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栃東大裕

栃東 大裕(とちあずま だいすけ、1976年(昭和51年)11月9日 - )は、東京都足立区出身(出生地は東京都墨田区)で玉ノ井部屋所属の元大相撲力士。現在は年寄・14代玉ノ井。最高位は東大関、現役時代の体格は身長180cm、体重155kg。得意手は、おっつけ、ハズ押し、叩き、いなし、右四つ、寄り、上手出し投げ。本名は志賀 太祐(しが だいすけ)、血液型はA型、星座は蠍座。趣味は若い頃はラジコン、大関昇進後はゴルフ。13代玉ノ井親方(関脇・栃東)の次男として、東京都墨田区に生まれる。小学生時代は野球や水泳に熱中し、原辰徳(巨人)から贈られたサイン入りのグローブが当時の宝物であった。小学校6年生の時に相撲に転向し、明大中野中学校に進学して相撲部に入部した。しかし当初は体が硬く、脚を広げて上半身を床につける股割りもできず、中学までは全国レベルの力はなかった。父には高校横綱になることを角界入りの条件にされ、明大中野高校3年生の時に見事高校横綱に輝き、高校在学中の1994年(平成6年)11月場所に父が師匠の玉ノ井部屋に入門して本名の志賀の四股名で初土俵を踏んだ。序ノ口場所前の稽古で左膝を痛め1995年(平成7年)1月場所は前半を休場したが、8日目の4番相撲から出場して残り4番を全勝してこの場所を4勝0敗3休とした。まわしを取って投げる相撲が得意だったが「今の相撲ではまたけがをする。まわしを取らないでおっつける相撲にしないとだめだ」と反省。投げで振り回す相撲から、脇を固めて押す相撲に変えた。けがを教訓に、母校の先輩、3代目若乃花を見習った。そこから快進撃が始まり、同年3月場所は序ノ口7戦全勝優勝、同年5月場所は序二段7戦全勝優勝、同年7月場所は三段目7戦全勝優勝、幕下に昇進した同年9月場所の1番相撲の白星まで26連勝を飾った。この場所は3勝4敗に終わり入門以来初めて負け越したが、同年11月場所は7戦全勝で優勝、1996年(平成8年)1月場所では幕下3枚目で5勝2敗、同年3月場所では幕下2枚目で5勝2敗と好成績をおさめ、同年5月場所には初土俵からわずか所要8場所で十両に昇進するとともに、父の四股名でもあった栃東に改名した。十両でも同年5月場所は10勝5敗、同年7月場所は10勝5敗、同年9月場所は初日から10連勝と波にのり12勝3敗で十両優勝を果たし、同年11月場所には早くも新入幕を果たした。序ノ口から十両まで全段で優勝をしたのは、史上3人目であった。入幕後は早くから「大関候補」として期待を集め、新入幕の11月場所では初日から5連勝をするなど10勝5敗(単独次点)の好成績をおさめて敢闘賞を受賞した。翌1997年(平成9年)7月場所にはわずか入幕5場所で新三役に昇進して新小結で9勝6敗の成績を挙げ技能賞を獲得、同年9月場所は新関脇で10勝の2ケタを上げて連続技能賞を受賞した。いなしてから左右からのおっつけ、前廻しを引いてからの出し投げなど、その取り口はベテラン力士から若手らしく正面からぶつかってこないのでやり辛いと言われるほど技が多彩であった。しかし、ここから栃東の苦闘が始まる。東関脇と番付を上げた1997年11月場所では右足捻挫で7勝8敗と負け越し、翌1998年(平成10年)3月場所は右肩剥離骨折のため6日目から途中休場、翌5月場所も公傷休場。この剥離骨折が重症で、関脇復帰まで約1年半を要することになった。2000年(平成12年)7月場所は関脇連続5場所目となり、12勝3敗の優勝次点という好成績をおさめて5回目の技能賞を受賞した。待ちに待った大関挑戦場所となった同年9月場所は、右肩関節脱臼のため6日目から途中休場、翌11月場所も公傷休場、度重なる怪我に泣いた。公傷明けの2001年(平成13年)1月場所は、10勝を上げて翌場所には早くも三役に復帰した。同年3月場所は小結で9勝6敗として3回目の殊勲賞、同年7月場所は関脇で10勝5敗と6回目の技能賞を獲得した。同年9月場所は12勝3敗の優勝次点と完全復帰したが、立合いからいきなり変化する注文相撲が4番もあったため、三賞候補から外れてしまった。