フトボル・クルブ・バルセロナ()は、スペインのカタルーニャ州バルセロナをホームタウンとするスポーツクラブである。サッカー部門ではスペインプロサッカーリーグ(リーガ・エスパニョーラ)に加盟する世界最大の経済規模のチームの一つであるプロサッカークラブ。1899年に創立。ホームスタジアムはカンプ・ノウ。愛称は「バルサ()」、またはクラブカラーから「ブラウ・グラナ(、青と臙脂)」と呼ばれる。現在はリーガ・エスパニョーラのプリメーラ・ディビシオンに所属しており、同リーグにおいて24回の優勝を記録しているほか、レアル・マドリードとアスレティック・ビルバオと並んでリーガ・エスパニョーラの創立以来、一度もプリメーラ・ディビシオンから降格したことがないクラブである。また、コパ・デル・レイにおいては28回の最多優勝記録を持ち、スペイン国内で最多記録となる7回の同一シーズンにおけるリーガ・エスパニョーラ優勝とコパ・デル・レイ優勝の国内タイトル2冠を達成している。さらに、2016年の時点で6クラブのみであるビッグイヤーの永久保持が認められているクラブの1つであるほか、スペイン国内で主要タイトル3冠を達成した史上初めてかつ唯一のクラブであり、ヨーロッパのクラブとしてはそれを2回に渡り達成した史上初めてかつ唯一のクラブである。「クラブ以上の存在()」がクラブのスローガンでありユニフォームの後襟にもこの言葉がプリントされているほかカンプ・ノウの客席にも椅子の色を変えて示されている。これは1919年のカタールニャ自治憲章制定運動で登場したのがはじめであり、カタルーニャ民族主義の精神の現れだと言われる。またスペイン屈指の商業都市バルセロナの市民社会の拠り所という意味も含まれる。「攻撃的でスペクタクルなフットボール」をクラブのアイデンティティとしており、試合に勝ったとしても内容が伴わなければサポーターから容赦ないブーイングが浴びせられる。このような習慣はスペイン国内の多くのクラブチームに存在するものではあるが、FCバルセロナは特にこの傾向が顕著であり、結果よりも内容で遥かに大きいものを求められる面が強い。クラブ運営上の特徴として一般市民などからの会員を募り、その会費でチームを運営している点が挙げられる。会員は現在世界中で18万に達しており、日本でも2004年6月より会員の募集が行われている。「カンテラ」と呼ばれる下部組織が非常に発達しており、現チームの選手も含め幾多の名選手を輩出してきた(詳細は参照)。このカンテラ出身選手は生え抜きとしてサポーターから特に絶大な声援を受けることが多い。2014年1月、世界最大の会計事務所である『デロイト』が公表したデロイト・フットボール・マネー・リーグでは、2012-2013シーズンのクラブ収入は4億8260万ユーロであり、レアル・マドリードに次ぐ世界第2位である。また、イギリスメディアが2012年に公表した調査によると、FCバルセロナの平均年俸は約868万ドルと推定されており、世界で最も平均年俸が高いクラブであることが判明し、ニューヨーク・ヤンキースやロサンゼルス・レイカーズなどアメリカのスポーツチームを含めて世界一である。。サッカーのみならず政治的、地域的に長年の対立関係にある首都マドリードのレアル・マドリードとは長年のライバルである。このレアル・マドリードとの試合は『エル・クラシコ』(El Clásico)と呼ばれ、1902年の第1回コパ・デルレイ(スペイン国王杯)から因縁の対決を続けている。その背景には、1923年-1930年のプリモ・デ・リベーラ将軍による独裁政権時代、さらに1939年-1975年におけるフランコ独裁政権時代のカタルーニャに対する弾圧がある。当時、カタルーニャの人々は自分たちの言語であるカタルーニャ語を公の場で話すことが許されなかったが、スタジアムの中でのみそれが許された。なお、バルセロナとレアル・マドリード間の移籍は「禁断の移籍」とされ、「裏切り」と呼ばれることも多い。また、第三者のクラブ選手の移籍においても競合することが多く、これまで幾多の選手をめぐって争奪戦を繰り広げている。