カツトップエースとは日本の競走馬、種牡馬である。1981年に皐月賞と東京優駿(日本ダービー)に勝ち二冠馬となり、同年の優駿賞最優秀4歳牡馬に選出された。晩年は韓国に寄贈された。1978年、北海道様似町の堀牧場で生まれる。幼駒時代からがっしりとした身体付きで「大物になるのでは」と期待され、本馬を購買した勝本正男は「トップを獲りエースになるべき馬」として、冠名「カツ」に「トップ」「エース」を合成し、「カツトップエース」とした。競走年齢の3歳(旧表記)に達した1980年春に菊池一雄厩舎に入り、7月の札幌開催でデビュー。初戦の2着を経て、2戦目で初勝利を挙げた。しかし以後は条件戦を順調に勝ち上がれず、関東の3歳王者戦・朝日杯3歳ステークスは牝馬テンモンの10着と大敗。7戦2勝で3歳シーズンを終えた。休養を経て4歳初戦のヴァイオレットステークスは4着となり、クラシック初戦の皐月賞を迎える。前二走に騎乗した増沢末夫が他馬を選択したため、鞍上には本馬初騎乗の大崎昭一を迎えた。阪神3歳ステークス優勝馬サニーシプレー、きさらぎ賞優勝馬リードワンダー、シンザン記念と毎日杯の優勝馬ヒロノワカコマ、スプリングステークス優勝馬サンエイソロンらの有力馬が故障により揃って戦線離脱し、残った馬はほとんどテンモンに敗れた経験がある馬だったため、戦前から「低レベル」と囁かれた。そのなかでも本馬の単勝オッズは、17頭立ての16番人気であった。レースは最内枠から逃げを打つと前半1000メートルを1分2秒1というスローペースに落としてスタミナを温存、最後の直線もスピードは鈍らず、追い込んできた11番人気のロングミラーをクビ差凌ぎ切って優勝を果たした。払戻金の単勝6920円、枠番連勝複式6650円は、ともに皐月賞史上2番目の高配当となった。大崎は「1番枠だったので捨て身で逃げただけ。有力馬が牽制し合ったから勝てたのではないか」と驚きを口にした。大崎は皐月賞初制覇、管理調教師の菊池は、開業31年目でクラシック初制覇となった。続いてダービートライアルのNHK杯に進んだが、皐月賞馬でありながら5番人気の評価であった。しかしサンエイソロンの2着となって能力を見せ、東京優駿(日本ダービー)を迎えた。今度は父イエローゴッドが短距離向きの種牡馬と見られたことが影響し、サンエイソロンから大きく離れた3番人気となる。レースは先頭を見ての2番手集団に付け、最終コーナーで他馬が外に膨れた隙に最内を回り、直線入り口で先頭に立つ。最後はゴール前で追い込んできたサンエイソロンと競り合い、内外で馬体を接した状態でゴール。写真判定の結果、20センチメートルのハナ差でカツトップエースが春クラシック二冠を達成した。また鞍上の大崎は、史上5人目となるダービー2勝騎手(1勝目は1969年のダイシンボルガード)となった。その後は休養のため北海道に戻り、7月には札幌競馬場で一般ファンへのお披露目が行われた。8月に帰厩後は、史上3頭目の三冠達成を目指して調整が行われていたが、秋を前に屈腱炎を発症。当初は軽症と見られていたが、秋を迎えて悪化し、菊花賞の断念を余儀なくされた。その後再起を図って休養を続けていたが、患部は快復せず、1982年8月に競走生活から退いた。なお、カツトップエースの調教などは当時菊池厩舎に所属していた藤沢和雄が担当していた。引退後は総額1億5000万円のシンジケートが組まれ種牡馬となったが、年々種付け数は減少し、ほどなくシンジケートは解散する。これで事実上種牡馬引退となり、1990年8月から日本中央競馬会 (JRA) が功労馬として買い上げた。再起を見越して去勢は行われず、その後ラッキールーラ、プレストウコウとともに種牡馬として韓国に寄贈され、韓国馬事会直轄の高陽市元堂牧場で繋養された。翌年春に済州島で種付けを行ったが、秋になって発症した股関節炎が悪化、最終的に立ち上がることができなくなり、10月16日に衰弱死した。韓国では5頭の産駒を残し、勝利馬は1頭であった。父イエローゴッドは1970年代後半から1980年代前半にかけて数々の活躍馬を輩出。本馬と同期の桜花賞優勝馬ブロケードも同父である。母はイギリスで2勝。大伯父にキングズスタンドステークスの優勝馬ヴィルモリン、同じイエローゴッド産駒の姪に中山牝馬ステークス優勝馬カツダイナミックがいる。またアコニットの牝系からは菊花賞馬のスリーロールスが出ている。
出典:wikipedia
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