花紀 京(はなき きょう、1937年1月2日 - 2015年8月5日)は、日本の俳優、お笑い芸人。生前はよしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属した。本名、石田 京三(いしだ きょうぞう)。大阪府大阪市天王寺区出身。父は漫才師の横山エンタツ。エンタツの次男であるが、少年時代は笑芸に興味がなく、中学時代まで、父親が喜劇人エンタツであることを知らなかったらしい。また、父子は一度も共演していない。大阪府立阿倍野高等学校を経て関西大学入学後の1958年、麻雀仲間だった花登筺に弟子入りし、内海重典、大村準一らの指導を受け、OSミュージックホールにおける寸劇でデビューする。1959年には芦屋雁之助らとともに劇団・笑いの王国の旗揚げに参加。同劇団解散後、1962年に吉本興業入り。師匠・花登の「花」と自身の本名「京三」にちなみ、「ききょうの花」をひっくり返した「花紀 京」の芸名を名乗る。1963年には早くも吉本新喜劇の座長に抜擢され、岡八郎、原哲男、桑原和男らとの独特のボケ・ツッコミをくりひろげるコンビ芸で活躍する。同時に『てなもんや三度笠』などのテレビ番組にも出演する。岡とはのちに、漫才ブームの時期にテレビ番組でコンビを組んで漫才をしたこともあった。1989年、「新喜劇やめよっカナ!?キャンペーン」を開始した吉本新喜劇を退団。その後は多数の映画やテレビドラマに出演し、新境地を開拓した。2001年、ダウンタウン、東野幸治、ココリコ、ロンドンブーツ1号2号、山田花子、藤井隆、間寛平と期間限定ユニット「」を結成し、第52回NHK紅白歌合戦に出場した。2002年8月に脳腫瘍の摘出手術を受け、療養中だった2003年5月に自宅で入浴中、低酸素脳症を発症して、事実上の活動休止状態となった。2015年8月5日午後7時半すぎ、肺炎により入院先の大阪市内の病院で死去。満78歳没(享年79)。戒名は花幔京璨居士(はなまんきょうさんこじ)。など。内場勝則も新喜劇に入団後は花紀京に付いていた時期があり、師匠と弟子の関係に近い存在である。いずれも間寛平の弟子。など父の相方であった花菱アチャコを尊敬し、芸論について「何も知りまへん。アチャコ先生を真似ただけです」と語っている。新喜劇ではニット帽にシャツ、腹巻、ニッカーボッカーを着用し、目の下に隈を描き、鼻を赤く縫ったスタイルがトレードマークとなった。泥棒役や土木作業員役が主な役どころ。多くは、本名の「京三」を役名として使っていた。檀上茂によれば、花紀は突飛な身振りや珍語・奇声に頼るギャグを自分ですることを嫌い、やりとりで笑わせることを好んだ。下記は文章にすると伝わりにくいが、間の取り方が絶妙であった。二日酔い状態で肉うどんからうどん抜きでと注文し、肉吸を考案したといわれる。肉吸の項を参照。
出典:wikipedia
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