同じくバルセロナを本拠地とするRCDエスパニョールとの試合はバルセロナ・ダービーと呼ばれる。2012年9月11日、会長のサンドロ・ロセイは個人としてカタルーニャ独立を支持するデモに参加した。9月11日は、スペイン継承戦争の最後の戦いであるバルセロナ包囲戦で、カタルーニャがスペイン・フランス連合軍に敗北した日であり、カタルーニャではカタルーニャの日として特別な記念日となっている。カタルーニャの独立運動が勢いを増す中、FCバルセロナは独立派勢力から距離を置くなど中立性を維持してきた。しかし、ロセイは今後、FCバルセロナが政治的中立性を保つことは出来ないだろうと語った。1899年にスイス人実業家ジョアン・ガンペールら11名により創立された。この時、上記の「えんじと青」のチームカラーが決められたが、このチームカラーとなったのは、ガンペールの縁深かったFCバーゼルのチームカラーを真似た物と一般的には信じられている。初代会長はイギリス人の。設立から10年後の1909-10シーズンにはコパ・デル・レイで優勝した。1919年の『カタルーニャ自治憲章』制定運動がバルセロナを中心をするカタルーニャで起きたが、マドリードの中央政府が難色を見せるこの地方自治運動にFCバルセロナも参加した時に「クラブ以上の存在」というスローガンが初めて使用された。設立から30年目を迎えようとする1928-29シーズンにはリーガ・エスパニョーラで初めて優勝したが、その後勃発するスペイン内戦がチームの運命を暗転させた。スペイン内戦時にはカタルーニャはフランシスコ・フランコの独裁政権に強く抵抗した。1935年には会長J・スニョルは暗殺され、ソシオの会員数は250人までに減少した。内戦後にはカタルーニャはフランコ政権の目の敵にされ、カタルーニャ語の使用の禁止など政治経済のみならず文化面でも抑圧された。しかしバルセロナのブルジョワの独裁政権への運動もありFCバルセロナは「クラブ以上の存在」すなわちカタルーニャ民族主義の象徴として維持された。とはいえ1940年代にはフランコ政権の支援を受けたレアル・マドリードが力を伸ばしてきた時期であり、1943年の総統杯ではレアル・マドリードに11対0で敗北している。これはレアル・マドリードが中央政府の支援を受けており、戦力の差が広がった結果である。FCバルセロナとレアル・マドリードの「因縁」はこのころに形成された。またFCバルセロナのエンブレムにあるカタルーニャ国旗の部分はスペイン国旗に変更された。しかしながら1960年代の本格化するバルセロナの経済発展と人口増は住宅需要をもたらし、FCバルセロナは「レス・コルツ」スタジアムを売却して、郊外に新しいスタジアムを建設した。1957年に落成した新スタジアムが現在の本拠地「カンプ・ノウ」である。カンプ・ノウの建設には当初予算を3倍も上回るものとなったが、周辺の土地にスポーツ関連施設を建設するなどの不動産経営で得た利益はクラブ経営の経済的基盤となった。1955-56シーズンはインターシティーズ・フェアーズカップにてそれぞれ初優勝を果たした。1978年、ホセ・ルイス・ヌニェスが会長職に就任。1980年にはキニ、ベルント・シュスターを獲得し、1980-81シーズンはコパ・デル・レイ優勝を達成。1982年にはディエゴ・マラドーナを獲得し、1982-83シーズンはコパ・デル・レイ優勝、1983-84シーズンにはスーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝、1984-85シーズンにはリーガ・エスパニョーラ優勝を果たした。1986年夏の移籍市場ではアンドニ・スビサレッタらを獲得。1987-88シーズンはコパ・デル・レイ優勝を達成したほか、シーズン終盤にヨハン・クライフが監督に就任。1988年夏の移籍市場ではフリオ・サリナス、ホセ・マリア・バケーロ、アイトール・ベギリスタイン、エウセビオ・サクリスタン・メナ、アンドニ・ゴイコエチェアを獲得し、1988-89シーズンはFCバルセロナBからギジェルモ・アモールを昇格させた。1989年夏の移籍市場ではロナルド・クーマン、ミカエル・ラウドルップを獲得し、1989-90シーズンはコパ・デル・レイ優勝を達成する。