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インディアン

インディアン()は、アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)の大半を占める主要グループの一般的な呼称。スペイン語・ポルトガル語ではインディオ()。インディアンとインディオともにインド人に由来するが、日本語では、メキシコ以北の諸民族をインディアン、ラテンアメリカの諸民族をインディオと呼び分けることが多い。英語のインディアンは直訳するとインド人の意味である。歴史的な文脈では、旧イギリス領インド全域や東南アジアの住民を含むこともある。「インディアン」が二義的な意味を持つ由来には、クリストファー・コロンブスがカリブ諸島に到達した時に、インド周辺の島々であると誤認し、先住民をインディオス(インド人の意)と呼んだことがあり、以降アメリカ先住民(の大半)をインディアンと呼ぶようになった。ちなみに、本来のインド人をイースト・インディアンと、アメリカ先住民をアメリカン・インディアンと区分して呼称する場合がある。おもに平原部族が正装の際に顔や上半身を赤く塗装したことから、また、ネグロイドとコーカソイドの中間の、褐色の肌色を持つことからレッド・マンという呼称もあり、彼ら自身も使用しているが、コロンブスがタイノ族を同じ理由でこう呼んだことによる。公民権運動やブラック・パワー運動の影響でインディアン達もレッド・パワー運動を展開した1960年代以降、侮蔑的な呼称として問題化されることがあり、イギリスでもレッド・インディアン と呼ぶことがあるが、この語は差別的とみなされることが多い。また「インジャン」という呼び方は現代アメリカにおいては「ニガー」などと同様の差別的な蔑称であり、ほか、「アンクル・トマホーク」、「」などは、現在では同じく「白人におもねるインディアン」の代名詞となっている。人類学・言語学では、アメリンドと呼ぶこともある。ただしこの語は厳密には、アメリカ・インディアンのうち、起源が異なるという説があるナ・デネ(ナヴァホなど)やイヌイットを除いたグループに対する呼称である。他に以下の呼称があるが、これらの中には定義が不明確なものも多い。アメリカ合衆国において近年メディアにおいて最も使用されるのは、ネイティブ・アメリカンズである。学術の分野では、近年「初期アメリカ人」という呼称が使われることがある。カナダでは、歴史や文化背景、政策もアメリカ合衆国とは大きく違うことから、呼称についてはアメリカ合衆国とは状況が違っている。現在はイヌイットとメティ(先住民とヨーロッパ人両方の血を引く人々とその子孫)を除く先住民の総称としてファースト・ネーションズという呼称が一般的であり、ハイダ族、クリー等個々の部族を指すときは部族名の後に「ファースト・ネーション」をつける(例:ハイダ・ファースト・ネーション)ことも多い。また、現在ではネイティブ・カナディアンという呼称が使われることは少ない。近年アメリカ合衆国で「インディアン」という呼称を「ネイティブ・アメリカン」と呼び替える動きが進んでいるが、この単語はアメリカ合衆国内の先住民全般、つまり「インディアン」、「サモア人」、「ミクロネシア人」、「アレウト」、「ハワイ人」、「エスキモー」全てを表す総称であり、固有の民族名ではない。アメリカ合衆国内務省インディアン管理局(BIA)によれば『ネイティブ・アメリカン』という語は、1960年代にBIAが、そのサービス対象グループに対して使用し始めたものである。当初はインディアンとアラスカ先住民(アラスカ・インディアン、エスキモー、アレウト)を指しており、のちに連邦の枠組みに入るハワイ先住民と太平洋諸島民などを含むようになった。しかしインディアン・グループから苦情が出て、インディアン運動家たちは『アメリカ・インディアン』を主張するものもある。「ネイティブ・アメリカン」という呼称は、BIAの意向を受けて「インド人」を祖先に持つ「インド系アメリカ人」と区別するために、人類学者が作った造語である。一方、歴史的呼称としての「インディアン」に誇りをもつインディアン達はこれをあくまで自称とし、またその名称を替えること自体が差別的であるとしている。この問題にはそもそも「アメリカ」という地名そのものが後付けであり、白人が過去の不正行為から目を背けて「インディアン」という言葉を削除し、「先住民」という中立的または大雑把なくくりの中に埋没させ、問題を隠ぺいしようとしているとする見解もある。(→)ラコタ・スー族の活動家、ラッセル・ミーンズは、「アメリカインディアンへの承諾なしに連邦政府がこの『ネイティブ・アメリカン』という用語を使用している」として批判しており、「私は『アメリカ・インディアン』だ。『ネイティブ・アメリカン』ではない!」とし、さらに「私は『ネイティブ・アメリカン』という用語を憎悪している」とし、「ネイティブ・アメリカン」とは「合衆国すべての囚人としての先住民について説明するのに使用される、一般的な政府用語」であり、また「私は『アメリカ・インディアン』という名称の起源を知っているので、この用語のほうを好みます。『アメリカ・インディアン』は『アメリカ合衆国の民族』以前からいる、唯一の民族グループなのです。」とし、「最終的に、私はだれであるかを、どんな政府にも定義させるつもりはありません。加えて、西半球で生まれる人はだれでも『インディアン』なのです。」と述べている。さらにミーンズはこの「アメリカインディアン→ネイティブアメリカン」への言い換えが白人主体で進められている現状について、「我々がアメリカインディアンの歴史を教えようとしても、白人達が教育現場で我々の子供達に、『アメリカインディアンは20世紀中に絶滅してもう存在していない』と教え込んでいる。」と批判している。1977年にスイス・ジュネーブの国連議場で、ラッセル・ミーンズら「インディアン国際会議」は、満場一致で「『インディアン』という用語を支持する」と決議し、「我々は『アメリカ・インディアン』の名の下に奴隷にされ、『アメリカ・インディアン』の名の下に植民地化された。そして我々は、『アメリカ・インディアン』の名の下に自由を得るつもりである。また我々は自分達をどうとでも呼べるのである。」というコメントを発表している。「アメリカン・ヘリテージ英語辞典第4版」には、「『ネイティブ・アメリカン』の承認は、『インディアン』の消滅をもたらさなかった。一度『ブラック』が好まれるようになると、あっという間に『ニグロ』が嫌われたのとは異なり、『インディアン』はアメリカ人の大多数で、決して嫌われることはなかった。」