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一式戦闘機

一式戦闘機(いっしきせんとうき、いちしき-)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。キ番号(試作名称)はキ43。愛称は隼(はやぶさ)。呼称・略称は一式戦、一戦、ヨンサンなど。連合軍のコードネームはOscar(オスカー)。開発は中島飛行機、製造は中島および立川飛行機。四式戦闘機「疾風」(キ84)とともに帝国陸軍を代表する戦闘機として、太平洋戦争(大東亜戦争)における事実上の主力機として使用された。総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍の戦闘機としては海軍の零式艦上戦闘機に次いで2番目に多く、陸軍機としては第1位。1937年(昭和12年)12月に制式採用された中島製の全金属製低翼単葉機九七式戦闘機(キ27)は、主脚に固定脚を採用した保守的な格闘戦向けの戦闘機だった。登場当初の九七戦は速度・上昇力・旋回性に優れた優秀機であったが、当時の欧州では引込脚のBf 109(ドイツ)とスピットファイア(イギリス)が出現しており、設計面で将来性が乏しい九七戦自体に限界を感じていた陸軍は新型戦闘機の開発を模索するようになった。そのため九七戦採用と同月である12月、陸軍航空本部は中島に対し一社特命でキ43の試作内示を行い、1939年(昭和14年)末の完成を目指して開発が始まった。主な要求仕様は以下の通りとされている。中島では設計主務者たる小山悌課長を筆頭とする設計課が開発に取り組み、担任技師(設計主任)は機体班長たる太田稔技師、構造設計担当青木邦弘技師、翼担当一丸哲雄技師、ほかに空力担当として糸川英夫技師らが設計に協力し、群馬県の太田製作所で開発が始まった。なお、九七戦開発中に考案された航本の昭和12年度『陸軍航空兵器研究方針』において、単座戦闘機は「機関銃搭載型」と「機関砲搭載型」の2種が定義されており、これに則って開発が始められた機体がキ43(前者)とキ44(後者)である(のちに二式戦闘機「鍾馗」となるキ44は1938年(昭和13年)に同じく中島に対して研究内示が行われた)。昭和13年度『陸軍航空兵器研究方針』ではそれらを発展させた区分として「軽単座戦闘機」と「重単座戦闘機」が登場、「軽単座戦闘機(軽戦)」は格闘戦性能を重視し機関銃を装備、「重単座戦闘機(重戦)」は速度を重視し機関砲を装備するものと定義され、当時開発中であったキ43は「軽戦」に、キ44は「重戦」となっている。そのためキ43はキ44と比べて格闘戦を重視するものであった。青木技師は陸軍の要求は「九七戦に対し運動性で勝ること」で「近接格闘性」という表現を排除していることに着目し、キ43は重戦指向であったと述べている。さらに区分が明文化された昭和15年度『陸軍航空兵器研究方針』では、「重戦」は高速重武装かつ航続距離や防弾装備にも優れ対戦闘機対爆撃機戦に用いる万能機たる本命機に昇華した一方で、「軽戦」は格闘戦を重視し主に対戦闘機戦に用いる性能装備面で妥協した補助戦闘機的ものとなっている。1941年12月には中島に対し「重戦」の発展型としてキ84の内示が行われ、これはのちに四式戦闘機「疾風」として制式採用、これは速度・武装・防弾・航続距離・運動性・操縦性・生産性に優れた万能機たる本命機となっている。続く昭和18年度『陸軍航空兵器研究方針』では「軽戦」と「重戦」の区分は廃止され、妥協の産物かつ既に時代遅れの存在である「軽戦」は「重戦」に併呑され「近距離戦闘機(近戦)」となっている(同年度方針では「近戦」のほかに「遠距離戦闘機(遠戦)」・「高高度戦闘機(高戦)」・「夜間戦闘機(夜戦)」の区分が登場。引込脚以外の機体基本構造は前作の九七戦を踏襲したことから開発は順調に進み(反対に日本機にとって革新的なキ44には新技術や新構想が盛り込まれた)、供試体である試作0号機を経て1938年12月に試作1号機(機体番号4301)が完成、同月12日に利根川河畔中島社有の尾島飛行場にて初飛行している(操縦はテスト・パイロット四宮清)。エンジンは中島で開発されたハ25を、翼型はNN-2・翼端部はNN-21を採用(上半角6度・取付角2度・翼端部2度捩下)、またアルミニウム製燃料タンクが出来た時点で陸軍から防漏タンク(防弾タンク・防火タンク)化の指示がなされている(#防弾装備)。試作1号機の胴体形状は増加試作機以降とは大きく異なり引込脚化された九七戦を引き伸ばした感じであり、風防は枠の無い曲面1枚物といった特徴がある(初飛行後に景色の歪みが問題とされ平面主用の3枚物に換装)。1939年(昭和14年)1月、立川陸軍飛行場に空輸されたキ43試作1号機は陸軍航空技術研究所による審査に移行。同年2月に試作2号機、3月には試作3号機が完成し審査に合流している。航技研や明野陸軍飛行学校での審査の結果、キ43は九七戦に比べ航続距離は長いものの旋回性に劣り最大速度の向上は30km/h程度ということが判明、さらに同年5月に勃発したノモンハン事件(主に前期ノモンハン航空戦)で九七戦が旋回性能を武器に活躍したこともキ43採用に対して逆風となっていた。同年11月、審査の結果を受け胴体以下各部を改め全体のスタイルがのちの制式機相当となった増加試作1号機(通算試作4号機)が完成したが、依然キ43の審査は長引いていた。そこで軽戦派・重戦派の双方から中途半端とみなされたキ43試作機型をそのまま制式採用することは見送り、より強力なエンジン(ハ105)に換装して高速化を図った改良型の開発を進めることが決定された。キ43の開発・改良が続けられる間にも日本とアメリカ・イギリスの関係は悪化の一途を辿った。1940年(昭和15年)夏、参謀本部は南進計画に伴い南方作戦緒戦で上陸戦を行う船団を南部仏印より掩護可能、また遠隔地まで爆撃機護衛および制空することが出来る航続距離の長い遠距離戦闘機(遠戦)を要求。アメリカ軍・イギリス軍の新鋭戦闘機に対抗可能と考えられたキ44(二式戦)の配備が間に合わないことと、陸軍飛行実験部実験隊(航技研審査部門の後身)のトップである今川一策大佐の進言もあり、一転してキ43試作機型に一定の改修を施した機体を制式採用することが決定。同年11月、主に以下を内容とする『キ43遠戦仕様書』が中島に示され、翌1941年(昭和16年)3月に改修機が飛行実験部実験隊戦闘班に引き渡され再度試験が進められた。かつて問題となっていた九七戦との運動性の比較については、戦闘フラップを使用しなくとも水平方向でなく上昇力と速度を生かした「垂直方向」の格闘戦に持ち込むことで、不利な低位戦であっても圧倒可能と判断されている。これはノモンハン事件におけるソ連軍戦闘機I-16の戦法を参考にしたものとされ、飛行実験部テスパイ岩橋譲三大尉の研究結果であった。