1990年夏の移籍市場ではフリスト・ストイチコフを獲得し、1990-91シーズンはFCバルセロナBからアルベルト・フェレール、ジョゼップ・グアルディオラらを昇格させ、リーガ・エスパニョーラ優勝を達成。1991年夏の移籍市場ではミゲル・アンヘル・ナダルを獲得し、1991-92シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ、リーガ・エスパニョーラ、UEFAチャンピオンズカップにて優勝を達成した。1992-93シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャとリーガ・エスパニョーラにて優勝を果たす。1993年夏の移籍市場ではロマーリオを獲得し、1993-94シーズンはFCバルセロナBからセルジ・バルフアンを昇格させ、リーガ・エスパニョーラ4連覇を達成した。これらの実績を残した当時のチームはエル・ドリーム・チームと称された。1994年夏の移籍市場ではアベラルドらを獲得し、スーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝を達成。1995年夏の移籍市場ではルイス・フィーゴ、イバン・デ・ラ・ペーニャらを獲得するも、1995-96シーズンは無冠に終わり、シーズン終了後にクライフは解任された。1996-97シーズンはボビー・ロブソンが監督に就任し、1996年夏の移籍市場ではロナウド、ルイス・エンリケらを獲得。同シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ、コパ・デル・レイにて優勝を果たす。1997-98シーズンはルイ・ファン・ハールが監督に就任し、1997年夏の移籍市場ではリバウド、ミハエル・ライツィハーらを獲得。同シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝とコパ・デル・レイ2連覇の2冠を達成。1998年夏の移籍市場ではパトリック・クライファート、フィリップ・コクーらを獲得し、1999年冬の移籍市場ではフランク・デ・ブール、ロナルド・デ・ブールを獲得。1998-99シーズンはFCバルセロナBからシャビを昇格させ、UEFAチャンピオンズリーグでは2年連続でグループリーグ敗退するものの、リーガ・エスパニョーラ2連覇を達成する。1999-2000シーズンはFCバルセロナBからカルレス・プジョルを昇格させる。UEFAチャンピオンズリーグでは準決勝で敗退、リーグ戦でも下位チームとの敗戦や引き分けによる取りこぼしが目立ち、デポルティボがリーグ優勝したことで同シーズンは無冠に終わる。一方、オランダ人選手の加入に伴うカンテラ出身選手の冷遇、1999-2000シーズンのチームの体たらくなどでソシオの不満が爆発し、その責任を取るかたちでヌニェスが会長職を辞任。シーズン終了後にファン・ハールも監督を退任した。1999-2000シーズン終了後に会長選を実施し、ジョアン・ガスパールが会長に就任する。2000年夏の移籍市場では、ルイス・フィーゴがレアル・マドリードへ禁断の移籍を果たすことになったが、ジェラール・ロペス、マルク・オーフェルマルスらを獲得するも、2000-01シーズンは無冠に終わる。2001年夏の移籍市場ではハビエル・サビオラらを獲得するも、2001-02シーズンも無冠に終わる。2002-03シーズンはFCバルセロナBからアンドレス・イニエスタ、ビクトル・バルデス、オレゲール・プレサスを昇格させるも、4季連続の無冠に終わった。2003年にジョアン・ラポルタが会長に就任。ラポルタはクラブOBで元監督だったヨハン・クライフとの関係を深め、監督人選もクライフの意見が反映された。2003-04シーズンはフランク・ライカールトが監督に就任。2003年夏の移籍市場ではロナウジーニョ、ルイス・ガルシア、ラファエル・マルケス、ジョバンニ・ファン・ブロンクホルストらを獲得し、2004年冬の移籍市場ではエドガー・ダービッツを獲得。