しかし、2回目の大関挑戦場所となった同年11月場所では、それまで何回も批判を浴びてきた立合い変化を一度も見せることなく初日から7連勝、12勝3敗で連続優勝次点、7回目の技能賞(三賞受賞12回目)を獲得するとともに、念願の大関昇進を決めたのであった。怪我の影響もあってなかなか大関昇進を果たせず、入幕から大関昇進までは5年の歳月を要した。新大関の2002年(平成14年)1月場所では初日から11連勝、13勝2敗で初の幕内最高優勝を果たし、一躍「横綱候補」へと躍り出た。しかしチャンスを生かせず、その後はもともと体が硬いためもあってか怪我を多発して、それにより大関から2回も関脇へ陥落する屈辱も味わった。しかし2回共に10勝以上の好成績をあげて、各1場所で大関特例復帰を果たした。なお関脇転落後大関に2度も返り咲いた力士は栃東が大相撲史上初めてで、2016年(平成28年)7月場所現在も栃東ただ一人のみである。なお、大関に昇進した頃から脳梗塞の予兆である時々起こる頭痛に悩まされていたが、この時期の健康診断では異常が指摘されず、本人も「一時的なもの」と我慢した。若い頃から稽古の鬼であったが、硬い筋肉をつける稽古のしすぎで故障を招いているため、稽古量を抑えたらどうかと指摘を受けた。そのため体を休ませながら稽古をするとともに大相撲に適した柔らかい筋肉に肉体改造をしたことが功を奏し、2006年(平成18年)1月場所では14勝1敗の好成績で13場所ぶり3度目の幕内最高優勝を果たした。なお、この栃東の優勝を最後に同年3月場所以降、2016年(平成28年)の初場所において琴奨菊が優勝するまで日本出身力士の幕内最高優勝は10年間出なかった(いわゆる「ウィンブルドン現象」と言われる)。横綱昇進を期待された同年3月場所では、序盤における下位力士への取りこぼしがたたり優勝を逃し横綱昇進が見送られた。ただし、終盤に大関昇進が確実な関脇・白鵬や優勝した横綱・朝青龍を本割の土俵で破っての12勝3敗という内容が評価されて、翌5月場所に横綱昇進の可能性を残した。3月場所中に足を痛めてしまい、5月場所では更に怪我が悪化して左膝半月板損傷により休場に追い込まれた。3代若乃花以来8年ぶりの日本人横綱の誕生を多くの相撲ファンに期待され、また当時全盛を誇っていた朝青龍に唯一まともに渡り合える日本人力士だったため、横綱審議委員会も「13勝なら昇進させても良いし、12勝でも優勝なら検討する価値はある」とかなり甘めの昇進基準を提示していたが、それに応えることはできなかった。2006年(平成18年)7月場所は、綱取りから一転自身7度目の角番となった。それでも初日から7連勝、給金相撲となった8日目は対戦相手の露鵬が前日の取組後にカメラマンに暴行事件を起こしたため3日間の出場停止となり、幸運にも不戦勝により勝ち越して角番を脱した。しかし9日目からは元気がなくなり、8連勝の後7連敗という珍記録を残し、さらに11日目の横綱・朝青龍との取組で土俵に膝を強打し負傷してしまった。翌9月場所は、痛めた膝の影響で初日から3連敗したが、その後は持ち直し9勝6敗で勝ち越した。次の11月場所では、9日目まで8勝1敗と朝青龍を追う一番手として期待されたが、10日目に出島との取組で古傷の膝を強打、さらに親指を剥離骨折して心配されたが、同年3月場所以来の10勝を記録した。しかし場所後も膝の状態は思わしくなく、12月20日に内視鏡を用いた左膝のクリーニング手術(軟骨の除去及び半月板の一部切除)を行った。 2007年(平成19年)1月場所は、手術後2日目には退院して一週間後には稽古も再開したが、膝に違和感が残っており十分な稽古が積めない状態と、出場が微妙な状況な中、感覚を取り戻すためと強行出場した。しかしながら膝の踏ん張りが効かず、初日は琴奨菊、2日目は露鵬にあっという間に寄り切られた。更には中日から4連敗するなど体の切れも悪く、13日目に負け越しが決まった。大関の地位での皆勤負け越しは、2003年(平成15年)7月場所以来自身2度目であった。最終的に5勝10敗と幕内で初めての二桁黒星に終わった。8度目の角番となった次の3月場所は、場所前「5日目までに2勝できなければ、その時点で引退する」という意向を明らかにしてファンを心配させたが、初日から7連勝し10日目に勝ち越して角番を脱出した。