これらの結果を受けて1941年(皇紀2601年)5月、キ43は陸軍軍需審議会幹事会において一式戦闘機として仮制式制定(制式採用)された。参謀本部の要請からキ43の採用を望んでいた航本総務部は、制式決定を待たず中島に対して400機生産の内示を出したとされており、一式戦量産1号機は同年4月に完成し6月時点で約40機がロールアウトしている。制式採用の遅れから、太平洋戦争開戦時に一式戦が配備されていた実戦部隊は飛行第59戦隊・飛行第64戦隊の僅か2個飛行戦隊(第59戦隊2個中隊21機・第64戦隊3個中隊35機)であった。しかし、南方作戦においてこれらの一式戦は空戦において喪失比で約4倍の数を、対戦闘機戦でも約3倍の数の連合軍機を確実撃墜、以下の記録は開戦日である南方作戦期間中たる1941年12月8日(マレー作戦開始)から1942年3月9日(蘭印作戦終了)にかけて、当時の日本軍と連合軍が残した戦闘記録比較調査により裏付の取れた一式戦の確実な戦果である。さらに、「南方資源地帯の確保」という理由で始められた太平洋戦争において、その開戦理由かつ陸海軍の南方作戦における戦略上の最重要攻略目標たる、オランダ領東インド(蘭印、インドネシア)スマトラ島パレンバンの油田・製油所・飛行場を陸軍落下傘部隊(挺進部隊)とともに制圧するなど(パレンバン空挺作戦)、一式戦は陸軍が想定していた以上の華々しい戦果を挙げた(#南方作戦)。1942年(昭和17年)後半以降は旧式化した九七戦に替わり改変が順次進められ、名実ともに陸軍航空部隊(陸軍航空隊)の主力戦闘機となっている。一式戦は西はインド(カルカッタ)、南はオーストラリア(ダーウィン)、東はソロモン諸島、北は千島列島とほぼ全ての戦域に投入された。最初期の頃は配備数の少なさ故に一式戦の存在自体が日本軍内でもあまり知られておらず、さらに当時の陸軍機は胴体に国籍標識(ラウンデル)の日章を記入することをやめていたため、海軍ばかりか身内の陸軍操縦者からも敵新型戦闘機と誤認され、味方同士の真剣な空戦が起こるなどの珍事もあった。このため1942年中後半頃からは陸軍機も再度胴体に日章を描く様になっている。南方作戦が一通り終了した1942年3月に一式戦は「隼」と名付けられ大々的に発表され、以降陸海軍内でも知名度を上げていった(#愛称)。一式戦は改良型が開発配備されるも大戦中期以降は旧式化し、戦況自体の悪化や連合軍が改良型機・新鋭機を大量投入し戦術も変更するようになってからは苦戦を強いられるようになり(#飛行性能)、1944年(昭和19年)後半以降は新鋭の四式戦が量産されこれに順次改変されているため配備数上では帝国陸軍唯一の主力戦闘機ではなくなった。カタログスペック上では大戦後期には完全に旧式化した一式戦だが1945年まで生産が続けられ、そのような機体を末期まで生産・運用したことを陸軍の不手際と評価する見方もあるが、重戦たる二式戦は運動性に優れた機体に慣れた操縦者(あるいは適応力のない操縦者)の中には使いにくいと評価する者がおりまた離着陸の難度が高く、エンジンの信頼性にも問題があり 三式戦闘機「飛燕」(キ61)は搭載水冷エンジンハ40の信頼性・生産性に問題があり全体的に稼働率が低くまた離昇出力も低く、1944年半ばより「大東亜決戦機」たる主力戦闘機として重点的に量産された四式戦はそのバランスの取れた高性能と実戦での活躍によりアメリカ軍から「日本軍最優秀戦闘機」と評されるものの、ハ45の不具合や高品質潤滑油・高オクタン価燃料・交換部品の不良不足によりこちらも信頼性に難があった。三式戦二型(キ61-II改)をベースに空冷エンジンハ112-IIに換装、速度性能と引換に「軽戦」などと評された運動性と比較的良好な稼働率を得た五式戦闘機(キ100)の配備は1945年までずれ込んだ。そのような中で立川の生産ラインを活用し三型の量産が可能であった一式戦は全期間を通じて安定した性能を維持しており、信頼性も高く、新人操縦者にも扱い易く、その運動性の高さを武器に最後まで使用は継続された(#運動性能)。末期には特別攻撃隊が運用する特攻機としても多用され、大型艦ではコロラド級戦艦「メリーランド」やポートランド級重巡洋艦「インディアナポリス」を大破させている。一式戦は特筆に価する点として、大戦初期に限らずビルマ(ミャンマー)やその南東、中国の戦線では大戦後期・末期である1944年後半以降においても連合軍戦闘機との空戦において「互角ないしそれ以上の勝利」を重ね(#ビルマ航空戦・#中国航空戦)、また、スピットファイア・P-38・P-47・P-51(P-51はアリソンエンジン搭載A型のみならずマーリンエンジン搭載B/C・D型をも含む)といった新鋭戦闘機との対戦でも「互角の結果」を残していることが挙げられる(中でもビルマ航空戦ではこれらの全新鋭機を一式戦は初交戦にて一方的に確実撃墜している(#ビルマ航空戦 後期))。これらの記録は日本軍と連合軍側の戦果・損失記録の比較により裏付も取れている「史実」である。一例として、以下の記録は1943年(昭和18年)7月2日から1944年7月30日にかけて一式戦が記録した裏付の取れている確実な実戦果・実損害である。末期においても不利な状況にて一式戦が活躍していた事例として、以下の記録が存在する。1945年(昭和20年)3月15日、バンコク付近にて飛行第30戦隊の一式戦2機が「第二次世界大戦最優秀機」と評されるアメリカ陸軍航空軍のP-51D 4機(当初は8機)と交戦、この一式戦2機は空中退避中にP-51D 4機編隊の奇襲を受けた劣勢にも関わらずまずその一撃離脱攻撃を回避、続く別のP-51D 4機編隊の攻撃は得意とする超低空域機動によってこれも回避、一式戦は反撃し1機(第1戦闘飛行隊第4小隊モダイン大尉機)を確実撃墜。日本軍・連合軍の戦果および損害報告記録たる一次史料をもって一式戦の戦績調査研究を行った梅本弘は、自著においてビルマ航空戦における帝国陸軍航空部隊と一式戦の活躍を以下の如く述べている。戦前中の日本では主に軍内部やマスメディア上において、陸軍航空部隊自体や各飛行部隊、航空機から空中勤務者などの比喩表現として「鷲(荒鷲・陸鷲)」「鷹」「隼」「翡翠」といった鳥類の呼び名が盛んに用いられており、かつ日本の戦闘機にも敵連合軍の「バッファロー」や「ハリケーン」のようなニックネームが欲しいという声を受け、陸軍航空本部発表の正式な愛称として一式戦は「隼」と命名(発案者は陸軍航空本部報道官西原勝少佐)、太平洋戦争開戦まもない1942年3月8日には「"新鋭陸鷲、隼、現わる"」の見出しで各新聞紙上を賑わした。この「隼」の名は一式戦をもって南方作戦で活躍した第64戦隊の部隊歌冒頭のフレーズ(後述、「エンジンの音 轟々と 隼は征く 雲の果て――」)から取られたものとされている。