八幡市(やはたし)は福岡県の北東部にかつてあった市。鉄鋼業を軸に、北九州工業地帯における重工業の中心地として栄え、1963年(昭和38年)に小倉市・門司市・戸畑市・若松市と合併して北九州市となり、消滅した。旧市域は区制によって八幡区となり、北九州市内の一区として発足したが、1974年(昭和49年)4月1日に八幡東区と八幡西区へ分割された。現在、京都府に同名の八幡市(但し、読みは「やわたし」)があるが、同市の市制施行は北九州市発足後(1977年)であり、両者が同時に存在した時期はない。市域は律令制下では筑前国・豊前国にまたがる地域だったが、廃藩置県によって福岡県に属した。1901年(明治34年)に、日本初の近代製鉄所である官営八幡製鐵所の建設地に選定され、以後はこの八幡製鐵所を軸に工業都市として飛躍的に発展し、「鉄の町」と呼ばれるようになる。太平洋戦争中の1944年(昭和19年)6月16日に、初めてB-29を使用した日本本土空襲の対象となる(八幡空襲)。空襲はこのあと同年8月20日におこなわれたあとは1年近くなかったが、終戦直前の1945年(昭和20年)8月8日の空襲で大きな被害を受けた。この空襲により発生した煙は、八幡市へもさらなる壊滅的打撃を与えたであろう小倉市への原子爆弾投下を妨げることとなった(詳細は「長崎市への原子爆弾投下」の項参照)。※1962年頃。上で述べたように、官営八幡製鉄所およびその後身の日本製鐵八幡製鐵所に代表される重工業を主幹産業とした。戦後(1950年以降)はこの日本製鐵が解体され発足した八幡製鐵と黒崎窯業(現・黒崎播磨)、安川電機などが市内の最有力企業として地域経済を牽引した。なお八幡製鐵が合併により新日本製鐵となったのは北九州市発足後の1970年である。戦前から1950年代にかけ、八幡市の中心地は中央町(当時は中央区という呼び方もされた)で、八幡製鐵所の東門があり、西鉄北九州線の枝光線との分岐点にもなっていたことから非常に栄えた。また八幡市に編入された黒崎(旧黒崎町)・折尾(旧折尾町)地区では商業が発達した。特に黒崎は1970年代初頭より一大商業地となり、北九州市の副都心と位置づけられた。北九州市発足当時は新しい市役所の位置を、現在北九州市立総合体育館が建っている金比羅山付近に置くことにされていたが、現在の位置に置くこととなった。※北九州市発足以前の出身者。
出典:wikipedia
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