市川中学校・高等学校(いちかわちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、千葉県市川市本北方二丁目にある、学校法人市川学園が経営する私立中高一貫制男女共学校である。1937年(昭和12年)、教育者で東京府立四中教諭・主任であった古賀米吉が市川市八幡字新田(現:東菅野四丁目)に旧制中学校として市川中学校を開校させたことに始まる。現在は旧校舎と呼ばれる。戦後、旧制中学校が新制の高等学校に移行するとともに中学校が併設された。創立以来およそ70年間男子校であったが、2003年(平成15年)本北方への高校・中学校舎の移転に伴い、中学の共学化を開始、その第一期生が高校に進学する2006年(平成18年)年からは高校の共学化も実施された。略称が公立校と勘違いもされるが、「市川」、「市学」などである。なお、学校法人としては、市川高等学校・中学校の他に3ヶ所の幼稚園を経営している。高等学校では、中学校から入学した内部進学生徒と高等学校から入学した外部進学生徒との間で、第2学年から混合クラスを編成する併設型中高一貫校である。市川学園の教育方針は「個性の尊重」と「自主自立」である。これを実現するためにという三本柱を立てている。ちなみに「第三教育」とは、自分で自身を教育するということである。また、こういった教育方針は自由主義的な校風を念頭に置いたものである。年度始めには全員にシラバス(授業計画)が配布され、生徒が学習の流れをつかみやすいように工夫されている。1891年(明治24年)福岡県三井郡三国村に生まれる。9歳で父を失い、貧乏な母子家庭に育つ。旧制中学では野球部主将、剣道部大将など文武の道に励んだ。1915年(大正4年)福岡師範学校卒業。その後、経済的理由で上級学校に進めず、小学校教師として教える傍ら、学資を貯めて苦学する生活が続いた。 27歳で上京し、1922年(大正11年)東京外国語学校英語科卒業。その後、府立四中(現・都立戸山高校)の英語教師・主任として多くの生徒を旧制第一高等学校などの旧制高校へ送り込んだ。当時の府立四中は「天下の一中」と言われていた府立一中に肉迫あるいは凌駕する進学実績を挙げ、全盛期ともいえる時期だった。その間、自身も苦学し、1930年(昭和5年)東京帝国大学文学部社会学科卒業。卒業後、2年間ロンドン大学に留学。 イギリスで見たパブリックスクールの紳士教育を理想として1937年(昭和12年)に旧制市川中学校を創設した。以後、長く校長を務め、県下有数の進学校へと大きく発展させた。私学の振興・発展に対する永きにわたる功労が認められ、藍綬褒章、勲四等瑞宝章、従五位勲四等旭日小綬章。1983年(昭和58年)死去。享年92。 現在の理事長である古賀正一は1936年、東京生まれ。市川中・高を経て東京大学工学部卒業。1959年、東芝に入社。米国駐在、部長、常務、専務などを経て、1996年に代表取締役副社長に就任。副社長在任中には、東芝パソコン訴訟事件、東芝クレーマー事件などにも対処してきた。2001年、取締役を退任し、現在に至る。男子の制服は黒の詰襟で、黒ボタンが特徴である。黒ボタンは旧制中学時代からの伝統で、市川学園の校章である耳章がかたどられている。
出典:wikipedia
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