同シーズンは無冠に終わるも、後半戦での巻き返しにより最終節終了にて2位で終わる。2004年夏の移籍市場ではサミュエル・エトオ、ヘンリク・ラーション、リュドヴィク・ジュリ、デコ、エジミウソンらを獲得し、ファン・ブロンクホルスト以外のオランダ人選手を一斉に放出。2004-05シーズンはFCバルセロナBからリオネル・メッシを昇格させ、リーガ・エスパニョーラ優勝を果たした。2005-06シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ、リーガ・エスパニョーラ、UEFAチャンピオンズリーグにて優勝を達成する。2006年夏の移籍市場ではジャンルカ・ザンブロッタ、リリアン・テュラム、エイドゥル・グジョンセンらを獲得。2006-07シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ2連覇を達成する。リーガ・エスパニョーラでは前年の得点王だったエトオが、UEFAチャンピオンズリーグのブレーメン戦で半月板を断裂し、5節から20節まで欠場し、メッシも10月12日のレアル・サラゴサ戦で足を踏まれ、左足第五中足骨を骨折し11節から21節まで離脱。この2人を欠いて臨んだ試合で5勝4分け1敗と失速し、優勝した前年と同じ勝ち数ながらレアル・マドリードに勝ち点で並ばれ、クラシコで1分け1敗と負け越した関係で2位に終わった。コパ・デル・レイでは準決勝のヘタフェ戦においてホームでの第1戦を5-2で終えながらアウェーでの第2戦を0-4で落としてしまい逆転負けでベスト4敗退、UEFAチャンピオンズリーグではリバプールと対戦し、第1戦でデコのゴールで先制しながら逆転負けし、2戦合計2-2ながらアウェーゴール数で劣りベスト16に終わる。UEFAスーパーカップではセビージャFCに敗れて準優勝に終わり、エトーとメッシが2人共欠場した状態で臨まなければならなかったFIFAクラブワールドカップ2006でも決勝でブラジルのインテルナシオナルに敗れ準優勝に終わる。2007年夏の移籍市場ではティエリ・アンリ、ガブリエル・ミリート、トゥーレ・ヤヤ、エリック・アビダルを獲得するも前のシーズンからの空気を払拭出来なかった。ロナウジーニョが練習に参加しなかったのに加え、夜遊びや遅刻、仮病疑惑とモチベーションを失い、挙句の果てには終盤戦にコンディションを崩したり、右足を痛め戦線を余儀なくされた。それだけでなく、デコやエトオが移籍志願とも取れる発言でロッカールームの規律が緩み切り、些細な事にもスキャンダラスに報じるメディア、保身の塊と化したクラブ幹部、成功より失敗に過敏に反応するファンが混乱を助長。ライカールトの放任主義が選手のエゴを生み、一貫性を欠く選手起用、個人技頼みの稚拙な攻撃に終始し、エトオやメッシが怪我で欠いた事情も重なり自滅。、2007-08シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャにも参加していないので、4季ぶりの無冠に終わっただけでなく、24シーズンぶりにレアルとのクラシコに連敗も喫し、シーズン終了後にライカールトは監督を退任した。2008-09シーズンはFCバルセロナBの監督を務めていたジョゼップ・グアルディオラがトップチームの監督に就任。2008年夏の移籍市場ではダニエウ・アウヴェス、セイドゥ・ケイタ、ジェラール・ピケらを獲得し、FCバルセロナBからペドロ・ロドリゲス・レデスマ、セルヒオ・ブスケツ・ブルゴスらを昇格させた。同シーズンはリーガ・エスパニョーラ、コパ・デル・レイ、UEFAチャンピオンズリーグにて優勝を達成し、スペイン史上初めての主要タイトル3冠を達成した。2009年夏の移籍市場ではエトオとのトレードでズラタン・イブラヒモビッチを獲得したほか、マクスウェル、ドミトロ・チグリンスキーを獲得。2009-10シーズンはUEFAスーパーカップ優勝、スーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝、FIFAクラブワールドカップ2009優勝を果たして史上初の年間6冠を達成したほか、リーガ・エスパニョーラ2連覇を達成した。