沿いにスラムが形成されたが、文化的・政治的な活動の舞台ともなった。フランコの死後、フアン・カルロス1世の下で民主化が進み、マドリードはイベリア半島の経済的な中心としての地位を固めた。1981年2月23日にはこの民主化の流れに反対するアントニオ・テヘーロ中佐らがマドリードの国会議事堂を占拠し、いわゆる23-Fと呼ばれるクーデター未遂事件を起こしたものの、フアン・カルロスの果断な対応などによって翌日に鎮圧され、以後民主化は一層進むこととなった。2004年3月11日、マドリード市内のアトーチャ駅など3つの駅でマドリード列車爆破テロ事件が発生し、191人が死亡し、2000人以上が負傷した。この事件は3日後の総選挙に大きな影響を与え、国民党が退陣してスペイン社会労働党に与党が移り変わる結果となった。マドリードは2012年夏季オリンピック、2016年夏季オリンピック、2020年夏季オリンピックの開催都市に立候補したが、いずれも開催地決定投票で脱落した。ケッペンの気候区分では、温帯に属する地中海性気候のCsaとなる。標高が667mと比較的高いことから冬はやや寒くなり、しばしば氷点下を下回ることがある。地中海性気候であるため降雨は冬に多く、10月から5月にかけて、とくに10月から12月と4月から5月に雨が多い。逆に夏は乾燥し、気温も30℃以上まで上がることがしばしばある。マドリードの2008年における都市GDPは2300億ドルであり、世界第26位である。欧州ではロンドン、パリ、モスクワに次ぐ第4位。アメリカのダウ・ジョーンズらが2013年に行った調査によると、世界32位の金融センターと評価されている。マドリード市議会は57人で構成される(過半数29議席)。1991年以降国民党から市長が選出されてきたが、2015年の総選挙で市民プラットフォームの地域政党(ポデモス支援)のアオーラ・マドリードが20議席獲得し、9議席獲得したスペイン社会労働党と連立することで同党のマヌエラ・カルメーナ・カストリージョが24年ぶりに左派市長が誕生した。国民党は21議席獲得したが、7議席獲得したシウダダノスと連立しても過半数にわずかに届かず、社会労働党との連立交渉も挫折し下野することになった。マドリード市内は21の行政区(distrito)に分けられ、行政区内はいくつかの地区(barrio)に分けられている。この行政区は伝統的な地区とは一致しない。各行政区は区住民が参加した行政区評議会()によって運営される。マドリードの現行の行政区区分けは1988年に行われ、現在以下の行政区と地区に分けられている:アドルフォ・スアレス・マドリード=バラハス空港が市内の北東12kmの位置にあり、地下鉄で結ばれている。ヨーロッパや南北アメリカ各国からの便が就航しているが、現在日本からの直行便はない。ターミナルは4つ(T1, T2, T3, T4)あり、行先によって使い分けられている。地下鉄にはT2(第二ターミナル)とT4(第四ターミナル)で乗ることができる。2006年12月30日には、テロによる爆破でT4の駐車場の一部が破壊された。レンフェ(スペイン国鉄)の主な駅としては、南部にアトーチャ駅、北部にチャマルティン駅がある。全部で9路線あり、通勤通学のための近郊列車セルカニアスのほか、アンダルシア州のセビリアやマラガ、カタルーニャ州のバルセロナ、カスティーリャ・イ・レオン州のバリャドリッド、カスティーリャ=ラ・マンチャ州の州都でマドリード遷都以前の首都であったトレドを結ぶ高速鉄道AVEが通じている。長距離路線が多く、駅のターミナルは、さながら空港のようである。荷物検査もあり、鉄道を利用する場合は、余裕を持って行動しなければならない(といっても空港とは違い、15分~20分ほど前に到着すれば問題ないが)。市内と郊外にはマドリード地下鉄が縦横に走っている。マドリード地下鉄の開業は1919年であり、最初の路線は1号線の一部の3.5㎞であった。マドリード地下鉄には13の路線と295の駅があり、総延長は280km以上に及ぶ。市内をほぼ網羅しており、市民、また観光客の足として活躍している。地下鉄当局によれば、一日に250万人、2009年には延べ約6.5億人が利用している。地下鉄網の発展は目覚しく、2007年春には、南北の新市街地を中心に大規模な拡張工事が行われた。新設されたライトレールの3路線を含め、新しく敷設される約81kmに79個もの駅が開業した。またこの一環で、バラハス空港第4ターミナルへの地下鉄乗り入れが実現している。マドリード・コンプルテンセ大学はスペインでもっとも大きく、伝統のある国立大学である。1499年にアルカラ・デ・エナーレスで創立されたが、その起源は1293年にさかのぼる。1836年にマドリードに移設され、1927年に現在の位置に移された。スペイン内戦でこの大学の地区は戦場となった。マドリードには、国際連合の専門機関である世界観光機関(WTO、UNWTO)の本部が置かれている。また、イベロアメリカ首脳会議を主催するイベロアメリカ機構の事務局や、大西洋まぐろ類保存国際委員会の本部事務局がマドリードにおかれている。マドリード市は、スペイン国内において人気の高い観光地の1つであり、幾つもの名所が存在する。マドリードは以下の都市と姉妹都市関係を結んでいる。
出典:wikipedia
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