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名人 (囲碁)

名人(めいじん)は、囲碁の棋戦の一つである名人戦に優勝した棋士に贈られるタイトルである。織田信長が一世本因坊本因坊算砂(日海)の囲碁の腕を讃えて「そちはまことの名人なり」と称揚されたことに由来しているとされる。ただし、証明する資料は一切なく、また、算砂の師匠の仙也も存命であり弱冠20歳の算砂が「名人」と呼ばれたとは信じがたいとの主張がある。これがあらゆる分野で使われる「名人」という言葉の起こりとされる。ただし、鎌倉時代の『二中歴』("ca".1210–1221) にはすでに、囲碁と雙六の名人についての記述がある。また、『正徹物語』("ca".1450) にも「名人」の用例がある。のちに専業将棋棋士も、囲碁にならい名人という称号を使い始めた。江戸時代、幕府の家元制度の元で囲碁界を統括する立場として確立した。名人の地位に就いたもののうち、寺社奉行から許しを得て碁界の取りまとめ役となったものが「名人碁所」である。名人碁所は棋士全ての段位認定権を持ち、囲碁界の最高権力者であった。この地位をめぐり数々の死闘、暗闘が繰り広げられた。江戸時代から昭和初期に至るまでは九段が即名人を意味しており、天下にただ1人だけと定められていた。日本棋院が設立されて大手合による段位の認定が行われるようになり、本因坊秀哉名人引退後は、九段と名人の地位は別のものと定められた。1962年に創設されて1975年まで読売新聞社主催で開催、1976年から朝日新聞社主催で開催。読売新聞時代の名人戦は「旧名人戦」と呼んで区別されている(移管の経緯については後述)。現行名人戦はこの時から新たに「第1期」からカウントしているが、旧名人戦最後のタイトル者大竹英雄は移行時にもその地位は持ち越され、現行名人戦の第1期に挑戦者を迎えることとなった。名人戦の朝日移管後は、読売は棋聖戦を主催する。女流棋戦にも女流名人戦があり、また、韓国、中国、台湾にも同名の棋戦がある。9人が参加するリーグ戦を行い、一位になった者がタイトル保持者と挑戦手合七番勝負を行い、優勝者を決める。優勝賞金は3700万円。七番勝負は例年9月から11月にかけて、持ち時間8時間・2日制で、全国の高級ホテル・旅館を舞台として開催される。リーグは予選トーナメント勝ち抜き者3名、前期からの残留者5名、七番勝負敗者1名から成る。名人リーグは棋聖・本因坊リーグと並んで「黄金の椅子」とも呼ばれ、この3大リーグに参加することが一流棋士の証とされている。六段以下の棋士が名人リーグ入りを果たした場合、七段に昇段する。またリーグに優勝して挑戦権獲得が決まったら八段に、さらに名人位を奪取した場合九段へ昇段する。名人戦を五連覇、または通算十期以上獲得した棋士は、60歳以降に名誉名人を名乗る権利を得る。現在、名誉名人の称号を持つのは趙治勲・小林光一の2人で、小林は60歳を迎えた2012年より、趙は2016年よりそれぞれこの称号を名乗っている。本因坊秀哉名人引退後、本因坊の名跡は本因坊戦に継承されていたが、名人の地位については決まりがついていないままであり、大手合による九段昇段者が出たことでもその意味を明確化する必要性があった。将棋界では名人戦が創設されて人気を博しており、当然囲碁においても同様の形式が期待されてもいた。これは坂口安吾「碁にも名人戦つくれ」(1949年毎日新聞大阪版)にも現われている。