2010年夏の移籍市場ではダビド・ビジャを獲得するも、同年6月30日をもってラポルタは任期満了に伴い会長職を退任した。2010年にサンドロ・ロセイが会長に就任。ロセイが会長に就任以降もチームはタイトルを獲得する。一方で、カタール財団との胸スポンサーに端を発する商業主義の導入等で、クライフや前任者との対立姿勢を示すこととなり、監督人選もそれが色濃く反映された。2010年夏の移籍市場ではアドリアーノ、ハビエル・マスチェラーノを獲得。2010-11シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ2連覇、リーガ・エスパニョーラ3連覇、UEFAチャンピオンズリーグ優勝を達成した。2011年夏の移籍市場ではアレクシス・サンチェス、フランセスク・ファブレガスを獲得。2011-12シーズンは2008-09年以来3年ぶりのコパ・デル・レイ優勝、スーペルコパ・デ・エスパーニャ、UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ2011においてはここ3年で2度目の優勝を達成するが、リーガ・エスパニョーラではアビダルが病気を患い、ビジャが2度目の世界一となったクラブワールドカップで左足の脛骨を骨折し5ヶ月の離脱。ペドロ、アレクシス、アドリアーノ、イニエスタが度重なる筋肉系の故障に悩み、その前まで11連勝で迎えたカンプ・ノウでのクラシコにグアルディオラ就任後初めて敗れるなど2位に終わり、そのクラシコを挟んで行われたUEFAチャンピオンズリーグでは、準決勝にて、2006-07シーズン以降勝利のないチェルシー相手に2戦合計3-2で敗れ、シーズン終了後にジョゼップ・グアルディオラは監督を退任した。2012-13シーズンはアシスタントコーチをつとめていたフランセスク・ビラノバが監督に就任。2012年夏の移籍市場ではジョルディ・アルバ、アレクサンドル・ソングを獲得。2012年12月にビラノバが病気を理由にチームを暫く離れることになり、3月の下旬まで助監督のジョルディ・ロウラがチームを率いることとなった。監督復帰後のUEFAチャンピオンズリーグ 2012-13の準決勝では、バイエルン・ミュンヘンに2戦合計0-7で惨敗。リーガ・エスパニョーラはリーグ史上最多記録に並ぶ勝ち点100を達成して優勝するも、これは前半の貯金がものを言ったに過ぎなかった。通算は32勝4分け2敗だったのだが、そのうちの3分け2敗が後半の19試合に現れた様にビラノバが積極的に縦に仕掛ける戦術を多用した弊害で、持ち味である連動性のあるプレスが機能せず、これがブスケッツをはじめとする守備陣の負担が増した事と失点の増加に繋がっていった。シーズン終了後にビラノバは健康上の理由から監督を退任した。2013-14シーズンはヘラルド・マルティーノが就任し、2013年夏の移籍市場ではネイマール、デニス・スアレス・フェルナンデスを獲得。2013-14シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝を果たすも、ネイマールの移籍オペレーション問題の責任を取るかたちで、シーズン途中の2014年1月24日にロセイは会長職を辞任した。ロセイの退任に伴い、副会長のジョゼップ・マリア・バルトメウが暫定的な会長に就任。2013-14シーズンはリーガ・エスパニョーラでリーグ史上最多記録となる59週連続首位を達成するも、一昨シーズンから続いたメッシ依存症はマルティーノでも歯止めをかけられず、マルティーノが現有戦力で十分と判断してセンターバックの獲得を見送ったツケが、前線と最終ラインの間が間延びし、ゲームコントロールと守備力の低下を招くという戦術面の課題を最後まで修正出来ないという形で回り、リーガ・エスパニョーラではアトレティコ・マドリードの後塵を拝する2位、UEFAチャンピオンズリーグでも準々決勝のスペイン対決でそのアトレティコに敗れてベスト8、コパ・デル・レイでは決勝戦でリーグ戦では2連勝した筈のレアルに敗れて準優勝、6シーズンぶりに主要タイトル無冠となり、シーズン終了後にマルティーノは解任された。