太平洋戦争中には戦況を報じる新聞・ラジオ放送・ニュース映画・雑誌・戦記本・絵本・軍歌(戦時歌謡)などといった各種メディアのみならず、加藤隼戦闘隊こと第64戦隊の戦隊長として南方作戦で活躍し軍神と称された加藤建夫少将や、「ニューギニアは南郷で保つ」と謳われた第59戦隊飛行隊長・南郷茂男中佐に代表されるエース・パイロットの活躍、映画『翼の凱歌』(1942年10月公開)・映画『愛機南へ飛ぶ』・記録映画『陸軍航空戦記 ビルマ篇』(共に1943年公開)・映画『加藤隼戦闘隊』(1944年3月公開)といった実機の一式戦が出演する映画作品、および第64戦隊で加藤少将のもと一式戦で戦った遠藤健中尉・檜與平中尉が記した戦記本『加藤隼戦闘部隊』(1943年5月発行、のち映画『加藤隼戦闘隊』原作本)、レコード化され大ヒットした第64戦隊の部隊歌『加藤部隊歌(加藤隼戦闘隊)』(1943年に灰田勝彦吹き込みで発売、映画『加藤隼戦闘隊』事実上の主題歌)、 伊丹陸軍飛行場(摂津陸軍飛行場)にて行われた一式戦の公開飛行(1943年3月、鹵獲したB-17・P-40との模擬空戦も披露)などを通じ、一式戦「隼」は太平洋戦争中、最も有名な日本軍戦闘機として日本国民に広く親しまれることとなった。『翼の凱歌』には撮影専用に用意された銀無地の一式戦一型のみならず、一式戦一型丙に改変した当時の飛行第1戦隊も「出演」しオープニング場面で斜め一直線に大編隊を組んだ姿(雁型編隊)を披露。『加藤隼戦闘隊』劇中の多数の一式戦一型および二型は明野陸軍飛行学校の保有機を動員し(撮影時期の都合で一型は少なく二型がメイン)、かつ第64戦隊の部隊マークである「矢印(斜矢印)」に描きなおされており、言わば「俳優」として「出演」したものであった。以下の文面はパレンバン空挺作戦後の1942年3月頃、第64戦隊の空中勤務者達が「隼」の命名発表を戦地で聴いた際の言動である。以下の発言は一式戦の呼称について、長年に渡り第64戦隊の空中勤務者であった檜與平少佐(1940年6月航士53期、第64戦隊附。最終時、第64戦隊第3中隊長)の談話である。ハ25(離昇950馬力)を搭載した一型(キ43-I)の最大速度は495km/h/4,000mにとどまった。ハ25は二一型以前の零戦に搭載された栄一二型とほぼ同じものであるが、燃料が統一される開戦直前まで、陸軍では海軍より低オクタン価の燃料を使用していたことや2翅プロペラだったことが零戦との最大速度の違い(主翼改修前の零戦二一型の最大速度は509km/h)となって表れたと考えられる。エンジンをより高出力のハ115(離昇1,150馬力。海軍の栄二一型とほぼ同じ)に換装し、3翅プロペラを装備した二型(キ43-II)試作機の最大速度は515km/h/6,000mに向上。増速効果のある推力式集合排気管の後期型で536km/h、推力式単排気管の最後期型では548km/hの数値を記録している。なお、推力式の集合排気管・単排気管でもない通常の集合排気管仕様である初期型をもってニューギニア航空戦を戦ったエースである第59戦隊飛行隊長南郷大尉は、1943年4月17日の日記に「"二型は軽く550km/h位迄出、存速滅せず振動なくすこぶる気持ち好し"」としるし高評価している。水メタノール噴射装置を有す更に高出力なハ115-IIに換装した三型(キ43-III)では560km/h/5,850mに向上(水メタノールのタンク容量は70l、最大速度はその残量範囲内で有効)。一式戦の上昇力は良好であり、数値は一型が5,000m/5分30秒、二型が5,000m/5分49秒(試作型)ないし5,000m/4分48秒(量産型)・8,000m/11分9秒、三型が5,000m/5分19秒・8,000m/10分50秒となる。三型は機体重量が増したことから上昇力は一型と同程度に留まっている。最大速度では連合軍の戦闘機に見劣りしていた一式戦だが、機体が軽い、プロペラの直径が比較的小さい(効率は低いが加速に有利)等々の理由で低速域の加速性に優れていた。連合軍は戦訓として(一式戦は240km/hから400km/h程度への加速が速いため)「低速飛行中の一式戦に不用意に接近するのは危険」という認識を持っており、その加速性はP-47やP-51といった新鋭機にも劣らず、低空においてP-47が急加速した一式戦に引き離されたという事例も報告されている。ただし、二型・三型と改良はされているものの降下性・「急降下時の突っ込み」は二式戦・三式戦・四式戦や連合軍機と比べ悪い。そのため、連合軍戦闘機は空戦で一式戦に捕捉された場合は高速降下により戦闘を離脱するという戦訓を確立していた。また機体構造が強化されていない一型、特に初期生産型はその軽さと脆弱性ゆえに急降下時の加速に対する機体剛性に劣り、これが大きな弱点となっていた。なお、古く日本陸軍航空部隊はフランス陸軍航空部隊の指導を仰ぎアンリ・ファルマン機に始まるフランス機を当時は導入していたことから、キ43増加試作機までの陸軍機のスロットルレバー(ガス槓桿)の操作方法はフランス式の「引き開・押し閉」であったが、キ43増加試作4号機より世界的には主流である(イギリス・ドイツ・アメリカ式)「押し開・引き閉」に変更され、制式機たる一式戦以降の陸軍機はこの操作となった。なおこれにより、当初は陸軍と同じくフランス軍に倣いながらも途中でイギリス空軍に範を取った日本海軍航空部隊の海軍機と同方法に統一されている(「陸軍機と海軍機ではスロットルの操作方向が異なる」という表現が適当なのはあくまで陸軍制式戦闘機としては九七戦までである)。一式戦は1,000馬力級エンジン装備戦闘機としては非常に軽快な運動性を持っていた。しかし、試作機の最大速度が九七戦とさほど差がなかったことから、旋回性についても九七戦と同等以上の確保が要求されたため、キ44用に開発された蝶型フラップ(空力班としてこれらの研究開発に携わっていたのが糸川技師)が装備された。このフラップは戦闘フラップ(空戦フラップ)としても使用することが可能で、旋回半径を小さくするのに効果的であったが扱いが難しいため、熟練者でなければ実戦で上手く活用することは難しかったとされている。鹵獲一式戦をテストした連合軍は旋回性に対して「とくに"戦闘フラップ"を使用したときの旋回能力はきわめて高く、零戦に勝る」と評価している。先述の通り、九七戦との比較についてはのちに戦闘フラップを使用しなくとも、水平方向でなく垂直方向の格闘戦に持ち込むことで圧倒可能と判断されている。一式戦一型の翼面荷重は102kg/m²、二型は117kg/m²、二式戦一型は171kg/m²、Bf109-Eは170kg/m²であり、一式戦の数値は群を抜いている。ちなみに零戦二一型は107.89 kg/m²、F4Fは115kg/m²、スピットファイア Mk. IXeは149 kg/m²であり、各国戦闘機の設計思想がうかがえる。一式戦は操縦性・安定性もきわめて高く、危険な飛行特性はなく、離着陸時の操縦性・失速特性も良好であった。