ジョン・オブ・ゴーント(John of Gaunt, 1340年3月6日 - 1399年2月3日)は、イングランドの王族。イングランド王エドワード3世とフィリッパ・オブ・エノーの第4子で三男。ランカスター家の祖で、ランカスター朝創始者ヘンリー4世の父。エドワード黒太子、クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープは兄、ヨーク公エドムンド・オブ・ラングリー、グロスター公トマス・オブ・ウッドストックは弟。1359年、初代ランカスター公ヘンリー・オブ・グロスモントの次女ブランシュと結婚し、ランカスター公となった。イングランド宗教改革の先駆者ジョン・ウィクリフの保護者として知られる。ゴーントとは、出生地であるフランドル(現在のベルギー北部)の都市ヘントを指す。1369年から再開した百年戦争において多くの戦いに参加したが、さほどの戦果は挙げられなかった。国内では老いた父エドワード3世に代わって国政を取り仕切ったが、兄のエドワード黒太子が帰国するとこれと対立した。1377年に甥のリチャード2世が即位すると実権を振るったが、1381年に課税の失策によりワット・タイラーの乱を誘発させたため、1383年にリチャード2世が親政を開始すると権力から遠ざけられた。リチャード2世に後継ぎが生まれなかったため、王位継承を目指してイングランドでもフランスのような男系継承のみを認めるサリカ法を採用することを主張したが入れられず、リチャード2世はジョンの兄である叔父ライオネル・オブ・アントワープの女系の孫であるマーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名した(ロジャーは1398年に死去)。1386年からイベリア半島に遠征し、後妻の権利としてカスティーリャ王位を主張したが果たせなかった。1389年に帰国し、留守中に生じたリチャード2世と諸侯の対立の修復に努めた。しかし1397年にリチャード2世はジョンの弟である叔父グロスター公トマス・オブ・ウッドストックらを逮捕して殺し、ジョンの死の前年の1398年、息子ヘンリー・ボリングブルックを国外追放した。さらに1399年にジョンの死を見届けるとランカスター公領の没収を命じた。ヘンリーは帰国して反乱を起こすとリチャード2世を捕らえて廃位し、ヘンリー4世として即位した。詩人チョーサーの『公爵夫人の書』("The Book of the Duchess")において「白の貴婦人」と賞賛されたブランシュ(1345年/1347年 - 1368年)との間に7人の子を儲けたが、成人したのは1男2女だった。ブランシュの死後、1371年に2度目の妃としてカスティーリャ王ペドロ1世の娘コンスタンス(1354年 - 1394年)を迎え、1男1女を儲けた。1394年にコンスタンスを失ったジョンは、10年来の愛人キャサリン・スウィンフォード(1350年 - 1403年)を正式に3度目の夫人にした。彼女はジョンの母フィリッパが嫁ぐ際に随行してきた騎士の子孫で、愛人であった間に3男1女が生まれていた。正式に結婚した翌年の1397年に、4人の庶子は嫡出子になることが認められたが、その条件として王位継承権を剥奪された。さらに1407年にはヘンリー4世によっても王位継承から除外することを確認された。それにもかかわらず彼らはボーフォート家としてランカスター朝で繁栄し、子孫はヘンリー7世としてテューダー朝を創始することになった。ヘンリー4世、キャサリン・スウィンフォードとの間の末子ジョーン、その姪に当たる同名の孫娘、さらにその姪に当たる曾孫マーガレットを通じて、ジョン・オブ・ゴーントはヘンリー4世以降の全てのイングランド君主とジェームズ2世以降の全てのスコットランド君主の共通の先祖である。
出典:wikipedia
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