2013-14シーズン終了後、バルトメウが正式に会長に就任。2014-15シーズンはルイス・エンリケが監督に就任。2014年夏の移籍市場ではリバプールからクラブ史上最高額の移籍金でルイス・スアレスを獲得したほか、クラウディオ・ブラーボ、マルク=アンドレ・テア・シュテーゲン、ジェレミー・マテュー、イヴァン・ラキティッチ、トーマス・フェルメーレンらを獲得し、下部組織からジョルディ・マシップを昇格させた。同シーズンは2季ぶりのリーガ・エスパニョーラ優勝、3季ぶりとなるコパ・デル・レイ優勝を果たし、スペイン史上最多となる6度目のリーガ・エスパニョーラとコパ・デル・レイの国内タイトル2冠を達成した。さらにUEFAチャンピオンズリーグではグループリーグでオランダ王者アヤックス、フランス王者パリ・サンジェルマン、キプロス王者APOELと対戦し、決勝トーナメントではイングランド王者マンチェスター・シティ、フランス王者パリ・サンジェルマン、ドイツ王者バイエルン・ミュンヘン、イタリア王者ユヴェントスと、全ての対戦で各国前年度リーグ王者を撃破して優勝を達成した史上初のクラブに。ヨーロッパのクラブとしては史上初となる2度目の主要タイトル3冠を達成した。メッシ、スアレス、ネイマールの3選手により構成された前線は3人の頭文字を取ってMSNと呼ばれ、3人で公式戦122ゴールを決め、スペインサッカー史上最も多くのゴールを奪った3トップとなった。5月21日、シャビが今季限りで退団することを発表し、カタールのアル・サッドへの移籍も発表された。また、シーズン終了後会長選挙が行われ、バルトメウが再選を果たした。FIFAから2015年夏の移籍市場での補強禁止処分を下されているため、他チームからの補強が出来なくなっていたが、来冬まで出場出来ないという条件付きでアレイクス・ビダル、アルダ・トゥランを獲得した。2015-16シーズンはUEFAスーパーカップ優勝を果たし、これによってACミランを抜いて欧州最多の19回の国際タイトル獲得記録を樹立した。さらにFIFAクラブワールドカップ2015で大会最多の3度目の優勝を果たして2015年を5冠で締めくくった。ちなみにこれが過去10年間で24タイトル目となり、1クラブの10年間でのタイトル獲得数としては史上最多のペースである。12月30日のベティス戦では年間180ゴールを達成して1クラブとしての年間最多得点記録を樹立した。2016年の3月3日のラーヨ・バジェカーノ戦の勝利でスペインのクラブとしては史上最多となる公式戦35戦連続無敗記録を達成し、最終的には39戦まで無敗記録を伸ばした。4月31日のベティス戦ではMSNによる公式戦123ゴールを達成して昨シーズンの記録を更新し、最終的に公式戦131ゴールを記録した。リーグ戦では一時2位に勝ち点9差を付け、首位を独走し、優勝争いは最終節にまでもつれ込んだが、その後は全試合を無失点で勝利して逃げ切りに成功し、リーガ・エスパニョーラ24回目の優勝を果たし、連覇を達成した。コパ・デル・レイでは決勝でセビージャを延長戦の末2-0で破って連覇を果たし、7回目の2冠を達成した。しかし、昨年よりもMSNへの依存度は高く、昨年は110ゴールのうち81ゴールを奪ったのに対し、今季は112ゴールのうち90ゴールと破壊力は健在だったが、3月の国際Aマッチデーにてブラジル代表のネイマール、アルゼンチン代表のメッシに続いて、2014年のワールドカップ・イタリア戦にてキエッリーニに噛みついたスアレスが奇しくも3月にウルグアイ代表に復帰し、3人共それぞれの国の絶対的エースとして極度の緊張を伴うワールドカップ南米予選を戦わなければならなかった為、南米とヨーロッパを往復。開幕以来6つのコンペティションに参加し超がつく程のハードスケジュールを強いられた事も重なり、そのツケがカンプ・ノウでのクラシコでレアルに逆転負けしてからのリーグ戦3連敗に、第1戦は勝利するも第2戦で敗れて合計スコア2-3で敗退したUEFAチャンピオンズリーグの準々決勝アトレティコ戦で回り、MSNが止まれば、バルサも止まる。