日本棋院では1949年の「日本棋院囲碁規約」に「名人規定」を盛り込んだが、具体的な棋戦などは定めず、実際に当時の第一人者と目される読売新聞嘱託の呉清源を加えた棋戦の実現は難しい状況でもあった。1951年に朝日新聞が、呉清源、藤沢庫之助、橋本宇太郎、木谷實による四強争覇戦を企画したが、立ち消えとなる。1952年に朝日は大手合を発展させて将棋と同様の順位戦制度による名人戦を企画、呉清源にも出場の承諾を得て、契約金1千万円を提示した。日本棋院では渉外担当理事の高川格がこの推進役だったが、木谷實の「名人は作るものではなく、自然に生まれるまで待つべきもの」といった反対論も根強かった。棋士全員による評議委員会では1票差で賛成多数となったが、僅差であることを懸念した高川が三好英之理事長と相談の上でこれを撤回し、高川ら賛成派理事は辞任した。また朝日側の根回し不足から、関西棋院も不参加を表明。朝日はついに断念し、朝日・毎日・読売の新聞三社と日本棋院で、名人戦の呼称は使用しないことなどを申し合わせた。朝日はこの代わりとして1953年から最高位戦を開始、また読売新聞は1956年に「実力名人を決める」と謳った日本最強決定戦を開始する。その後日本棋院では、物価上昇に比べて棋戦契約金が増えず、また棋士の増加もあって財政難となりつつあった。1960年に渉外担当理事となった藤沢秀行は、この解決策として名人戦創設を計画する。藤沢はこの年の本因坊戦の挑戦者となるが、対局料が1局6万円という安さだったのもその意識に拍車をかけた。当初朝日新聞に提案したが交渉はうまくいかず、次いで読売新聞と交渉して契約金2500万円で話をまとめ、棋士総会でも70対4の圧倒的多数で承認された。こうして関西棋院、呉清源も参加する名人戦が創設される。しかし朝日新聞はこれを機に大手合、最高位決定戦のスポンサーを降りることとなった。名人戦スタート当初には「十番碁の覇者である呉清源を初代名人に推戴して始めるべきだ」との声もあったが、結局呉を含めた当時のトップ棋士13名による大型リーグ戦で第1期名人を決定することとなった。リーグ終盤には呉・坂田栄男・藤沢秀行の三者によるトップ争いとなったが、藤沢は最終局に敗れて9勝3敗でリーグ戦を終了。しかし藤沢が「プレーオフに向けて英気を養うため」酒を飲みに行っている間に、坂田-呉戦は終盤呉の猛追によりジゴでの終局となった(コミは5目であった)。規定でジゴは白勝ちとしていたが、通常の勝ちより劣ると決められていたため、呉と同率でありながら「半星」上回って藤沢が初代名人に輝いた。藤沢は渉外担当として名人戦設立に当たり、自ら名人位を手中にするというドラマチックな幕切れであった。第2期名人戦では、坂田栄男本因坊が藤沢秀行を破り、名人本因坊の称号を手にする。この時最終第7局での120手目のノゾキは「天来の妙手」と呼ばれ、名人位の行方を決定づけた一着として有名である。坂田は第3期も防衛の後、1965年第4期には23歳の林海峰八段が挑戦者となる。予想は当時全盛の坂田が圧倒的に有利であり、坂田は七番勝負1局目に勝った後、「20代の名人などありえない」との発言も出た。しかし林はその後盛り返して4勝2敗で名人位となり、一大センセーションとなった。林は1968年に本因坊位も奪って名人本因坊となり、坂田一強時代はここに終焉した。続く1968年の名人戦では53歳の高川格が林から名人を奪い「不死鳥」と呼ばれる。1973年には石田芳夫本因坊が林に挑戦し、3連勝と一気に林を土俵際に追い込んだ。しかし第4局、林は驚異の粘りでジゴ勝ちに持ち込むと、あと3番を制して防衛。3連敗4連勝は七番勝負史上初であった。