連合軍は一式戦の低高度・低速域における運動性・加速性の高さを脅威と見なしており、そのため「格闘戦を避ける・一撃離脱戦法を活用する・高速と高い高度を維持する・高速性と降下性を生かす」といった対策を心がけるようになっていった。以下は一式戦と対峙した連合軍戦闘機操縦者の発言である。二型・三型と改良されているものの一式戦の最大速度は連合軍戦闘機と比較すると劣速であり、さらに連合軍は大戦中期以降は初期の戦訓から一式戦の得意とする格闘戦を避け、一撃離脱を駆使するようになった。大戦中後期、物量に勝る連合軍と基礎工業力や補給能力の低さにより必要な機体数や補充操縦者、物資を十分に揃えられなかった日本軍との戦力差は開く一方であり、一式戦に限らず日本軍機は多くの場合寡勢を強いられた。第59戦隊飛行隊長南郷大尉は1943年12月16日の戦爆連合40機(一式戦16機・三式戦18機・一〇〇式重爆撃機「呑龍」6機)によるマーカス岬上陸連合軍攻撃任務においてP-38 15機と交戦したが、高空から急降下一撃離脱を行うP-38に5機の一〇〇式重爆が撃墜されたことに対し「"P-38に翻弄され、もはや一式戦の時代にあらず"」と日記にしたためている(この空戦の2日後には再度マーカス岬に南郷機ら一式戦と三式戦の戦闘機単独計30機が出動し16機のP-38と交戦、機数に勝る戦闘とはいえその運動性を活かし2機を確実撃墜し損失は1機であった)。また、一式戦の運動性・加速性・上昇力の良さも高速域や高い高度では低下するものであった。以下は1943年4月10日に第64戦隊第1中隊に着任、1944年3月16日に空戦で負傷し内地に帰還するまでビルマ航空戦を戦った伊藤直之大尉の発言の抜粋である。しかしその一方で、一式戦は大戦中後期の劣勢下でも対爆撃機戦のみならず新鋭機を相手とする対戦闘機戦でも互角以上の勝利を重ねた「史実」が存在し、実際にビルマ方面や中国では確実な戦果を多数挙げている(#ビルマ航空戦・#インドシナ、マレー、インドネシア方面・#中国航空戦)。連合軍戦闘機も実際は友軍爆撃機の直掩任務時など一撃離脱戦法を毎度行えていたわけではなく、格闘戦に引きずり込まれたり、一式戦持ち前の運動性で「一撃」をかわされた事例も少なくない。そういった大戦後期の一式戦の特性を「落とせないが、落とされない」とも評される。一例として1944年7月5日、中国戦線の九江にて飛行第48戦隊の一式戦が第26戦闘飛行隊のP-51Bと交戦し1機を確実撃墜(メイス中尉機)。P-51B撃墜後に一式戦の多くは離脱するも、ただ残った少候出身のベテラン木村増吉中尉機とされる1機は8機ものP-51と交戦、一式戦は巧みな機動で攻撃を回避しP-51全機は全弾を撃ち尽くしてもこれを撃墜することは出来なかった。アメリカ軍はこの一式戦操縦者を「九江のエース」と名付け、以降同方面への出撃時は警戒するようになった事例がある(#中国航空戦)。「軽単座戦闘機(軽戦)」と定義される一式戦は、「運用目的を対戦闘機戦闘に絞ることで武装の限定等の軽量化を可能とし、低出力エンジンでも一定の性能を確保する」という思想の元で開発されたため、並行開発中の「重単座戦闘機(重戦)」である二式戦とは異なり、開発当初は武装は(7.7mm・7.92mm級)機関銃と軽装とされていた(#『陸軍航空兵器研究方針』)。当初はドイツ製のMG17 7.92mm機関銃の国産型が予定され、実際に試作1~3号機に2挺ずつ搭載されていた。この機関銃は口径こそ従来の7.7mm機関銃と大差ないが、より発射速度と弾丸威力の大きい新型で九八式固定機関銃の名で制式採用となった。ところが、使用するバネの国産化が上手くいかずプロペラ同調に狂いが生じたため、4号機以降の増加試作機や一型甲(キ43-I甲)には従来の八九式固定機関銃(口径7.7mm)が機首に2挺装備された。しかし1939年(昭和14年)、ノモンハン事件の戦訓や欧米機情勢の研究によって時流に乗った陸軍はより威力の大きい口径12.7mmの機関砲の搭載を模索、ホ101・ホ102・ホ103・ホ104の4種類の試作が始まった。ホ102はイ式重爆撃機としてイタリアより輸入したBR.20搭載のSAFAT 12.7mm機関銃の国産型で、増加試作機の7号機と10号機に搭載して試験が行われた。ホ103は、アメリカのM2 12.7mm重機関銃の航空機関銃型であるAN/M2 12.7mm機関銃(MG53-2)を参考に、ブレダSAFATの弾薬筒規格(もともとはイギリスのヴィッカーズ系12.7mm×81SR弾。AN/M2 12.7mmは12.7mm×99弾を使用)に変更・開発されたものであり、これは一式十二・七粍固定機関砲(一式固定機関砲)の名称で制式採用され、のちの陸軍主力航空機関砲となる。なお、1936年(昭和11年)に陸軍は「機関砲」と「機関銃」の区分を改正、「砲」に擬似した構造機能のものは「機関砲」および「銃」に擬似した構造機能のものは「機関銃」とすることとし、名称も制定時に振り分けられることとなっている(従来は口径11mm以下を一律に「機関銃」と定義)。そのため口径12.7mmでありながら後述の榴弾を有するホ103は「機関砲」とされた(反対に口径13.2mmでかつては「機関砲」であった九二式車載十三粍機関砲・ホ式十三粍高射機関砲は、それぞれ九二式車載十三粍機関銃・ホ式十三粍高射機関銃と「機関銃」に改称)。一式戦は開発中だったホ103の生産にめどがついたことから機首左側の八九式をホ103へ換装することになり、これは順次施され一型乙(キ43-I乙)と称された。太平洋戦争開戦時までには全ての第一線機が最低でも機首右側に八九式を1挺、左側にホ103を1門装備の一型乙となっている。八九式とホ103の交換は容易に可能であるが、初期のこの混成装備の主な理由はホ103は新鋭兵器であるゆえに数が不足しており、信頼性(故障)も考慮したためとされる。一方で、太平洋戦争開戦前に一式戦を受領する第64戦隊長加藤建夫少佐は「自分がまず試し、いずれ全機を機関砲2門にしたい」と航本に上申し、戦隊長機たる自身の搭乗機にホ103を2門装備させている。第64戦隊長となる前の加藤少佐は航本部員であり、航本教育部員時代には性能不十分なキ43自体の制式採用や、重量が重く新兵器ゆえに信頼性にも劣る機関砲の装備にも反対していたが、戦隊長として航本の頼冨美夫大尉(航本総務部員として一式戦採用に携わる。戦後は航空自衛隊空将補)から一式戦への機種改変を知らされた際には一切の不平を言わず機体の研究に励み、他の操縦者達がホ103に対し信頼を抱かせるように機体受領時の時点で2門装備とさせている。のちの一型丙(キ43-I丙)からは機首2門ともホ103装備となるが、上述の通りホ103(12.7mm)と八九式(7.7mm)の換装は第一線飛行部隊でも容易に実施可能な作業であり、第64戦隊長加藤少佐機のように既に開戦前にホ103 2門装備の機体も存在しているため、乙・丙といったものは便宜的な区別に過ぎない。