との記述が見られる。またインディアン系オクラホマ州議会上院議員ランディ・バースは「『インディアン』は『インディアン』だ。『ネイティブ・アメリカン』という言葉は30年ほど前からにわかに使われ始めたが、これを喜ばないインディアンだっていっぱいいるし、インディアンの中心州のこのオクラホマにも、『アメリカ・インディアン』の名のつく施設はたくさんある」という。ほとんどのアメリカ・インディアンは、「インディアン」、「アメリカ・インディアン」、「ネイティブ・アメリカン」という用語に不快感を持たず、いずれも同じ意味合いで使用している。1995年5月にアメリカ国勢調査局の調査では、49%が「インディアン」を支持し、37%が「ネイティブ・アメリカン」を支持、3.6%が「他の名前がいい」とし、5%は「無回答」という結果が出ている。インディアン部族の公式ホームページでは、これらの単語が混在しているものも多い。2004年にワシントンD.C.で開館した博物館の名前は、国立アメリカ・インディアン博物館となった。一方、チェロキー族の作家であるクリスティーナ・ベリーは「アメリカ・インディアン」も「ネイティブ・アメリカン」も、両方とも、様々なインディアンの民族の違いをぼかすので使用を避け、各部族名を使うべきであると主張している。アメリカ州の先住民は、文化的特徴などから、インディアンとエスキモー・アレウト(エスキモーとアレウト人)、ヨーロッパから入植した白人男性と先住民女性との間に生まれたメティの3グループに大きく分けられる。「インディアン」と一括りに呼ばれることも多いが、実際には多くの部族が存在し、また部族に固有の文化形態や社会様式を持つことから、さまざまな時期にさまざまな経路を通って段階的に渡来した人々の末裔であると考えられている。近代に入るまではインディアン自身、「インディアン」という統一的な意識はあまり持っておらず、それぞれの部族は高い独立性を持ち、互いの部族は友好、あるいは敵対関係にあった。白人が、あるインディアン部族を攻撃する時、その部族と敵対する別のインディアン部族が白人側について共に攻撃するのは、歴史において珍しいことではない。また、インディアンは白人と比べても、極端なほどの個人主義の文化を持っており、白人や他部族との戦争においても参加は個人の自由に任された。族長であっても、その役割は部族内の争いを穏便に治める調停者であって命令者では無かったため、他人に何らかの行動を強制することは一切できなかった。そのため、多くのインディアン部族が一致団結して白人に立ち向かうという事は少なかった。南北戦争においては、ハニースプリングスの戦いのように、北軍、南軍のいずれも戦力の多数をインディアンおよび黒人が占め、互いに戦った事例もある。スタンド・ワティーのように、白人文化を受け入れてアメリカ連合国の准将にまで上り、さらに奴隷を多数所有しながらも、チェロキーの酋長を務めた人物もいる。インディアンの人権は近代化の名のもとに踏みにじられてきた。しかし自然崇拝を行う・独自の精神文化を持つなど、近代以降の文明社会にある人間が忘れがちな自然との調和を重視する精神性に対する評価は、近年のアウトドアやエコロジーのブームにのって見直される例も多く、さまざまな文化媒体に登場する。形質分類的にはモンゴロイドの系列にあり古モンゴロイドに分別されることもあるが(イヌイットとエスキモーなどを除く)、アメリカ大陸先住民のY染色体ハプログループはハプログループQが大半を占めており、遺伝的には古モンゴロイドとは隔たりが長く同一人種であるとは言い難い。Q系統はケット人やセリクプ人などのシベリアの一部でも見られるが、ユーラシア大陸ではあまり見られない系統である。Q系統はコーカソイド系で最多のR系統に最も近縁で、次いで現代日本人や漢民族、朝鮮民族等の東アジアの新モンゴロイド系で最多を占めるO系統とも近縁な系統である。また、紀元前にヨーロッパから北米に移住があったとする見方もあり、遺伝子からも、欧州に多いY染色体-R、mtDNA-Xが北米東部でかなりの頻度で観察されることから、有史以前のある時期にヨーロッパからコーカソイドの直接移住が存在した可能性がうかがえる。アラスカ、カナダ、アメリカ合衆国北部の部族は肌の色が赤黒く鼻筋が通り高く盛り上がっておりワシ鼻である人が多い。また大航海時代以降は、ヨーロッパ人(コーカソイド)との混血、アフリカ黒人(ネグロイド)との混血が進んだ部族も多い。純血の民族はメキシコ、グアテマラ、エルサルバドル、ペルー、ボリビアなどに多く存在する。しかしブラジルやアルゼンチン、ウルグアイなどのスペイン人と激烈な戦いを繰り広げた地域では、純血な先住民はスペインによる侵略でほぼ絶えている。2000年の国勢調査では247万人。部族ごとに見ると、多くの人口を持つ部族は順にナバホ、チェロキー、チョクトー、スー、チペワ、アパッチ、ラムビー、ブラックフット、イロコイ、そしてプエブロである。ニューヨークは全米の都市の中で最も多くのインディアンが住み、約8万7000人ものインディアン(モホーク族やモヒカン族など)がニューヨークで暮らしている。2003年のアメリカ国勢調査によると、アメリカ合衆国全体のインディアンの人口2,786,652名の三分の一が、3つの州に居住している(カリフォルニア州413,382名、アリゾナ州294,137名、オクラホマ州279,559名)。多くの部族がトウモロコシを主食とし、インゲンマメ、カボチャ、ウリなどを栽培していた。狩猟、漁労、採集と農業を組み合わせる部族が多く、プエブロを除けば多くの部族が程度の差はあれ移動性の生活を送っていた(プエブロはトウモロコシなどの農業のみによって生活し、アドベと呼ばれる集合住宅に定住するという、インディアンとしては珍しい生活を送っていた)。ヨーロッパ人と接触する以前の家畜はシチメンチョウと犬だった。犬は現在も、部族によって儀式などで食材とされており、コモン・インディアン・ドッグという犬種が存在する。北米には、イノシシの一種ペッカリーや、ヒツジの仲間ビッグホーンなどがいたが、これらは家畜化されなかった。インディアンの食文化のうち、ペミカン、、「揚げパン()」などは今日でもよく知られており、米国民の食文化に取り込まれたものもある。米国の重要な作物であるトウモロコシ、カボチャやウリ、インゲンマメ、タバコ、トウガラシは元来インディアンが栽培していたものである。南西部のプエブロ諸族やナバホ族は、19世紀初め頃からスペイン人の持ち込んだヒツジの放牧を行うようになった。彼らの家畜数は連邦によって頭数を制限されており、年次ごとのチェックで頭数を超えた家畜は、白人の管理官によって強制的に溺死させられる。