しかし、場所途中から高血圧や頭痛に悩まされ、11日目の朝青龍戦(結果的にこれが栃東の現役最後の一番となる)の取組後、翌12日目には途中休場して急遽入院した。父・玉ノ井親方は会見で「クモ膜下出血の疑いもあって心配だ」とコメントし、容態が気遣われた。 この時点の診断では、過去に起こした脳梗塞の跡が発見されたが、それ以外には脳に異常は見られなかった。そこで、血圧を下げる投薬療法により一旦は回復して退院した。その後栃東本人曰く「辞めるなんて一言も言っていない」と語っていたが、3月場所後の巡業は大事をとって土俵入りだけの参加となった。同年4月26日には脳を含めた内臓などの精密検査を受けるため再入院し、同年5月場所は休場することが濃厚になっていた。そして検査の結果、医者から「このまま相撲を取り続けたら脳梗塞を再発させるどころか、生命にも危険が及ぶ」と宣告され、これ以上現役を続行するのは不可能と診断された。本人は最後まで現役への意欲を見せたものの、病気には勝てず、同年5月場所開催直前の5月7日に引退を正式に発表した。なお大関在位数は30場所(番付上は31場所)、北葉山と並んで当時史上11位タイ(現在12位タイ)の記録だった。現役引退後は、年寄・栃東を襲名して玉ノ井部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たった(大関は引退後3年間、現役時の四股名のまま年寄として協会に残留することができるが、1997年(平成9年)5月の制度改正以来、大関として初めてその特権を利用した)。引退相撲と断髪式は、2008年(平成20年)2月2日に両国国技館で行われた。引退後程無くして脳梗塞治療の目的で75kgの減量を敢行し、現在では現役時代の半分程度である80kgまで落としている。父であり師匠でもある13代玉ノ井親方が2009年(平成21年)9月2日に停年(定年)退職となったため、翌9月3日付で年寄・14代玉ノ井を襲名するとともに玉ノ井部屋を継承した。2012年1月、35歳という異例の若さで日本相撲協会副理事に当選し事業部副部長、広報部副部長、警備本部副部長に就任した。2014年4月の職務分掌でも副理事を続投した。2013年1月場所前の新弟子検査で爆羅騎(本名・伊藤爆羅騎)の身長検査を担当しており、背伸びを敢行した結果として普段160cmしかない身長を167cmまで稼いだ爆羅騎に関して「気にならなかった。夢を持つ子をサポートしたいから」と話していた。この例のように、栃東は身長の基準に対して柔軟な姿勢で検査を行う傾向がある。多彩な技を持ち、特に頭を下げながら脇を締めて相手を押し上げる左右のおっつけは栃東の代名詞だった。前廻しを引いてからの上手出し投げやタイミングの良いいなし、廻しを切るのも得意。このように技能派力士として素質は非常に高い一方で立ち合いの変化を使用することがあり、それがイメージを悪くさせることもあった。第11回横綱審議委員会稽古総見の『どすこいFM』で「ここだから言いますけど、私は貴乃花より栃東の方が強いと思っていた」と栃東を評価する敷島も「稽古場で自分の形で勝てるようにならないと、本番でも勝てませんよ」という栃東の意見に対して「稽古場で自分の形でやってたなんて言いますけど、そんなワケないですよ。優勝決定戦で変化するような人ですよ」と反発するなど策士ぶりを表現したことがある。横綱朝青龍に10勝15敗、大関白鵬(栃東の引退直後に横綱昇進)に5勝8敗(そのうち2敗は不戦敗)、琴欧洲に5勝6敗、安馬(現日馬富士、後に横綱昇進)に5勝1敗と外国人力士にも引けを取らず、中でも当時全盛期を誇っていた横綱朝青龍にまともに戦える唯一の日本人力士であり、横綱昇進の期待も高かったが、怪我が多いことも影響してチャンスを活かせず実現は出来なかった。 (カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。太字は2015年5月場所現在、現役力士)

出典:wikipedia

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