ホ103は発射速度も良好で、モデルとなったAN/M2 12.7mmにはない榴弾(炸裂弾)であるマ103が使用可能かつ、より小型軽量という長所がある一方で、軽量弱装弾のため威力や有効射程に劣るという短所もあった。初期はマ103の機械式信管の不具合により、弾丸が砲身内で破裂して機体を破損するケース(腔発)が多発しており、このため、初期には砲身に鉄板を巻くことで腔発時の被害を少しでも軽減する措置がとられた。しかしながら、ホ103・マ103の量産と並行してこれらの不具合も徐々に改良されていき、1943年後半には新型マ103(新型マ弾)が実用化され同年末から早急に実戦配備されている。この新型マ103は陸軍で新開発された空気式信管を使用することにより暴発事故は激減、かつ生産効率が(従来の複雑な機械式信管と比べ)8倍に上がり、さらに信管機構が単純化されたことにより弾丸にスペースができ炸薬が増量されたため火力が増大、実戦でも新型マ103を使用する一式戦と交戦したアメリカ軍機乗員は、その破壊力から「20mm弾が命中した」とよく誤認・報告していることが確認出来ている。。1943年12月1日、ラングーンに飛来したアメリカ軍戦爆連合82機を第64戦隊を中心とする陸軍戦闘隊が迎撃し、指揮官機たる第7爆撃航空群第493爆撃飛行隊長プランマー中佐機や第308爆撃航空群指揮官オブライエン少佐機を筆頭に6機のB-24を確実撃墜しているが(第530戦闘爆撃飛行隊の1機のP-51Aも確実撃墜、日本側の損失は2機被撃墜(戦死1名)と5機が被弾損傷あるいは不時着に止まっている)、同空戦が初陣となったのちのエース・池沢十四三伍長はこの頃から新型マ103を使用し始めたと証言している。一式戦が搭載するホ103の装弾数は1門につき計270発で、弾種は基本的に一式曳光徹甲弾弾薬筒・マ103・マ102(マ103と同じマ弾でありこちらは焼夷弾)の3種類を各割合1で使用していた。「空の狙撃兵」と呼ばれた九七戦より更に高い射撃安定性を持つ一式戦は、武装搭載数の割には命中率がよかったと言われる。しかし、ラバウルやニューギニア、ビルマでB-17やB-24の4発大型爆撃機の迎撃にあたっては、防弾装備の質の高さやハリネズミと形容された旋回機関銃の優秀な防御砲火により苦戦を強いられるなど、設計時に想定していない大型爆撃機迎撃に用いるには火力不足であった。第64戦隊長加藤中佐の一式戦が撃墜されたのも、火力不足を補うためにイギリス空軍のブレニム爆撃機に接近しすぎ、機体引起し時に腹部を晒したことが原因の一つだったとされている。緒戦である南方作戦中の1942年2月19日に第59戦隊・第64戦隊の一式戦が協同でB-17E 1機を確実撃墜しているが、防御砲火により2機が撃墜されている。ただし一式戦の火力は大型爆撃機に対し無力だったというわけではなく、日本陸軍航空部隊自体が爆撃機攻撃に慣れ、編み出した効果的な戦法である「対進攻撃」を実施するようになると着実に撃墜戦果を多数挙げており、一例として(両軍の損害報告からの数字)飛行第25戦隊・飛行第33戦隊の一式戦は1943年8月の漢口の迎撃戦などでアメリカ陸軍第425爆撃飛行隊のB-24に対し前上方・前下方からの反航攻撃を試み、1ヶ月に満たぬ期間で損失2機に対し10機を確実撃墜、1943年末以降は上述の通り新型マ103が配備されているため、信頼性とともに一式戦の火力は従来より増していることとなる。末期にはB-17・B-24を凌駕する最新鋭のB-29に対しても一式戦は戦果を残しており、例として1944年11月5日、シンガポールのセレター軍港に飛来した53機のB-29を第1野戦補充飛行隊と第17錬成飛行隊の一式戦15機が迎撃、損失1機に対し最高指揮官機たる第468超重爆撃航空群指揮官テッド・フォールカー大佐機1機を確実撃墜した。誤認による事故であるが、陸軍機と異なり防弾装備が皆無である海軍の九六式陸上攻撃機の右エンジンに短い連射を浴びせただけで空中爆発させ、撃墜してしまった「実績」もある。連合軍機との火力差を埋めようにも主翼が翼銃・翼砲搭載に向かない三桁構造であったため、搭載するには主翼構造自体を再設計して変更せざるを得ず、新たな生産ラインを作る手間と時間が必要だった。また中島においては、より高速で12.7mmや40mmの翼砲を持つ二式戦や、20mm砲を装備する後続機たる四式戦の開発・配備が進んでいたためか、一式戦への翼銃砲の装備は見送られた。手っ取り早い武装強化として主翼下へのガンポッド装備も検討されたが、飛行性能が低下することからこれも見送られている。ホ103の拡大型であり四式戦などに装備されていた口径20mmのホ5 二式二十粍固定機関砲を搭載したキ43-III乙も試作されたが制式には至らなかった。キ43-III乙不採用の経緯については従来語られてきた機体性能の低下ではなく(上昇力・上昇限度はキ43-III甲よりわずかに劣るものの急降下性能は向上)、既にキ43-III甲用の発動機架が大量に用意されていたためとされる。一式戦は1939年の試作段階から陸軍の指示により、被弾時の燃料漏れによる火災を防ぐため、燃料タンクの外装を薄い積層ゴム(3層)・絹フェルト・絹布で包んだ7.7mm弾対応のセルフシーリング式防漏タンク(防弾タンク・防火タンク・自動防漏式タンク)を有しており、これは制式化されたのちの一型全機が装備している。改良型の二型では、燃料容量36l減と引き換えに耐弾防火性に優れ12.7mm弾に対応する、航技研開発の13mm厚積層ゴム(外装式3層)の新型防漏タンクに換装。かつ、二型は1943年6月よりの量産型(中島製5580号機より)からは操縦者の頭部と上半身を保護するため、操縦席後部に13mm厚・合計3枚・合計重量48kgの防弾鋼板(防楯鋼板。12.7mm弾対応)を追加装備した。実戦配備の一例として、第64戦隊は1943年7月19日時点でこの防弾鋼板装備型を補充機として受領している。帝国陸軍は欧米機情勢の研究、およびソ連軍を相手としたノモンハン事件の戦訓によって海軍と異なり防弾装備の重要性を痛感しており、一式戦や二式戦といった次期主力戦闘機のみならず、九七式重爆撃機(キ21、1939年中頃の初期量産型一型乙の時点で燃料および潤滑油タンクを積層ゴム等による防漏タンク化済。1943年中頃の二型乙からはさらに操縦席と後上方砲塔へ16mm厚防弾鋼板・70mm厚防弾ガラスを追加、防漏タンクは16mm厚積層ゴムに換装し自動消火装置も装備)や、九九式襲撃機(キ51、1939年の試作時点から防漏タンクおよび、エンジン下面・操縦席下面・操縦席背面・胴体下面・中央翼下面に6mm厚防弾鋼板を装備)といった主力重爆撃機・襲撃機(攻撃機)でも早々から相応の防弾装備を要求し採用している。