カリフォルニアの捕鯨民族マカ族は、1999年5月17日、連邦政府が条約を破って70年間禁止してきたコククジラ漁を、これに伴うポトラッチの祝祭と併せて復活させた。シー・シェパードなど反捕鯨団体からの脅迫や嫌がらせ、州警察による漁師達の逮捕という圧力を受けるなか、2007年9月12日にも、再び捕鯨を行った。彼らはアメリカで唯一捕鯨を条約で保証されている部族であるにもかかわらず、現在、全米各地の関係者でも当事者でもない者たちから批判や訴追を受けている。ロッキー山脈周辺の部族は、松の実やドングリを主食とした。かつては年に一度、部族総出でドングリ採集に出かける際には村が全くの無人になった。ドングリは保存小屋に蓄えられ、粉に挽いてパンに加工して食べた。北東部、北西海岸部の部族は伝統的に鮭を燻製にして一年分の主食とする。しかし、保留地へのダム建設や漁猟権の剥奪などで、サケ漁の現状は年々厳しくなっている。北東部では、近年になってようやく鮭の伝統漁復活が認められた部族もある。1960年代のレッドパワー運動で、真っ先に行われた大規模な抗議行動は、サケ漁の権利をめぐって抗議するために連邦法や州法を破って漁をする「フィッシュ・イン」運動だった。毛髪を霊力の源と考え、神聖なものとして非常に大事にする。また、ヨーロッパ人もかつて行ってきたことであるが、共通の髪型をすることで部族の帰属を示す手段としている昔の写真に見られるインディアンの毛髪は非常に美しく長い。これに習い、ハリウッド映画などでは登場するインディアンの老人も毛髪豊かな人物として描かれている。しかし、前述の平原部族の三つ編み方式を知らなかったために、ウォーボンネットという鷲の羽根を連ねて立てたヘアバンドを身に付けて描かれているものが非常に多い。同化政策の一環として後述のインディアン寄宿学校に送られた男女児童は、入学と同時に頭髪を短く刈られた。都市に住むシティ・インディアンの間では、白人文化に同化して短髪が多いものの、近年は長髪が復活してきている。アメリカインディアン運動(AIM)が創設されたとき、インディアンの若者達はまず、インディアンのアイディンティティーを取り戻すために髪の毛を伸ばし始めた。これはヒッピー文化にも影響を与えた。インディアン固有の蛮習のように喧伝されてきた「頭皮剥ぎ」は、一部の部族の間で戦果と栄誉を示すものとして古くから重要なものではあったが、そもそもは18世紀前後にメキシコやイギリス、アメリカ合衆国の政府機関が、敵対勢力のインディアンやヨーロッパ人を殺させて、その証拠として頭の皮を懸賞金をかけて募集した歴史が起源となっている。頭皮剥ぎ自体はインディアンから始まった固有の習慣ではなく、古代ヨーロッパにも存在した。また、頭の皮を剥ぐことと命を奪うこととは別であり、頭皮を剥がされた者が生き延びることはよくあり、皮を剥がれた跡の禿は、インディアン戦士にとって非常に不名誉なものとされた。19世紀の北東部や平原部の若い戦士の間では、「頭皮剥ぎ」の風習の浸透に伴い、敵部族を挑発するべく後頭部にのみ髪の毛を残して頭を剃りあげ、骨片や木片の留め具で鷲の羽根と房飾りをつけるスタイルが流行した。(※下段ウィンクテの図を参照)いわゆる「モヒカン刈り」のスタイルは、17世紀に北東部のアルゴンキン族の男達が、狩りの際に弓を射るのに髪が邪魔にならないように、頭の側面を剃っていたものである。現代の防寒着アノラックやパーカーは北極圏のイヌイットやエスキモーの防寒着を元にしており、カヤックやカヌーは現在でもインディアンの使っていたもののデザインを忠実に受け継いでいる。ラクロスは北東部部族のスポーツが全世界に広まった例のひとつである。ほとんどのインディアン社会は性的に自由だった。男女の役割は個人の判断に任され、またインドのヒジュラーのような聖職に従事する社会的半陰陽は、ヒジュラーよりも強い地位を持っていた。白人によってこれらの存在は徹底的に弾圧され、社会的な役割としては姿を消しているが、メキシコやプエブロ諸族の一部のほか、スー族社会における「ウィンクテ」(右図)と呼ばれる存在は、女装こそしなくなったが、現在でも健在である。人類学者はインディアン社会に見られる社会的半陰陽を「ベルダーシュ」と呼んできたが、本来の語義が「男娼」を指すエクソニムであるため、差別的で不適切と考えられている。1990年にウィニペグで開催されたネイティブアメリカン=ファーストネーション部族間ゲイ・レズビアン会議で、それに代わる呼称としてオジブウェー語で社会的半陰陽を指す「ニーシュ・マニトゥーワク」(「二つの魂」の意)から翻訳借用した「」を使用することが議決された。1881年、アメリカ連邦議会はインディアンのあらゆる宗教儀式を非合法化した。かつては「発汗小屋(スエット・ロッジ)」の話をしただけで逮捕されたのである。しかし逮捕や投獄の圧力を受けても、インディアンたちは脈々と信仰を受け継いできた。現在インディアンの間にもっとも普及している宗教はコマンチェ族最後の酋長クァナー・パーカーを開祖とする『』である。キリスト教のシンボリックな要素と多くの異なった部族からの霊的な習慣の要素を組み込んで1890年代に興った習合的な教会である。ちなみに、クアナ自身は生涯、キリスト教徒にはならなかった。もともとは、メキシコのウィチョール族などが行う「ペヨーテ狩り」の儀式が元になっていて、ペヨーテのもたらす霊的な幻視と、その薬効の会得手順を儀式的に整えたものである。保留地で暮らし始めた頃、重篤な病に倒れたクアナは、呪い師による治療を望んだ。メキシコ人とタラウマラ族の混血女性によるメキシコ原産のペヨーテを使った治療によって全快したクアナは、人類学者のジェームズ・ムーニイの後ろ盾で、このペヨーテを用いた儀式を『ネイティブアメリカン教会』として組織化した(米国内では、ペヨーテはコマンチの居住する南西部にしか自生しない)。宣教師達によってペヨーテは「悪魔の果実」とされ、弾圧されてきたが、近年、インディアンに対しては使用が合法化された。儀式はティピー内で夜間から朝にかけて行われ、ペヨーテを複数摂取することで進められる。治療や祈祷が主な目的であり、「教会」という言葉から連想するような、キリスト教的な教義や説教といったものはない。スー族においては、同教会の指導者たちはその3分の1が、ペヨーテの会合に関わっていると報告している。現在ではロサンゼルス、ミネアポリス、デンバー、シカゴ、ラピッドシティーといった各地のインディアンコミュニティーでペヨーテの儀式が開かれ、非インディアンが保留地へ足を運ぶ目的の一つとなっている。南西部のプエブロ諸族の集落の中心にはアドベの古い伝道所があることが多い。