張 国燾(ちょう こくとう)は近代中国の政治家、革命家。長征中に造反し、その後共産党を除名された。字は榿陰。別名は特立。号は凱音、克仁。そもそも毛沢東や朱徳と異なり、農村の出身者ではなかった。北京大学在学中は無政府主義者であり、共産主義者でもなかった。五四運動の高まりの中で、急速に民族意識を高めていったと思われるが、当時最先端の革命思想であるマルクス主義に触れたのもこのころであろう。悪い意味で都会派であり、モスクワ在留で中国共産党中央執行委員を務めたのも彼が最初であった(第6回大会、1928年)。このため、毛沢東の主張する「農村で都市を包囲する」中国革命の手法に共感できなかった。中国共産党の評価は「建党の功労者」であり、「最初の反逆者」であり、「極左冒険主義者」であり、「右傾修正主義者」と、非常に明快に定義・評価している。しかし、南昌起義の無謀さを指摘したのも張国燾であり、長征の目的地を陝西省延安にすることに異を唱えたのも、また彼であった。南昌起義に対する彼の態度と、長征に対する彼の態度は、それぞれ相反的である。そもそも1927年7月30日の段階で、南昌を軍事的に占領して共産党は何を目指したのか。当時国民党は北伐の真っ最中であり、ここで武装蜂起しても国民党軍は戦力を南昌に差し向ける余裕は無いと踏んだのであろうか。仮に南昌を短期間維持できたとして、その後の展開をどう進めるのか。周恩来に対して、張国燾はこの点を論難したのであり、革命そのものを否定してはいない。結果として8月1日に武装蜂起を起こしたものの3日には早くも撤退することになり、以後周恩来は都市の維持には広大な農村部の共産化・根拠地化は避けて通れないと考え、毛沢東路線に追随する。他方張国燾は、周到な準備と計画があればロシアの様な都市からの革命は可能であると考える様になった。長征開始はもはや避け得ないとして、張国燾は長征そのものには反対していない。しかし北進を主張する党首脳部に対し張は南進・根拠地建設を主張、遵義会議で決定された毛沢東路線の選択および毛沢東の指導権の確立に対しても反対した。この対立は、朱徳・劉伯承らの戦略的観点による南進による根拠地の再確立と任弼時・賀龍らの戦術的観点による北部への転進の論争でもあった。結果として一部の部隊が南進するものの強力な国民党勢力に阻まれることになり北進に転ずることになるが、張の主張通り一致して南下すれば或いは果たして貴州・広西・広東を掌握できていただろうか疑問は残る。また、その代償として甘粛・陝西を失った可能性は否定できないであろう。
出典:wikipedia
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