後継主力戦闘機である四式戦では、新型防漏タンク・13mm厚防弾鋼板に加え風防前面に70mm厚防弾ガラスを追加し撃たれ強い機体となっている。しかし、防弾装備が考慮されていた一式戦であっても同世代欧米機の装備(防漏タンクは効果に最も優れる内装式、防弾鋼板は操縦席後部に限らず前部等にも取付、防弾ガラス等各種装備をも有す)には劣るものであり、万全なものではなかった。ただ相応の実用性はあり、以下の発言は1943年10月に第64戦隊に着任、以後敗戦まで二型・三型に搭乗し第一線で戦った池田昌弘軍曹(少飛11期、総飛行時間1,300時間)による防弾鋼板に対する証言である。池田軍曹の証言では頭部鋼板は8mm厚2枚の計16mm厚となっている。なお、P-38はAN/M2 20mm機関砲1門とAN/M2 12.7mm機関銃4挺を射撃安定性に優れる機首に集中装備した重武装機である。操縦者や所属によっては、少しでも搭乗機の性能を向上させるため重く嵩張る防弾鋼板が意図的に外されることもあった。また、後方警戒をし易くするため頭部鋼板のみ外し、背面鋼板は残されることもあった。上述の第64戦隊池田軍曹は「"わたしは防弾鋼板は外さなかった。機付長が、絶対駄目だって外してくれへんのですよ。外してくれいうたことがあるんです。みんな外しますからね。でも1中隊は外さなかった。隅野さんがいた3中隊では、みな張り切って外しとった"」、「"取っても、そんなに(性能は)変わらんと思うんですけど。まァ、重さにしたらかなり重量(60キロ)あるから……、でも、外したから「そォら、スピード上がった」いうことはなかった思いますけど、気持ちの問題やないですかね"」と述べている。一式戦は空対空・空対地(地対空)無線電信および無線電話通信用として、一型は九六式飛三号無線機を、二型以降は九九式飛三号無線機を装備している(ないし三型の一部は量産型四式戦等が装備した出力強化ほか性能向上型であるム4 四式飛三号無線機に換装)。「飛三号(とびさんごう)」は単発単座戦闘機向け近距離用短波無線機の区分であり、九九式飛三号無線機の昼間最大通信距離は高度約3,000mで半径100km強となる。一式戦の空中線支柱は機首前上部のエンジン後部、操縦席から見て右前方に位置しケーブル状の空中線(アンテナ)は垂直尾翼上端にかけて張られている。主に空対空無線電話について、当時の日本の工業力の低さにより無線機に限らず陸海空の兵器全般の質は米英独といった欧米技術先進国に劣り、航空無線機(特に小型化が求められるなど制約の多い単発単座戦闘機用)の信頼性・実用性は芳しくないものであったが、それ以上にエンジンの点火系統や工作精度の低い機体結合部から発生するノイズの遮断不足・不良による雑音混入が問題であった。さらには戦地の劣悪な環境下や部品の補給不足、運用自体の不具合や用兵側の意識の低さが重なっている。また敵軍に無線を傍受されるため、進攻時には無線封止を行い受信のみとし送信を控えている事例もある。日本軍でも概ね時代が下るごとに無線機特に無線電話の実用性は向上している傾向にあり、特に陸軍は一式戦の開発にあたってノイズ遮断等の対策に努めているが、総合的には「無線電話は使えなかった」と評する陸海軍の戦闘機操縦者が多く、そのため操縦席越しによる手信号や主翼を振る、無線電信(モールス信号)で代用するといった行為で意思疎通が行われることが多かった。大戦後半当時の第64戦隊の通信将校であった会沢輝男中尉は「"とにかく暑い所だからね。地上では手では触れないくらい熱くなってるのに、空に上がると急激に冷える。だから地上ではよく聞こえるように調整しても、上がると聞こえなくなっちゃう。操縦者がよく調整すれば聞こえるんだけど、命がけで戦ってる最中にそこまではできない。モールス信号にしたりとか、色々工夫はしたんだけど、訓練ではうまくいっても実戦では使えなかった。中隊長の中には使っていた人もいるみたいだけどね"」と、一方で同時期の第64戦隊第2中隊整備班長であった上田厚士中尉は「"無線は使えないと言われて、会沢さんなんかの通信将校は口惜しい思いをしたはずですよ。加藤戦隊長に直接仕えた中隊長、黒江さんだとか、大谷さん、丸尾さんなんかは、戦隊長が電話を使っているのを直接聞いてましたからね。けっこう使いましたよ。ただ後の戦隊長は使いませんからね。戦隊長が使わなかったら、誰も使わないですよ。加藤戦隊長というのは陸軍大学でシステムとしての空軍を研究していました。戦闘機は爆撃機を掩護することが最高の使命だとかね。航空無線の活用に熱心だったんです"」と述べている。主に空対地(地対空)無線電話について、万全ではないものの地上基地の対空無線機は機上無線機と異なり高出力であることから受信は単発単座戦闘機でも比較的容易であった。1943年4月10日に第64戦隊第1中隊に着任し1944年3月16日までビルマ航空戦に従軍していた伊藤直之大尉は「"日本の無線は、基地の上ならどうにか聞こえるけど、少し離れたら聞こえない。それから、無線を使うと敵に傍受されちゃうっていうんで、進攻のときは無線封止っていって、無線は受信にしといて発信はしないしね"」と、1943年12月当時は若手操縦者であった第64戦隊の池田昌弘兵長は「(前略)"敵機の情報はピストに電話で入るんやけど、普通は電話が来る前に本部でサイレンを鳴らすんですわ。そうすると、整備はエンジンを回す、空中勤務者は我先にと飛行機に向かって走り出す。電話で来襲方向とか機種とかの情報が来るんですが、たいがいはそれを聞く前に走り出しちゃって。隼の無線も基地の上ならよう聞こえましたから、まず上がってから、どっちへ向かって飛べばいいのか聞いたわけです"(後略)」(#陸軍航空部隊の早期警戒体制)、と述べている。一方で、以下の如き第一線飛行部隊における一式戦の空対空・空対地無線電話運用の実態例も多々存在する(黒江 (2003)、梅本 (2002a)、梅本 (2010a))。一式戦は両翼下に最大250kg爆弾を1発ずつ懸架ないし落下タンクとの併用が可能であった(ただし大型爆弾を搭載した場合飛行性能は大幅に低下し、脚部の強度が不十分であるため離着陸に注意が必要)。主に大戦中期以降には飛行分科「戦闘」の部隊において、一式戦(一式戦に限らず三式戦・四式戦・二式複戦)といった陸軍戦闘機は通常爆弾・タ弾(クラスター爆弾)・カ弾(焼夷弾)を搭載した「戦闘爆撃機」として対地および対艦攻撃に積極的に使用されている。また、「対潜哨戒機」としても使用された。1944年4月14日11時20分頃、アンダマン諸島沖船団掩護中の飛行第26戦隊石川清曹長機が、船団前方3,000m付近で敵潜水艦が放った魚雷航跡3本を発見。基地に無線報告するとともに敵潜推定位置に爆弾を投下、航走中の魚雷に対して射撃、それでも魚雷は1,200名乗船の輸送船「松川丸」に迫ったため、これに体当たりし2本を爆発させた特異な事例がある(石川曹長は戦死後任陸軍少尉、個人感状拝受)。