元々はスペイン人の宣教師が先住民の改宗のために強制的に建てさせたものだが、現在では農耕と関係した精霊群への神聖な儀式の執り行われる祈祷所となっており、部外者による写真撮影や写生などは禁止されている。また、プエブロ諸族の村々の中心部には古代からキヴァという地下祈祷所があり、トウモロコシの作付け・収穫などを中心とした祈祷が、年中行事として行われている。平原部族が命の糧であるバッファローの精霊を信仰するのに対し、プエブロ族は彼らの命の糧であるトウモロコシを神格化した「トウモロコシの乙女たち」や「トウモロコシの母」を信仰するのである。17世紀にはスペイン人宣教師たちによってキヴァは「悪魔の巣窟」として破壊された。同時に神聖な仮面が焼き払われ、呪い師や司祭も殺戮されて、ついにはプエブロの反乱を引き起こした。20世紀に入ってもキヴァを用いた行事は弾圧され続けた。現在もキヴァでの祈祷行事は、部族民以外非公開である。アパッチ族は、『ガン』と呼ばれる山の精霊を信仰し、覆面をした『ガン・ダンサー』による祈祷の踊りを捧げる。また、ナバホ族は、彼らの神話に基づき『イェイビチェイ』という精霊達の行進行事を数日かけ行う。ホピ族とズニ族はカチーナという精霊群を信仰する。いずれも仮面行事であり、クラン(氏族)を中心として行われる。プエブロ族、ホピ族、ズニ族に共通する神話のモチーフは、「世界が一度滅び、第二世代の先祖が地底から現れ現在の始祖となった」というものである。南西部に到達してから比較的歴史が浅いナバホ族の神話は、プエブロ族の神話を受容したものであるとされる。生まれたときに祖父から与えられる守護動物をかたどった石のお守り「フェティッシュ」の習慣が根強い。ニューメキシコ州では特に、スペイン人の宣教師によってもたらされたカトリックとインディアンの宗教の習合がよく見られる。この背景には、かつてキリスト教を強制し、古来の信仰を弾圧してプエブロの反乱が起きたことを教訓とした宣教師達が部族民の古来の信仰に対して譲歩したことがある。文化学者マチルダ・スチーブンソンはこう報告している。「プエブロの人々は表向きはカトリックと自称している。しかし、神父たちがいなくなれば、彼らは古来の儀式を始めるのだ」特定の守護聖人を持つプエブロは、守護聖人の聖日を特別な料理を作って祝い、プエブロを訪れた観光客にも振る舞う。プエブロ民族のドラム演奏、詠唱、および舞踊は、サンタフェの聖フランシス大聖堂での定期的なミサの一部ともなっている。クラン(氏族)を中心とした、農耕と狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。人身御供の行事が多く行われ、敵対者や指導者の心臓や肉は、霊力を得るものとして儀礼的に食された。儀式の踊りに、鹿など動物の仮面を用いる。彼らの神話・英雄譚には、ヴィンランドに入植したヴァイキングの、ゲルマン神話の影響を指摘する向きもある。また、フランス人が最初期に植民と布教を行った地域として、カトリックとの習合がしばしば見られる。例えばニューヨーク州にはカトリックに改宗したイロコイ族に関連の深いの教会やの北米殉職者教会がある。イギリス人が植民を行った地域では、ピルグリム・ファーザーズと接触したワンパノアグ族のようにプロテスタントに改宗した部族もあった。17世紀のニューイングランドでは、改宗した先住民は「」、「祈るインディアン」)と呼ばれた。彼らの集落は他のインディアンから開拓者を防衛するために開拓者の集落の外側に配置された。フィリップ王戦争が終結するとプレイング・インディアンらは集落に軟禁され、後にボストン湾に浮かぶディア島に抑留されて飢えと病から多くが死んだ。アイビー・リーグのひとつであるダートマス大学は、インディアンを教化する目的でモヒーガン族の牧師サムソン・オッカムらの出資により1769年に創立された。狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。部族繁栄を祈る大規模な儀式では、春に行われるユト族の「熊の踊り(ベアー・ダンス)」が有名。モルモン教と呼ばれる末日聖徒イエス・キリスト教会の総本山のあるユタ州近辺では、19世紀から周辺部族への同教会への教化が熱心に行われている。当時のモルモンの一夫多妻制は、インディアンにも受け入れやすいものだった。かつてはモルモン教徒は彼らと結託し、西進してくる幌馬車隊をユタに侵入させないよう共闘して襲撃した。イスラエル人の数派が古代にアメリカ大陸に到達していたとするモルモン書によれば、インディアンは教典に登場する約束の民であるという(ただし前述のように、インディアンの先祖はイスラエル人ではなくモンゴロイドであることが判明している)。女性シャーマンの習俗が多く見られ、深い森を幾日もさまようことで啓示を得る。死者を煙でいぶし、ミイラにして保存する部族も多かった。カナダのブリティッシュコロンビア州のインディアンは、氏族と守護動物の象徴トーテム・ポールの風習を持つ。また、仮面行事を行う。ポトラッチと呼ばれる盛大な贈与の儀式でも知られる。アメリカ西海岸では、18世紀後半から、入植してきたスペイン人の宣教師によってインディアンのキリスト教徒化が進められ、『ミッション・インディアン』と名づけられて支配され、白人の農場や牧場の下働きや、他のインディアン部族の監督に使役された。漁猟民が多く、鮭や鯨の豊漁を祈る儀式が多い。踊りは伝統住居の「ラウンド・ハウス」内で行われるものが多い。ラコタ・スー族の『ワカン・タンカ』のような『偉大なる精霊』を信仰する精霊崇拝が基本である。バッファロー・ダンスやベアー・ダンスで毛皮を被るが、踊りには仮面は使わない。「白いバッファロー」は大精霊の使いであると考える。物心がついた男子は、呪い師と近親者に伴われて聖山に分け入り、四昼夜(女子は二昼夜)独りで「ヴィジョンを得る儀式(ヴィジョン・クエスト)」を行い、啓示を得る。この習慣は近年、全ての儀式の前に行う「発汗小屋(スエット・ロッジ)」の儀式と併せてますます盛んである。人間の生贄の風習はなかったが、農耕民でもあったポーニー族やオーセージ族は、例外的に収穫祈念のため人身御供を行った。生贄には他部族の男女が使われた。平原部族の多くは、遺体を毛布でぐるぐる巻きにして樹上に載せて葬送した。マンダン族などは、いつでも故人に会いに行けるよう墓に頭蓋骨を並べた。これらの葬送の習慣は、キリスト教会からの弾圧もあったが、遺体が白人によって持ち去られて大学の研究物にされたり、見世物として売られたりしたため、19世紀末には急速に廃れていった。