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ラッキールーラ

ラッキールーラは日本の競走馬。1977年の東京優駿(日本ダービー)がおもな勝ち鞍である。引退後に種牡馬となり、晩年は韓国に寄贈された。馬齢は旧表記を用いる。3歳時は6戦して2勝とあまりぱっとした成績は残せなかったが、弥生賞を勝つと頭角を現し皐月賞で2着に入る。1番人気に推されたNHK杯ではプレストウコウの4着に敗れたが、9番人気に人気を落とした日本ダービーでは28頭立ての7枠24番で出走し、ハードバージやカネミノブを抑えて優勝した。騎手は伊藤正徳。この時の体重534キログラムは2011年現在でも同競走優勝馬最重量であり、同時に同競走史上最外枠での優勝馬でもある。その後は大型馬の宿命ともいえる慢性的な脚部不安に悩まされたこともありオープン競走2勝に終わった。鞍上の伊藤は史上2組目の父子2代のダービージョッキーとなる。また名伯楽・尾形藤吉の最後のダービー制覇(8頭目)となった。引退後は種牡馬となったが、マルゼンスキーと同世代だったため不当に低い評価をされた上に(後述)、種牡馬になる為の身体作りの結果さらに体重が増え、実に700kgを超える状態となっていた事から、小柄な牝馬では相手が務まらない為、繁殖牝馬が限定されてしまうという問題を抱えており、交配機会にも恵まれず、さして活躍する産駒を出せないまま1990年にプレストウコウ・カツトップエースとともに韓国に輸出された。翌1991年、事故により死亡したが、残したわずか4頭の産駒の中から1996-97年韓国最優秀内国産馬タンディチェイル(当代第一)を送り出した。馬名がラッキールーラーではなくラッキールーラとなったのは「ラッキーセブン」にちなんで7文字の馬名にしたためと言われている。ラッキールーラはダービーを制して世代の頂点となったが、この世代には、当時の規則で持込馬には出走権が無く、クラシックに出走できなかったマルゼンスキーがいた。マルゼンスキーと同世代のダービー馬である本馬は直接対決を期待されたが、マルゼンスキーも脚部不安で早々に引退したため、実現することはなかった。この為、マルゼンスキーとの直接対決で完敗しているヒシスピードやアローバンガード、プレストウコウなどの、両馬と対戦した他馬を定規としたマルゼンスキーとの机上の比較がマスコミや競馬ファンにより行われる事となった。また、ダービーの優勝タイムが同年前週のオークスで優勝したリニアクインのタイムを0.6秒も下回っていることや、ダービーの前哨戦である4歳中距離ステークスでも牝馬であるリニアクインが7馬身差の完勝をしており、ラッキールーラは軒並み低評価を与えられ、後に「悲運のダービー馬」などと形容される事となった。また、同世代の皐月賞馬ハードバージも競走生活引退後の種牡馬生活が不調で、最後はショーや馬車の使役馬に転用された末、熱射病で斃死するという悲劇的な運命を辿っている。マルゼンスキーがクラシックに出走できず裏街道路線に進まざるを得なかったことも、この世代の評価を押し下げる要因となっており、後年、この世代の牡馬はしばしば「悲運の世代」として評されている。そして、1977年牡馬クラシック路線の悲運と、ちょうどこの10年後の1987年牡馬クラシック路線で活躍したサクラスターオーやマティリアルらの悲劇的な生涯に因み、「西暦末尾が7の年のクラシック戦線の牡馬たちは不幸の世代になる」と、ジンクスの様に語られた経緯がある。ラッキールーラの代表産駒であるトチノルーラーは1987年クラシック組であり、ジュニアカップやきさらぎ賞などクラシック本番までに4勝を挙げて期待されたものの以後伸び悩み、5歳時に上山競馬に移籍し、きさらぎ賞が中央競馬での最後の勝利となってしまった。

出典:wikipedia

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