さらに飛行第31戦隊・飛行第65戦隊などの飛行分科「襲撃」の部隊は「爆装一式戦」に機種改変し爆撃(襲撃)任務に投入されている。特に沖縄戦従軍下の第65戦隊は整備隊が考案したチャフ散布装置を各機に装備させる、超低空飛行を行うなどし沖縄近海の連合軍艦船に対し通常攻撃で戦果を挙げた。第64戦隊の対艦攻撃戦果の一例として、1945年2月11日、ラムリー島の戦いにおいてイギリス海軍艦艇攻撃に出撃した爆装一式戦12機のうち、池沢軍曹機と僚機の池田軍曹機の2機が2,200t級駆逐艦「パスファインダー」に急降下爆撃を敢行、艦尾に2発の直撃弾を与え大破させている。「パスファインダー」は戦線を離脱しイギリス本国に曳航されたものの、損傷激しく戦後廃艦となっているため事実上の撃沈であった。交戦相手の連合軍において一式戦は海軍の零戦と誤認される事例が多かった。(実際は主に天蓋・主翼・尾部および胴体の形状が大きく異なるものの)全体の外観や性能が類似・同等であることに加え、支那事変(太平洋戦争開戦前の日中戦争)への実戦投入は零戦が早く連合軍はその存在を太平洋戦争開戦前に認識していたこと、1942年夏まで一式戦は各地に出揃っていないこと(緒戦たる南方作戦における一式戦の主戦場はマレー、シンガポール攻略戦とインドネシア攻略戦。ビルマ攻略戦は1941年12月25日に臨時に第64戦隊が投入されたのみで本格的な転戦は1942年3月21日から。フィリピン攻略戦に一式戦は未投入)が理由として挙げられる。ビルマ方面のイギリス空軍からは「ゼロ・ファイター」に類似した「ワン・ファイター」ということで「01(ゼロワン)」と、それ以前にフライング・タイガース(AVG)によって「ニューゼロ」と呼ばれたことも一時期あったという。大戦中後期に至っても、またビルマ方面やニューギニア方面といった陸軍航空部隊の主戦場であっても零戦との誤認は多く、そのため「零戦の戦果とされているものの相当数は一式戦の戦果」である(#「ブラックドラゴン飛行隊」伝説ほか)。実際にビルマで一式戦と戦っていた連合軍は殆どの場合、交戦相手の日本戦闘機を「ゼロ(零戦)」と報告している。一式戦の性能面に対して、上述の通り連合軍は低高度・低速域における運動性・加速性の高さを脅威と見なしている(#加速性能・#運動性能)。連合軍のトップクラスのエースを相手とした一式戦による確実戦果としては主に以下の事例が存在する。ビルマ方面のアメリカ陸軍航空軍・イギリス空軍各飛行部隊の操縦者は、現地の強力なある日本軍戦闘隊を「ブラックドラゴン飛行隊」と呼称していた。第7爆撃航空群・第22爆撃飛行隊・第311戦闘爆撃飛行隊・第530戦闘爆撃飛行隊(米)、第67飛行隊(英)などの報告・戦記にこの「ブラックドラゴン飛行隊」に関する証言・記述があり、その内容は曰く「ガダルカナルからきた精鋭」「6機の零戦隊で、指揮官は黒塗りのメッサーシュミット109(Bf 109)」などとまことに想像力豊かなものであった。当然ながらこの方面は第64戦隊・第50戦隊等、主に一式戦を装備した日本陸軍航空部隊の担当戦域であり日本海軍の零戦は関係が無く、「ブラックドラゴン飛行隊」の正体は言わば「ブラックファルコン飛行隊(隼飛行隊)」となる。1945年8月15日、太平洋戦争開戦時の進出基地であったフコク島ズォンドンにてタイランド湾の船団掩護を最後の任務とした第64戦隊は、翌16日にクラコールに移転し敗戦を迎えた。同月下旬、クラコール飛行場にイギリス空軍先遣部隊が進出し武装解除。続々と後続が進出するごとに日英ともに緊張も解け交流が始まり、一式戦とスピットファイアの編隊飛行が実現した。戦隊長宮辺少佐の「"おいっ、スピットと一緒に飛びたい者、1機だけだ"」の発言に操縦者達は我も我もと手を挙げるが、最終的に古参のエースである坪根康祐准尉が選ばれスピットファイアを長機とし2機は離陸。2機はクラコール市街上空を低空で飛び回り、日英操縦者達の眼前でフィナーレとして滑走路に超低空進入しての垂直上昇、一式戦はブースト全開でスピットファイアに追随し栄光の「加藤隼戦闘隊」こと飛行第64戦隊と一式戦の最後を飾った。このスピットファイアはグリフォンエンジン(離昇出力2,035馬力)を搭載した5枚プロペラのグリフォン・スピットファイア(グリフォンスピット)ことMk. XIVであった。支那事変(日中戦争)中、1941年6月から8月にかけて一式戦に全機機種改変した第59戦隊所属の9機が、漢口から明楽武世大尉に率いられ重慶までの長距離進攻に参加、これが一式戦の初陣となる。同進攻戦では迎撃機が現れず空戦は起こらなかったが一式戦の長距離航続性能を実証した。第64戦隊は同年8月末から9月半ばにかけ日本内地の多摩陸軍飛行場にて全機種改変。のちに第64戦隊は一式戦をその終戦まで使用し続ける部隊となり、改変時に新たに考案された部隊マーク、垂直尾翼に中隊色で描かれた「矢印(斜矢印)」はそのシンボルとなった。当時、中尉として第64戦隊第3中隊整備班長であった新美少佐は部隊マークについて以下の如く語っている。第64戦隊は夜間飛行・雲上飛行・洋上航法に力を入れつつ訓練を行い、12月3日に旧駐屯地の広東から35機全機を戦隊長加藤少佐が率い、卓越した航法により1機の落伍もなしに2千数百km・5時間30分の距離を一気に飛行し仏印のフコク島ズォンドンに進出した。7日夕刻からマレー半島コタバル上陸のため、海上を航行中の第25軍(司令官・山下奉文中将)部隊を乗せた輸送船団の上空掩護を加藤少佐以下第64戦隊7機の一式戦があたり、悪天候により3機が未帰還となるも夜間かつ荒天の悪条件のなかこれを成し遂げ、8日の太平洋戦争開戦を迎える(マレー作戦)。以降、一式戦は南方戦線(マレー・シンガポール・パレンバン・ジャワ ・ビルマ各地)で大いに活躍することとなる。開戦の8日朝、マレー作戦に従軍し航空撃滅戦を展開する第64戦隊は加藤少佐以下全機が出撃、第2中隊機がブレニム1機(第34飛行隊スミス軍曹機)を撃墜(損傷、バターワース飛行場に胴体着陸)、さらにバターワース飛行場の在地敵機に対し対地銃砲撃(機銃掃射)しブレニム4機(第34飛行隊)を破壊、第64戦隊の損害は皆無で一式戦全機が無事帰還した。第59戦隊はコタバルの上陸船団を爆撃中である第34飛行隊・第60飛行隊の多数のブレニムと交戦。1機を喪失するも2機を撃墜(第60飛行隊ベネット少佐機・ボウデン大尉機)、1機を撃破し飛行場に不時着させた。12月22日、第64戦隊の一式戦23機はクアラルンプール飛行場を攻撃、迎撃に現れた第453飛行隊のバッファロー12機と交戦、1機を喪失(リード軍曹機と衝突)するも3機を撃墜、4機を撃破(不時着損傷)。同日午後、同じくクアラルンプール飛行場を今度は第59戦隊の一式戦4機が攻撃し、損害無く離陸直後のバッファロー1機(第453飛行隊ピーターソン軍曹機)を撃墜。