「サン・ダンス」とは、スー語の「ウィワンヤンク・ワチピ(太陽を見つめる踊り)」を英訳したものである。平原の部族は、死ねば無条件で「狩猟の楽園」へ行くことができ、このため、今世は楽しみごとに費やすべきだと考えた。ただ、「大自然の力は放置すると衰退する」としてスー族やブラックフット族、シャイアン族、カイオワ族など平原部族の多くは、毎年夏至の頃に、大自然の回復と部族の繁栄を祈祷し、誓いを立てて大精霊に祈りを捧げるこのサン・ダンスの儀式を行う。とくにスー族は、この儀式の中で最大の要として、「ピアッシングの儀式」を行う。これは、前年に「ピアッシングの誓い」を立てたものが、胸や背の皮膚に穴を開け、鷲の羽根や骨の棒を突き通し、バッファローの皮のロープで広場の中央に立てられたハコヤナギの「サン・ポール(太陽の柱)」と身体を結びつけ、メディスンマンの合図で皮膚がちぎれるまで太陽を見つめながら踊ったり走ったりすることで、大精霊に自らの肉体を捧げる苦行である。(図参照)。ピアッシングで最も苛烈なものは、バッファローの頭蓋骨を背中につないで走るもので、祈りの度合いによって頭蓋骨の数が増やされる。サンダンスで「ピアッシングの誓い」を立てた者は、翌年から毎年都合四回、必ずこれを行わなくてはならない。このピアッシングの苦行はマンダン族が始祖とされる。かつてマンダン族の「オーキーパ(太陽の踊り)」は詳細なイラストとともに東部の白人社会にも知らされたが、彼らはこれをグロテスクな悪夢だとして本気にしなかった。この際、「ピアッシングは若者の勇気を試すもので、指導者となるための通過儀礼である」と説明され、現代でもこれに則った解説をする文献があるが、これは間違いである。19世紀のスー族の戦士は、このピアッシングについて、「自分の肉体は、自分にとって一番大切なものだから、これを大精霊に捧げるのだ」と説明している。20世紀スー族のメディスンマン、ピート・キャッチーズは、サン・ダンスを「全ての儀式の『祖父』である」と述べ、または、「白人は自分に都合よくなんでも簡単に片付ける。2000年前には自分達の代わりにイエス・キリストに苦痛を味わわせた。だが我々インディアンは自ら苦痛を引き受け、自分の身体でこれを体験し誓うのだ。『祖父よ、来年私は踊ります。わが肉体に串を刺し、誰かの回復に役立とう。我らの民を完全なものとするために』とだ」と語っている。かつて白人によってサンダンスは野蛮な行為として弾圧を受け、インディアンたちはこれを隠れて行うしかなかった。インディアンたちの粘り強い交渉と説得により、フランクリン・ルーズベルトの時代になってようやくサンダンスが許可された。それでもピアッシングのみは絶対禁止されたが、レッド・パワーとともに復活され、スー族の伝統派、レイムディアーやマシュー・キングらによって全米に広められた。また近年になって規定が緩み、女性のピアッシングも見られるようになった。女性の場合は、手首に串を刺す。クラン(氏族)を中心とした、農耕と狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。ムスコギー族やセミノール族は、地元で採れるヤポンノキ(Yaupon、")の葉を煎じた黒い飲み物「ブラック・ドリンク」を儀式の際に飲用する。この飲み物は儀式にとって非常に重要で、オクラホマに強制移住させられたグループは、代替物を煎じている。セミノール族の英雄オセオーラの名は、この「黒い飲料」の儀式の「音頭をとる者」という意味である。アタカパ族やカランカワ族は、敵対者や指導者の心臓や肉を、パワーを得るものとして宗教的に食した。このため、他部族やヨーロッパ人から「人食い人種」と誤解された。大西洋岸からミシシッピー沿岸にかけては、約二千年前に「マウンド・ビルダー」と呼ばれた部族群が、数100メートルもある動物を象った、無数の土塁・塚を建造している。オハイオ州のサーペント・マウンド(大蛇の墳丘)はその一つである。その直系であるナチェズ族は、18世紀にフランス人に文明を破壊されるまで、インカ帝国やマヤ文明のように太陽神を頂き、都市を築いてピラミッド型の神殿をいくつも建造していた。神官と僧侶からなる社会階級を持っていたのは北米でナチェズ族だけである。1889年1月1日に、日食があり、大地が闇に覆われた。連邦政府による強制移住政策で飢餓状態にあったインディアン達は「世界の終わりが来た」として恐れ戦いた。この全部族的な終末感の中で啓示を受けた、ネバダ州のパイユート族の預言者ウォボカが教祖となって始まった信仰が、「幽霊踊り教(ゴースト・ダンス教)」である。「ゴースト・ダンス」の信奉者達は、ゴースト・シャツと呼ばれる聖なる衣服を身にまとう。このシャツを着て死者の霊の歌を歌いながら男女で手を繋ぎ、円を描いてぐるぐると回ることで、信者の衣服は白人の弾を跳ね返すようになり、さらには白人がやってくる前の、バッファローの群れなす大草原が還ってくるという教義は、保留地への強制移住によって飢餓状態に陥ったインディアン達により熱狂的に支持され、大平原、さらに北西部に瞬く間に広がっていった。弾丸を通さなくなるというゴースト・シャツの教義を始めたのは、スー族の呪い師、キッキング・ベアだった。このため、連邦政府は、この教義でインディアンがより反抗的になるとして、ことにスー族に対し徹底的に弾圧を加え、ウーンデッド・ニーの虐殺が起こった。この大虐殺で、信者が全滅したことで、ゴーストダンスは急速に廃れていった。100年を経ても連邦政府が、銃弾を厭わなくなるこの教義をいかに恐れているかは、スー族の伝統派やAIMが1973年のパインリッジ居留地内のウンデッド・ニーの占拠の際や1975年に、ウンデッド・ニーでゴースト・ダンスを復活させた際、連邦捜査局(FBI)捜査官が繁みに隠れてこれを監視していたことからも推し量れる。テキサス州のカド族保留地(カドハダチョ連邦)では、ゴースト・ダンスは弾圧の対象とならず、現在まで続く年中行事である。ただ、踊りの作法などが違っており、厳密に上記の儀式と同じものかは分からない。インディアンは自らの宗教を実践するのに連邦の許可証を必要とする、アメリカ合衆国唯一の民族集団である。「鷲の羽法()」は、連邦が承認する部族を祖先に持つことが証明可能な個人だけが、ハクトウワシとイヌワシの羽を宗教的または霊的に使用する権限を与えられることを規定している。インディアンと非インディアンの両者とも、法が人種差別的で部族の主権を侵害しているとして、たびたびこの「鷲の羽法」の価値と妥当性を争ってきた。インディアンが非インディアンに鷲の羽を与えることは昔から行われてきた慣習であり、同法はこれを禁じているが、形骸化している。