そんな言葉を体現するシーズンとなってしまった。2016-17シーズンはデニス・スアレスの復帰、サミュエル・ユムティティ、リュカ・ディニュ、アンドレ・ゴメス、フランシスコ・アルカセル、ヤスパー・シレッセンの獲得を発表。若手選手の大幅補強によりチームの若返り化を進めた。FCバルセロナも他のスペイン国内クラブ同様、カンテラと呼ばれるユースチームを所有している。FCバルセロナの下部組織はヨーロッパのクラブチームの中でも予算面などで充実している。ラ・マシアと呼ばれる選手寮には、カタルーニャ出身の子弟か、家族とともにカタルーニャに移住した外国人しか入れない。そのため生え抜きの選手は自然とカタルーニャ人が多数派となる。このようなカタルーニャ人選手が優勢な状況もまた、このチームをバルセロナ市民、カタルーニャ人をして「クラブ以上の存在」言わしめるものである。スペインでは法律により18歳になるまではプロ契約ができないため、近年では育成した選手がトップチームに昇格する直前にプレミアリーグのクラブに引き抜かれる事件がしばしば起きている。アーセナルにはセスクとフラン・メリダ、リヴァプールにはパチェコ、マンチェスター・ユナイテッドにはジェラール・ピケが引き抜かれ批判を起こしている。しかしFCバルセロナ自身、当時12歳だったアルゼンチン・CAリーベル・プレートのエリク・ラメラを家族ごとスペインに連れてこようとし、アルゼンチン国内で批判の声が上がるなど、特に安価で選手を揃えられる南米などの貧困地域で類似の問題を引き起こしている。ユースチームは能力や年齢によって、以下の11チームに分けられている。一般に多くのサッカークラブではユニフォームにスポンサーのロゴを入れているが、FCバルセロナはソシオにより運営していることから、スポンサーのロゴを入れないことがクラブの伝統となっていた。歴史的な背景もあり、ソシオの会員はクラブに非常に誇りを持っている。上記のような伝統があるが、2006年に児童福祉活動への支援という観点から、ユニセフに対して5年契約で毎年190万ドルの寄付、総額950万ドルの寄付をすることで合意した。これにより、2006年9月12日から史上初めて胸にロゴを入れたユニフォームを着用している。ロゴ本来の色は白であるが、白は宿敵であるレアル・マドリードのチームカラーでもあるため、ホームは黄色、アウェイは水色のロゴになった。2011-12シーズンから5年間の契約でカタール財団とスポンサー契約を結び、1899年のクラブ創設以来初の商用ロゴ入りユニホームを着用している。「カタール財団」が胸スポンサーになったことにより、2011-12シーズンからユニセフのロゴは背番号下に入る。カタール財団のロゴの導入に当たっては、ソシオやクラブOBなどの反対も強く、元選手であり名監督であったヨハン・クライフは「シャツにしみをつけるなんてまっぴらだ。クラブ収益の一割にも満たない金のためにクラブの独立性を捨てるのか!」と反対した。また、スタジアムには「カタールにNO!」と抗議のポスターを掲げるサポーターも現れた。しかし、前会長の就任後にはクラブは4億ユーロの負債を抱えており、その前の4年間はタイトルから離れていた上にライバルのレアル・マドリードの後塵を拝していた。最終的には、現会長の尽力もあって2011年、秋のソシオの総会で承認を得た。現会長のサンドロ・ロセイは「皆さんが反対なら契約は結ばない。しかし、クラブには前会長の残した多大な負債がある」と語った。2013-14シーズンからはカタール財団とともにスポンサーとなっていたカタール航空のロゴが胸に掲示されている。また2013年12月には半導体メーカーのインテルともスポンサー契約を結んだが、スポンサーロゴはユニホームの内側にプリントされており、選手がシャツをたくし上げると見えるようになっている。 ※括弧内の国旗はその他保有国籍、もしくは市民権、星印はEU圏外選手を示す。
出典:wikipedia
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