28日、第59戦隊の一式戦は夜間空襲に飛来したブレニム4機と交戦(夜戦)し1機を撃墜(第34飛行隊ヒル大尉機)、この戦果は開戦以来日本軍初の「夜間撃墜」である。なお、陸軍航空部隊では一般の単座戦闘機・一般の飛行部隊・一般の操縦者にも夜戦のスキルが求められており(操縦者は夜間飛行をこなせてこそ一人前たる「技量甲」の認定を戴く)、この第59戦隊による夜戦撃墜や、開戦前日の第64戦隊による上陸部隊輸送船団夜間上空掩護、各地での爆装戦闘機(戦闘爆撃機)による夜間奇襲爆撃など陸軍は数々の夜間任務を全期間を通じて積極的に行っている。一方で、日本海軍航空隊では大半の単座戦闘機およびその操縦員には夜戦の技量が無く、また夜間任務そのものが例外的なものであり、原則的に専用の複座ないし三座の夜間専用機・夜間飛行部隊が対処していた。1942年1月20日、数日前に中東方面より新鋭補充機としてシンガポールに到着していたハリケーンと第64戦隊は初めて交戦、一式戦は1機を喪失するも敵指揮官機以下3機を撃墜(臨時第232飛行隊ランデルス少佐機・マーチパンクス少尉機・ウィリアムズ少尉機)。当初からホ103を2門装備した特別仕様機である加藤少佐機は一連射5、6発でハリケーン(ウィリアムズ少尉機)を発火させている。2月上旬、第64戦隊・第59戦隊は蘭印作戦に転戦。6日、第59戦隊の一式戦14機はパレンバン飛行場を攻撃し、6機を撃墜(ブレニム2機、第211飛行隊。ハリケーン4機、第258飛行隊)するも損害は皆無で全機が無事帰還した。以降、数次に渡って行われたパレンバン航空撃滅戦で一式戦はイギリス空軍を圧倒した。2月14日、パレンバン空挺作戦発動。スマトラ島パレンバンに奇襲落下傘降下する第1挺進団挺進第2連隊(「空の神兵」)の挺進兵を乗せた一〇〇式輸送機(キ57)とロ式貨物輸送機、物料傘投下用の九七式重爆を加藤少佐の統一指揮のもと第64戦隊・第59戦隊が空中掩護。一式戦は第258飛行隊のハリケーン15機と応戦した結果、第64戦隊機がマクナマラ少尉機とマッカロック少尉機を撃墜した(うち1機は加藤少佐の戦果とされている)。この空戦における日本軍側喪失機は飛行場高射砲によって撃墜された物料傘投下用の九七式重爆1機のみで、挺進飛行戦隊の輸送機と一式戦に損害はなく、一式戦と「空の神兵」の活躍で空挺作戦は成功し太平洋戦争の最重要攻略目標であるパレンバン油田・製油所および飛行場は占領確保された。第64戦隊は終戦までに計7枚(うち1枚は加藤少将の個人感状、前身部隊時を含めると計9枚)と日本軍最多数の感状を拝受しているが、うち3枚はマレー上陸作戦(船団掩護)・パレンバン空挺作戦・ジャワ上陸作戦の活躍によるものである。以下一連の一式戦の戦果は、戦史家梅本弘が日本軍の戦果記録を連合軍の損害記録たる一次史料と照会した「確認が出来た最小限で確実な数字たる戦果」である。一式戦は緒戦の空戦において約4倍の数を、対戦闘機戦では約3倍の数の敵機を撃墜した。これら一式戦の緒戦において第64戦隊の加藤少佐が特に有名であるが、第59戦隊においても飛行隊長牟田弘國少佐が相当の活躍と技量の高さを見せている。牟田少佐とその僚機からなる通称「牟田編隊」は上記の期間中、損害1機に対して13機を撃墜した(牟田少佐の戦果報告は連合軍の損害記録と毎回完全に一致)。ちなみに、牟田少佐は第100飛行団長たる中佐で終戦を迎え、戦後は航空自衛隊に入隊し第6代航空幕僚長、さらには空自出身者初となる第4代統合幕僚会議議長と自衛隊制服組の頂点に登り詰めている。なお、蘭印作戦において日本軍はジャワ島にてアメリカ陸軍航空軍のB-17EおよびB-17Dを飛行可能状態で鹵獲、陸軍はこれを調査研究するとともにのちには戦闘隊の対大型爆撃機攻撃訓練目標機に使用している。この訓練には第64戦隊・第50戦隊・飛行第11戦隊が参加し戦技向上に一役買い、第64戦隊の黒江保彦大尉はB-17に搭乗し機内から攻撃を観察し助言、実際に第11戦隊はのちのソロモン方面のB-17迎撃に戦果を挙げ効果を実証している(#ソロモン、ニューギニア航空戦)。このB-17は他の鹵獲機ともども日本本土に空輸され徹底的な調査が行われた一方、一式戦の開発模様を描いた1942年10月公開の映画『翼の凱歌』終盤で「南方で一式戦に撃墜される敵機役」として「出演」している。各地を制圧した第64戦隊は1942年3月21日からビルマ戦線(「ビルマ航空戦」)に参戦。以後、主にイギリス空軍およびアメリカ陸軍(初期はフライング・タイガース(AVG)を含む)と交戦し、同月23日には損害無くハリケーン1機を撃墜(第136飛行隊ブラウン少尉機)し同戦線における初戦果を収めている。このビルマ航空戦にはその活躍で有名な第64戦隊が長期間従軍しエースを多数輩出、一式戦を主力とし大戦末期に至るまで連合軍空軍と互角の戦いを繰り広げた戦域となる。第64戦隊の一式戦は3月24日午後には一方的にハリケーン2機を撃墜(第136飛行隊パイネ軍曹機・バトラー軍曹機)、1機を撃破(フレッディー軍曹機、不時着損傷)するなど戦果を挙げたが、4月8日のローウィン飛行場攻撃ではアメリカ陸軍(AVG)のP-40 8機・イギリス空軍のハリケーン3機と交戦、連合軍側はレーダーで第64戦隊機の侵攻を探知し待ち伏せ奇襲、名実共に加藤中佐の片腕として前身部隊である飛行第2大隊第1中隊時代から活躍していた古参エース第3中隊長安間大尉機や、ノモンハン事件以来のベテラン和田春人曹長機を含む4機を喪失。4月10日早暁、先の8日の復讐として、加藤中佐以下第64戦隊は夜間航法をもってローウィン飛行場を奇襲攻撃。一般飛行部隊でも夜間飛行と夜戦が考慮されている陸軍航空部隊においても、暗夜に(ビルマにおいて早暁はまだ暗夜となる)、山岳地帯を、全速力で(横風偏流誤差の考慮しまた敵地在空時間を減らすため)、600km以上の距離を、低空で侵攻することは極めて困難なものとなるが、編隊を先頭で率いる加藤中佐機の優れた航法によって奇襲は成功し、在地のP-40約23機を対地銃砲撃によって撃破。20日には戦死した安間大尉の後任として二式戦をもって開戦以来活躍していた独立飛行第47中隊から黒江保彦大尉が第3中隊長として、第2中隊には中村三郎中尉・坪根康祐軍曹が着任しているが、この3名はのちに有数のエースとなる。5月22日、当時トングーに主力を置いていた第64戦隊の一部が一時前進していた最前線であるアキャブ飛行場に、ブレニム Mk.IV 1機(第60飛行隊マーチン・ハガード准尉機)が来襲。一式戦5機が迎撃に出撃するも、後上方銃座(射手マクラッキー軍曹)の巧みな射撃により2機が被弾し途中帰還、さらに1機が最初の近接降下攻撃からの引起し時に機体腹部(燃料タンク部)に集中射を浴び発火。この機体こそ

出典:wikipedia

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