しかし翌年は石田の再挑戦に敗れ、石田が名人本因坊となる。この間林は連続10期名人戦七番勝負の舞台に登場し、挑戦した時は全て奪取を果たすなど「名人戦男」の名をほしいままにした。旧名人戦最後の第14期には石田の兄弟子・大竹英雄が挑戦者として登場、タイトルを奪取した。名人戦の契約金は、高度成長期にあって1970年まで変わらず、74年でも2750万円に留まっていた。日本棋院はこの状況を打破するため、1974年12月3日に読売新聞に対して名人戦契約を第14期で打ち切ると通告、次いで12月12日に朝日新聞と1億円の契約金で第15期以降の仮契約を交わす。これに対し読売新聞は、朝日以上の契約金で日本棋院に再交渉する。日本棋院では当初は朝日移管に対して棋士180人中反対者2人のみだったが、読売支持も増え始めて混乱し、理事会は総辞職する。しかし選挙による新理事選出では朝日派8人、読売派3人となった。読売は1975年7月26日に名人戦の契約を求める仮処分を申請、8月21日に本訴訟を起こす。また読売及び、朝日を除く各マスコミでは、日本棋院を批判する論調であった。しかし裁判は日本棋院有利に進み、12月10に日本棋院顧問岡田儀一による斡旋案「名人戦は朝日と契約」「読売は序列第一位の新棋戦、最高棋士決定戦・棋聖戦を新たに契約」(岡田私案)により、読売と日本棋院は和解することとなった。この一連の経緯は「名人戦騒動」と呼ばれている。この騒動は、当時朝日と契約していた将棋の名人戦の契約金問題(囲碁同様長く契約金が据え置かれていた)にも波及している。新生成った名人戦で、当初活躍したのは大竹英雄であった。林海峰との戦いは「チクリンの名勝負」と呼ばれ、ファンを湧かせた。大竹は旧名人戦14期から6期連続で七番勝負に出場、「名人戦男」と呼ばれることになった。その大竹から名人位を奪ったのは弟弟子・趙治勲であった。趙は第6期(1980年)、24歳の若さで名人を奪取し、祖国韓国で囲碁ブームが巻き起こるきっかけを作った。1983年には棋聖・本因坊と合わせ、史上初の大三冠を達成する。1984年の第9期、趙は大竹英雄に3連敗後4連勝して前人未到の名人5連覇を果たし、初めて名誉名人の資格を得る。しかし6連覇がかかった1985年・第10期に小林光一が悲願の名人奪取。ここから趙・小林の角逐時代が本格的に幕を開けた。1986年の第11期には、加藤正夫が1981年以来二度目の挑戦にして初の名人奪取。翌年も林海峰相手に防衛を果たし、七大タイトルのうち四冠を制する。しかし1988年、小林が再び名人奪取。ここから小林の長期政権が始まる。中でも1992年第17期の、兄弟子大竹英雄を挑戦者に迎えての第7局では、終盤まで劣勢であった小林がヨセでワリコミの妙手を放ち逆転に成功。この一局は名人戦史上に残る名勝負といわれる。これを含め、大竹は趙・小林に計6度挑戦を果たしているが、奪取は果たせなかった。1995年の第20期、小林の8連覇を阻んだのは、かつて石田・加藤とともに「木谷三羽烏」と呼ばれながら、名人戦に縁のなかった武宮正樹であった。この第5局、武宮は攻め合い負けと見えた石を第一線マガリの妙手で逆転。小林は局後に「恐ろしいものを見た」と何度もうめいたといわれる。この局も名人戦史上に残る一番として名高い。しかし翌年には天敵・趙治勲が12年ぶりに名人戦の舞台に登場、4-2で武宮を降して名人復帰を果たした。趙は以後4連覇、再度の大三冠も達成し、第一人者の貫禄を見せつけた。2000年の第25期には、依田紀基が二度目の挑戦で趙を4-0で下し、タイトルを奪取した。