インディアンにとって、煙草の葉は神聖な清めの神具であり、またパイプも単なる喫煙具ではなく、どちらもすべての儀式に欠かせない特別な存在である。どんな部族でも儀式の際には、セージや杉の葉などと合わせ、煙草の葉による清めが行われ、「ピースパイプ」または「メディスンパイプ」と呼ばれる聖なるパイプを用いた喫煙が行われる。パイプは天上の精霊との通信役を担い、タバコの煙はその媒体の役目をする。どの部族もたいてい、父祖から伝わる神聖なパイプを保持している。パイプはパスポートの役目も持っており、友好の意思を表す。インディアンでも非インディアンでも、ピースパイプを回し飲む際に、約した言葉を違えることは絶対に許されない。サンディア・プエブロ族とアパッチ族、ナバホ族、コマンチ族が18世紀に結んだ和平の儀式では、回し飲みした煙草が土に埋められた。以後サンディアと彼らとの争いは一切行われていない。20世紀のスー族のメディスンマンでレオナルド・クロウドッグの父、ヘンリー・クロウドッグは、土産物屋でインディアンのパイプが売られていることの是非について問われた際に、これを肯定し、「インディアンにとってのパイプは、白人にとっての聖書と同じだ」と述べている。スー族のインディアンたちはミネソタ州のパイプストーン国定記念物からしか採れない赤い石(パイプストーン)でパイプの火皿を作る。この鉱物は、画家ジョージ・カトリンに因んで「カトリナイト()」と名付けられている。スー族の伝承では、カトリナイトは先祖の血で出来ているとされる。聖なるパイプの火皿の素材となるカトリナイトの採石場は全ての部族にとって中立の土地とされていた。長らく条約を破った白人による不法占拠が続いたが、現在ではスー族が占有権を持ち、ここでカトリナイトを採掘できるのはインディアンだけである。インディアンはヨーロッパの風土病に対する免疫を持たなかったため、ヨーロッパ人と初めて接触したインディアンはしばしば容易にヨーロッパからの伝染病に感染し、斃(たお)れた。インディアンの人口は激減し、インディアン社会は深刻な打撃を被った。また、初めて見る馬や兵器によって、インディアンはパニックに陥り、たった十数人のスペイン騎士に対して何千人ものインディアンが敗走するという事態も招き、こうした闘争によって土地を奪われていった。17世紀の前半から18世紀末までの長い闘争の歴史を一括りにして、インディアン戦争と呼ぶ。レナペ族とフィラデルフィア、ワンパノアグ族とプリマス植民地、コンコードのように、入植者とインディアンが和平を結んで短期間共存した例もあるが、入植者の人数が増え、新たな入植地の需要が増すと共に破綻している。入植初期には、拉致したインディアンや裁判で有罪とされたインディアン、戦争で捕虜となったインディアンを奴隷として売買することは合法とされた。フレンチ・インディアン戦争やアメリカ独立戦争など、ヨーロッパ諸国がインディアンの諸部族を戦力とみなして同盟を結んだために植民地をめぐる争いに巻き込まれた例も多い(インディアン戦争)。部族の利害を十分考慮した上で参戦したとしても、結果として敗者の側につくことになった部族の運命は過酷であった。白人社会の大規模農園開拓で土地や水源を奪われたり、バッファローなどの自然資源を巡って度々対立した記録が残されている。インディアンを殲滅する目的で、白人が病原菌の付着した毛布などを贈って故意に伝染病に感染させようとした事実が歴史に記録されている。ヨーロッパ人がアメリカ大陸にやってくるようになった頃、1890年12月ウンデッド・ニーの虐殺により、白人によるインディアン戦争は終結した。最終的には推定1000万人いたインディアンは白人の直接・間接虐殺により実に95%が死に絶えた。しかしそれ以前からはスペインはサント・ドミンゴ、プエルトリコ、ジャマイカ、キューバなどを征服し、そこの先住民ほぼ100万人を殺すか病死させるか奴隷にした結果ほとんどが絶滅してしまい、純血は確実に絶滅した。さらにインカ帝国、マヤ帝国、アステカ帝国のような文明大国はスペイン人の暴虐な植民地政策による虐殺またはヨーロッパからの疫病により人口が激減し、例えばインカ帝国の人口が最大で1600万人存在していたが108万人まで激減し、アステカ帝国の領域に限って言えば、征服前の人口はおよそ1100万人であったと推測されるが、1600年の人口調査では先住民の人口は100万程度に激減した。スペインは植民地政策でアメリカ合衆国・カナダよりも多く先住民を一掃してしまい、その数は2000万人 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3000万人である、スペインの植民地政策の凄まじさが理解できる。19世紀になると、「インディアン強制移住法」を制定したアンドリュー・ジャクソン大統領によって、「保留地制度に基づく強制移住に従わないインディアン部族は絶滅させる」とする「インディアン絶滅政策」が推し進められた。これはユリシーズ・グラント大統領や、ウィリアム・シャーマン将軍らによって更に強化され、民族虐殺の戦火はさらに西部へと拡大した。南東部での「セミノール戦争」は、白人とインディアンの国家間戦争としては最大級のもので、ジャクソンはこの戦いに焦土作戦による徹底殲滅を図った。「セミノール戦争」は現在、「インディアンのベトナム戦争」と呼ばれている。長い間各国政府は法律を定め、狭い保留地にインディアンを押し込めて合法を装った。なかでも有名なものに1838年10月から1839年3月にかけてのチェロキー族の強制移住がある。これはインディアンの領地で金鉱が見つかり地価が暴騰し、それに目をつけた(後述の法制定時の)大統領アンドリュー・ジャクソンが「インディアン強制移住法」を定め、アメリカ南東部に住んでいたチェロキー族とセミノール族、チョクトー族、クリーク族をインディアン準州(現在のオクラホマ州のオザーク高原近く)に移動させたというものである。厳しい冬の時期を陸路で、しかも多くの者は徒歩で1,000kmもの旅をさせられたために1万2,000人のうち8,000人以上が死亡した。のちにインディアンの間では、この悲惨な事件を「涙の旅路」と呼ぶようになった。1862年、キット・カーソンによる殲滅戦に降伏したナバホ族も、300マイル(約483km)以上離れたボスケ・レドンドという灼熱不毛の地に徒歩で強制移住させられた。険しいサングレ・デ・クリスト山脈を越え、ニューメキシコ州をほぼ完全に横断するかたちのこの旅路は「ロング・ウォーク」と呼ばれる。彼らはそこで農耕を強制されたが、やせた砂漠の土地での農耕は不可能であった。