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太田川放水路

太田川放水路(おおたがわほうすいろ)とは、広島市を流れる太田川水系の本流で、治水のために造られた放水路。太田川下流域の洪水抑制のため、この地にあった山手川を拡幅した河川、つまり人工で造られた河川である。昭和初期から工事に入り戦中一時工事中断、戦後再び行われ、1967年(昭和42年)に完成した。北から流れてきた太田川本流が、左岸東区牛田・右岸安佐南区長束で旧太田川と分流し、西区内を南南西方向に向かって流れ、広島湾に注ぐ。延長約9km。なお河口は漁港漁場整備法により指定された草津漁港の区域である。児童文学『ズッコケ三人組』に出てくる「大川」はこの川がモデルであり、1960年代の放水路の様子が垣間見える。標準断面などは以下のとおり。放水路と旧太田川含めた市内派川(天満川・元安川・京橋川・猿猴川)の流量は、西区大芝にある祇園水門および大芝水門の2つの水門で調整している。ここより上流の安佐北区口田1丁目にある矢口第1水位観測所の観測値により2つの水門は連動し、平水時(平常時)は大芝水門を全開し旧太田川に水を流して市内派川が流量不足にならないようにし、洪水時(増水時)は逆に祇園水門を全開し放水路に水を流すようにして市内派川の洪水を防いでいる。完成から40年以上も経っていることから、一部で腐食が発生し老朽化が進んでいる。更にレベル2地震動に対する耐震基準を満足させるため、将来的には施設の改築が行われる予定となっている。またその構造上の原因で、分流地点中央で土砂堆積が発生(左写真参照)し、洪水時の分流量に少なからず影響を与えている。太田川下流域の広島デルタは、中世から活発となった踏鞴製鉄での鉄穴流しに伴う大規模な土砂流出によって下流域に堆積したことで形成されたと考えられている。つまり、太田川下流域の支川はこの時代から形成された。江戸時代以降は干拓事業、昭和時代以降は工業港としての広島港開発による埋立により、河口は沖合に伸びていった。昭和初期当時の太田川下流域は七派川あった。以下西側から、また明治時代以降、広島は大日本帝国陸軍第5師団が置かれるなど軍都として、広島高等師範学校以下高等諸学校ができるなど学都として発展し、市町村合併もあり人口が爆発的に増加した。安土桃山時代、広島城下が開発されて以降、この地を治めるものは治水対策を行なってきた。しかし対策は実らずたびたび洪水が発生した。江戸時代には1654年(承応3年)・1796年(寛政8年)・1859年(嘉永3年)と大規模な洪水が発生し、明治以降昭和初期までに1886年(明治19年)・1919年(大正8年)・1928年(昭和3年)をはじめとする7度の洪水に遭遇する。1919年から1928年までの水害による被害額は当時のお金で1,107万円にものぼり、流域住民により抜本的な改修が望まれていた。1927年(昭和2年)、内務省により太田川全流域の改修計画が作成され、この中で山手川と福島川を利用した放水路の開削が決定した。1932年(昭和7年)、帝国議会にて予算が了承され、国営工事(内務省直轄)として改修が着手され測量を開始し、1934年(昭和9年)から本格的な工事が着工した。当時の予定は、総工事費1,500万円で工期は15年。工事は太田川流域全体で行われ、そのうち下流域のみの工事内容は以下のとおり。1936年(昭和11年)、下流部の福島町・南三篠町の一部で用地買収が始まる。1944年(昭和19年)、太平洋戦争の戦況悪化によりに一時工事中断している。なおこの時点での放水路工事は、河口付近の浚渫と分流地点の護岸工事ぐらいで、ほとんど進んでいなかった。この戦前の工事中時期に、1943年(昭和18年)9月20日(台風26号)および1945年(昭和20年)9月18日(枕崎台風)と、計画高水流量を上回る洪水が発生している。また1945年8月6日広島市への原子爆弾投下により流域は荒廃と化している。1946年(昭和21年)、建設省(現国土交通省)により工事を再開しようとした。ただ戦前用地買収した福島町の国有地に、戦後のどさくさに紛れバラックが不法に建てられる。この住民や、山陽本線以北の未用地買収の地区住民、河口部の草津地区の漁業関係者、福島川の漁業権を持つ漁民により、それぞれで放水路工事反対運動が起こった。そのため、1950年(昭和25年)まで更に工事が中断された。1951年(昭和26年)山陽本線以北の補償が好転したことから部分的に工事再開したが、その工事の際に出た土砂流出により河口部の漁場が荒れたとして工事反対運動が再燃し1953年(昭和28年)再び工事中断となった。その後行政と住民とで協議を重ね、1954年(昭和29年)5月に草津地区漁業補償、1955年(昭和39年)1月に福島地区バラック立退、同年9月に福島川漁業補償が解決したことから、本格的な工事に入ることとなった。戦前の計画から、以下のとおりいくつか変更点があった。1961年(昭和36年)には大芝水門と祇園水門の工事開始、1965年(昭和40年)に通水開始し、1967年(昭和42年)に全工事竣工した。概算工事費は、当時の金額の1990年(平成2年)度換算で3,200億円。2005年(平成17年)9月7日(台風14号)に計画高水流量を超える洪水流量が発生したため分流地点での計画高水流量を8,000m/sに更新したことから、現状大きな洪水が発生した場合予定通り分派できない可能性が懸念されている。更に、1991年(平成3年)台風19号・2004年(平成16年)台風18号と市内派川で高潮被害にあったことから、洪水対策も合わせて、堤防の更新が進められた。また老朽化に伴い、施設の更新が行われている。護岸は、吸出し現象による空洞化も起こったことから補修が行われ、大芝・祇園水門を含めた付帯施設の老朽化および大規模地震対策のため、更新が考えられている。河川敷を利用した緊急用道路、緊急用船着場の整備も実施されている。水質は、環境省の水質汚濁に係る環境基準において「B類型」(BOD75%値 3.0mg/l以下)。上記の通り、人工的に造られた河川であることから、古くからある景勝は存在していない。流れ出る広島湾の潮汐差は約4mもあり、満潮時は分流地点を超えて海水が遡上する。つまり放水路全体が汽水域にあたり、潮流も緩やかに安定している。竣工から40年以上たった今では、一部で干潟や湿地が形成されその環境を好む生物が生息しており、管理する国土交通省も干潟保全に向けた動きを起こしている。以下、生態が確認されている生物である。河川敷は一部階段護岸や人工干潟など親水性護岸で整備されている。中流域から下流にかけて、ボート競技用のコースとして利用されている。2010年に計画されたヒロシマ・オリンピック構想では、ここをマラソンスイミングとトライアスロンの会場として用いる計画が挙がった。上流より記載。戦前からあった橋は放水路整備の際に架け替えられている。

出典:wikipedia

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