これにより名人位は、23年ぶりに木谷一門の手から離れることとなった。依田は趙の2度にわたるリターンマッチ、史上最年長での挑戦となった林海峰などを撃破し、4連覇を果たす。2004年、挑戦者として張栩が登場。依田を下し、24歳の若さで史上5人目の名人本因坊の地位に就いた。さらに2006年には高尾紳路がリーグ初参加初挑戦(史上初)。このシリーズ第4局はコウ争いに次ぐコウ争いとなり、364手という激闘となった。これを制した高尾はその勢いのまま名人を奪取し、史上6人目の名人本因坊となる。しかし翌年には張栩がすかさずこれを奪回、2008年には史上最年少19歳で名人戦挑戦者となった井山裕太を迎え撃ち、4-3で防衛。翌年には名人含め、現行七大タイトル史上初の五冠を達成した。しかし2009年、井山裕太はリーグ戦を8戦全勝で勝ち上がり、前年に続き挑戦権を獲得。その勢いのまま4-1で張栩を撃破、史上最年少で名人の座に就いた。なお、20歳4ヶ月での獲得は、7大タイトル戦でのタイトル獲得の最年少記録でもある。井山は翌年も高尾紳路の挑戦を4-0のストレートで退け、若き実力者として君臨した。2011年、山下敬吾が8年ぶりに七番勝負に登場。井山を4-2で破って初の名人位を獲得するとともに、史上7人目の名人本因坊となった。翌2012年は、井山とのプレーオフを制して羽根直樹が名人初挑戦を果たしたが、フルセットの末に山下が防衛を決めた。2013年の第38期には井山裕太が挑戦者として再登場、4-1で山下を降し、36期の雪辱を果たした。翌2014年には、七番勝負初登場となった河野臨が挑戦者となるが、井山は4-2のスコアで勝利、2連覇となった。名人を5連覇、または通算10期以上獲得した棋士は、引退後または60歳以降に「名誉名人」となる資格を得る。○●はそのシリーズの勝者から見た勝敗、網掛けは前のタイトル保持者。◎はタイトル獲得者、△は挑戦者か前タイトル保持者。最近の名人リーグ。順位は前年リーグ成績が反映された序列(前回のタイトル保持者or挑戦者が1位)。6位までが前回のリーグ残留者。7位3人は予選トーナメント勝者。名人位は前期の名人獲得者。◎はタイトル挑戦権獲得者。▼はリーグ陥落。Pはプレーオフ。名人戦が読売から朝日に移った1976年に、朝日新聞は臨時棋戦として八強争覇戦を開催した。出場棋士は、前期名人・王座の大竹英雄、本因坊石田芳夫、十段林海峰、天元藤沢秀行、NHK杯坂田栄男、早碁選手権橋本昌二、プロ十傑戦趙治勲のタイトル保持者、及び橋本宇太郎の8名で、トーナメント戦形式で行い、決勝は三番勝負。当時19歳で、前年に最年少タイトル獲得をしていた趙治勲が優勝した。大竹英雄、石田芳夫、藤沢秀行、坂田栄男、橋本宇太郎、林海峯、山部俊郎、窪内秀知、梶原武雄、工藤紀夫、加藤正夫、白石裕、趙治勲、牛之浜撮雄、武宮正樹、山城宏、小林光一、羽根泰正、島村俊廣、佐藤昌晴、本田邦久、東野弘昭、石井邦生、石田章、橋本昌二、高木祥一、小林覚、大平修三、依田紀基、王銘エン、淡路修三、上村邦夫、三村智保、岩田達明、小松英樹、宮沢吾朗、片岡聡、結城聡、柳時熏、楊嘉源、酒井真樹、今村善彰、羽根直樹、趙善津、王立誠、彦坂直人、山下敬吾、溝上知親、張栩、今村俊也、山田規三生、小県真樹、坂井秀至、高尾紳路、潘善琪、黄翊祖、陳嘉鋭、井山裕太、張豊猷、林漢傑、河野臨、金秀俊、内田修平、村川大介

出典:wikipedia

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