の粘り強い異議申し立てで、1868年、部族は元の地に帰ることを許されたが、この例外事の理由として、ナバホの土地が、白人にとって当時は価値のない砂漠であったことが幸いした。この往復路で女・子供・老人を含めた数百人のナバホの民が死んだ。故郷には戻ったものの、そこにはすでに近隣のホピ族が住み着いてしまっており、ナバホ語での地名は失われてしまった。また、現在も続くナバホとホピの土地紛争の原因となっている。インディアンはアメリカ政府との間で、一方的な条約に署名させられ、さらに政府側が一方的にそれを破ることの繰り返しとなる。インディアンの中にはレッド・クラウドやスポッテッド・テイルのように連邦政府の側について、抵抗するインディアンを非難する者もあった。こうした状況の中で、決して条約に署名しなかったラコタ族のクレイジー・ホース、開拓者を震え上がらせたアパッチ族のジェロニモらの抵抗は一定の戦果をあげたものの、結局は米国陸軍の兵力によって屈服させられた。20世紀後半にクレイジー・ホースは非インディアンから再評価され、サウスダコタ州ブラックヒルズに世界最大級の石像クレイジー・ホース記念碑が建設中であるが、伝統派からは猛反発を受けている。1868年にスー族と米国政府はララミー条約によって、サウスダコタ州にあるスー族の聖地ブラックヒルズは永久にスー族のものであると確約したが、ジョージ・アームストロング・カスターがブラックヒルズに金鉱を見つけると、開拓者が金を求めてブラック・ヒルズに侵入し、条約は破られた。絶望的な状況に置かれた西部のインディアンの部族には、ゴーストダンスを踊ることで平和なインディアンの国が還ってくるという終末的信仰ゴーストダンスが大流行した。信じるものは銃弾も効かないとされるこの宗教を恐れた白人は、ゴーストダンスを禁じ、スー族のゴーストダンス指導者を含むの一団をサウスダコタ州のウンデット・ニーに連行した。白人の話では一人が銃で抵抗したということになっているが、インディアンの話では、一人がナイフを持って手放さなかっただけで200人以上が虐殺された(ウンデット・ニーの虐殺)。ここに連邦政府とインディアンの戦いは終わる。1890年12月29日のことである。アメリカ人の歴史では1890年はフロンティアが消滅し、西部が勝ち取られた輝かしい年とされているが、インディアンにしてみれば1890年は、アメリカインディアンがひとまず征服された年なのである。「アメリカのフロンティア」が消滅したのち、白人はインディアン問題を処理すべく、その同化に注力し始める。オーストラリアのアボリジニや日本のアイヌ、極北のエスキモー、中国の少数民族等と同じく、支配民族による同化政策は、北米においても19世紀末から組織的に行われた。代表的なものは、ペンシルベニア州カーライルの「」の創始者であり、校長を務めたによる、「人間を救うためにインディアン(野蛮人)を殺せ」という標語に代表される、インディアンの子女を親元から引き離し、「インディアン寄宿学校」に送ってインディアンの文化や言語を禁じ、軍事教練を基本にした指導による、キリスト教や西洋文化の強制学習である。同化政策によって言語をはじめとする地域文化が失われ、生き延びた者も混血化が進み純粋な部族は残り少ない。こうした「インディアン寄宿学校」の学科に経営学や経済学といったものは皆無で、教えられるのは靴の修繕や繕い物の手工業などの技術のみであった。生徒たちが部族語を奪われ、卒業して保留地に戻っても、そこには靴屋も仕立て屋もなく、学んだ技術は何の役にも立たず、失業者として白人の町へ働きに出ざるを得なくなった。一世代前までのインディアンたちは、こうした同化政策の強制教育で部族語を禁じられ、学校で部族語を話せば、「汚い言葉を話した」として石鹸で口をゆすがされるなどの罰を白人教師から受けた。こうした経験から、英語しか話せない人が多い。これに対抗し、1970年代から各部族ごとにインディアンによる「部族学校」を設立する動きが見られるようになった。インディアン完全自治の学校としては、カリフォルニア州に1971年に創設された『』(略称『D-Q大学』)が知られるが、認可の喪失、学生数の減少や資金運用の不備から閉校の危機にさらされている。近年、このような動きの中、連邦や州政府の譲歩で部族語学習が部族学校などで取り入れられるようになり、現在の学童の世代と、英語のわからない三世代以前との間で言葉のコミュニケーションが実現するようになった例もある。しかし、結局部族語は保留地外では実用的でないため、絶滅の危機に瀕する言語を保存し、どう文化的に発展させていくのか、その先行きが注目されている。インディアンのコミュニティーを根本から破壊し、自殺率の増加など深刻な問題を引き起こすいま一つの社会制度が、無意味な「里親制度」である。これは、貧困のため生活困難と州が認定したインディアンの家庭から、出生前に選定して強制的に取り上げ、実の親を知らさないまま白人の家庭で育てるというものである。これも白人からすれば「インディアンを殺し、人間を救え」との発想で生まれた、一方的な草の根ボランティアの一環であったのだが、彼らは白人の家庭で、なんらインディアンとしての文化も歴史も教えられることはなく、白人としてのみ育てられるのである。やがて物心ついた時にこの子供たちは「自分はインディアンでも白人でもない」というアイデンティティーの喪失に苦しみ、その結果、ほとんどが10代のうちにアルコール依存症になるか自殺してしまうという悲劇を生み続けている。1969-1974年に実施された全国調査では、実に全米のインディアン児童のうち25%-35%が、彼らの家から引き離され、州の法廷と福祉代理業者によって白人の家庭に置かれている。1974年に、これら強制的な寄宿学校制や里親制度について、デニス・バンクスは「一種の誘拐である」と批判声明を出している。1978年、この深刻な惨禍の状況に対するインディアン側の抗議と、「文化的虐殺」とする国際世論による批判を受け、連邦議会で制定されたのが「」(ICWA)である。この法令は、里子に出すか否かの決定を州や代理業者に委ねるのではなく、その子の帰属する部族会議に管轄権を認め委ねさせるものである。この法令の施行で無意味な里親制度は近年ようやく廃止の傾向にあるが、州によってはこれを認めず、また白人の無知と無理解によって未だにこの民族浄化は実行されており、予断を許さない状況にある。2000年、アメリカ合衆国およびBIAは、これら同化政策を犯罪的行為と認め、謝罪を行った。(→「BIAの歴史的な謝罪」)かつて合衆国連邦とインディアンとの間では保留地を始め、371に上る権利を巡る条約が結ばれてきたが、これはまったくないがしろにされ続けてきた。そもそも1879年にポンカ族のスタンディング・ベアー()酋長と、オマハ族のとのラ・フレスカ姉妹が、最高裁で部族強制移住の違法判決を勝ち取るまで、インディアンは人間として認められていなかった。この判決で初めて、最高裁は「インディアンは人間である」との文言を判決文に書き添えてこれを認めたのである。この百年余り、インディアンの差別廃止と自治権および権利回復を果たすため、さまざまな個人・団体が政治活動を行い、これを是正させようとしてきた。最初期の組織だった活動では、1911年にオナイダ族の環境保護運動家ローラ・コーネリアス(Laura Cornelius)や、オマハ族のラ・フレスカ姉妹といった、東部で欧米式の教育を受けたエリートたちが起こした「アメリカ・インディアン協会」がある。彼女らは「国際的インディアンの日(ナショナル・インディアン・デー)」を作り、10月12日の「コロンブス・デー(コロンブスのアメリカ「発見」の記念日)」に対抗して、「インディアンが白人のアメリカを発見した日!」というスローガンを掲げた。1944年には、第二次大戦におけるインディアンの貢献下の影響力をバックに、ワシントンD.C.に本部を持つ「)」が結成され、圧力団体として各部族から代表者を送り込み、「大声で吼えまくる赤い番犬」と呼ばれた。彼らは伝統衣装ではなく洋装し、欧米文化の中から運動したため、主流のアメリカ人からも支持を集めた。しかし、若い世代のインディアンからは「白人キリスト教化されたハイアワサ、ポカホンタス、トント」と揶揄され、支持共感を得られなかった。これを踏まえ、1961年にシカゴで、スー族のヴァイン・デロリア()、ウォーカーリバー・パイユート族のメル・トム(Melvin Thom)、ポンカ族のクライド・ウォリアー(Clyde Warrior)、ビル・ペンソニュー(William Pensoneau)、ナバホ・カイオワ族のジョン・ベリンドといった、大学教育を受けた若い世代を中心に、「全米インディアン若者会議(NIYC/The National Indian Youth Council)」が結成された。彼らは「若い世代は声を上げるべきだ」と唱え、「インディアン人権宣言」を起草し発表した。これは「AIM」の前身ともいうべき組織であり、指導者達はのちにAIMに合流した。また1960年代から1970年代に掛けて、自らをブラックと名乗る黒人たちによる公民権運動の盛り上がり()があり、これに呼応して同時期に興ったこれらのインディアンの権利回復要求運動は「」と呼ばれ、注目を集めた。黒人とインディアンの運動の方向性の違いを表すものとして、当時の運動の中でこういう発言がある。「黒人達は白人の中に入りたがる。だが我々インディアンは、白人の外へ出たいのだ」全米インディアン若者会議は、のちに下記の北東部漁業権運動を率い、「アメリカ・インディアン・サバイバル学校協会」の創設者となるアシニボイン族のハンク・アダムス()を輩出。とくに当時適用の決まった、インディアンに対する狩猟・漁業の権利剥奪法に抗議し、ワシントン州のあちこちで「違法に」魚を獲ってみせる「フィッシュ・イン(fish-ins)」抗議行動で注目された。レッド・パワーの中でも1968年7月29日にデニス・バンクス()や、クライド・ベルコート(、初代AIM代表)ら、大学教育を受けていないスラム育ちの血気盛んな若者によって創設された、アメリカ・インディアン運動()はことに有名である。ミネソタ州の刑務所で出合い、二年にわたり構想をまとめたオジブワ族のバンクスやベルコートたちは、釈放後、ミネアポリスで結成大会を開き、インディアンの権利回復のためのさまざまな活動を始めた。当初、この団体名は「CIAC(憂慮するインディアン協議会)」だったが、「CIA」と読みが重なることに異議が出て、9月に現在の「AIM」に改められた。「AIM」の命名は、インディアン女性メンバーの「あんたら男達は何でも目標(Aim)、目標って言いたがるんだから、いっそAIMにしたらどうだい?」という発言による。彼らは前述の団体とは違い、自ら「スキンズ」と名乗り、AIMのジャケットや、「インディアンの力」、「インディアンと誇り」と書かれたバッジを着け、髪を伸ばして編み、ビーズや骨の首飾りをし、髪や帽子に鷲の羽根をつけた。AIMの若者達は霊的な後ろ盾を得るために、自ら伝統派のメディスンマンたちを探し、協力を求めた。彼らは同化政策によって言語や文化を奪われた世代であり、伝統的な宗教儀式の実践によって、インディアンとしての民族性回帰を強調したことが大きな特徴だった。指導者達はまず1970年にスー族の伝統派宗教者達の支持を得て、古来の宗教儀式を実践した。1971年には「サン・ダンス」のピアッシングの誓いを立て、「ゴースト・ダンス」を復活させた。スー族からはレオナルド・クロウドッグ(Leonard Crow Dog)たち多数、オジブワ族からはエディー・ベントン(Eddie Benton-Banai)、オクラホマのムスコギー族からはフィリップ・ディアー(Phillip Deere)といった、すでに数少なくなっていた伝統派のメディスンマンが、彼らを精神的に支えた。彼らはメディアに訴えかける戦術を取り、さまざまな組織との共闘・支援を行った。彼らはポンカ族の女性運動家ハープ・ポーズの提唱によって全員が禁酒の誓いを立て、アルコールに溺れる若者たちを「インディアン戦士」に甦らせた。彼らの抗議行動は、「大集会を開き、人々の共感を集める」、「争点を徹底的に明確にする」の二点に絞られ、反暴力主義を掲げた。組織統治のアドバイザーには、イロコイ連邦のオノンダーガ族指導者のオレン・ライオンズ()がついた。1969年11月には、ミネアポリスで第一回「全米インディアン教育会議」が開催され、数千人規模のインディアンが全米から参加。AIMもこれに合流し、ラッセル・ミーンズや、大学教授リー・ブライトマン(Lee Brightman)らスー族の活動家たちがAIMに加わった。AIMは「教育問題委員会」を結成し、アメリカの標準歴史教材のなかでも差別的な「ミネソタ・北の星」の永久使用禁止を要求して教育委員会を提訴し、インディアンを「野蛮人」扱いした教科書差別表現の削除と併せ、これを実現させた。インディアンの子供たちは、白人の学校に入学させられても、これら差別的な教科書内容に嫌気がさしてすぐに落ちこぼれてしまうのである。また、チャック・ロバートソンによって、「インディアン寄宿学校」への対抗として、「インディアンによるインディアン

出典:wikipedia

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