千日前(せんにちまえ)は、大阪府大阪市中央区の地域名および町名。道頓堀の南東に位置し、演芸場や映画館などがある娯楽街になっている。西隣の難波にある法善寺と竹林寺で千日念仏が唱えられていたことから、両寺(特に法善寺)が千日寺と呼ばれ、その門前であることに由来する。江戸初期には近郊農村であった西成郡難波村と西高津村の一部であった。大坂の陣後の1615年、市内の墓地の整理により「千日墓地」と呼ばれる大規模な墓地がつくられ、刑場・焼き場も併設された。これが後にさまざまな噂話や因縁話の原因にされることとなる。なお、大坂西町奉行所近辺にあった牢獄から本町橋を渡り西へ向かい、西横堀川で南下、道頓堀川を東へ向かい千日寺(刑場)に向かうのが市中引き回しルート。1702年、玉造の伏見坂町の東半(北組伏見坂町)が大坂代官の玉造口組屋敷地(西成郡古屋敷地)として接収されることになり、代替地として道頓堀南東の西高津村領内に設置された元伏見坂町へ移転した。坂町(さかまち)と通称された元伏見坂町には茶屋や見世物小屋が集まり始め、南地五花街の一つに数えられるほどの賑わいを見せるようになった。坂町および南隣の難波新地1丁目は、天保の改革の際に歌舞伎と浄瑠璃に携わる者の居住区に指定された経緯を持っており、この2町が現在の千日前1丁目に概ね該当する。現在の千日前2丁目は、難波新地2丁目(のちに再編されて難波新地4番町)のごく一部(現・エスカールなんばの一画のみ)・難波村字北河原(旧町名:河原町1丁目)の北部・西高津村字髭剃(のちに難波村に編入されて難波村大字西高津。旧町名:南阪町)に概ね該当し、上記の千日墓地などが設置されていたところである。明治以降、刑場は廃止され墓地が阿倍野に移転して繁華街が広がって行くことになるが、当初は墓地跡・刑場跡(晒し台・磔台・獄門台)ということでなかなか買い手がなかった。そこで大阪市は、10坪入手した者には5円を「灰処理代」として援助した。1885年の阪堺鉄道(南海電気鉄道の前身)難波駅開業などで一気に人通りが多くなる。1912年(明治45年)1月16日に難波新地4番町で出火した「ミナミの大火」によって、難波新地から千日前、西高津新地、生國魂神社あたりまでが焼失し、この地にあった遊郭は移転して消滅した。焼け跡には現在の千日前通にあたる大阪市電九条高津線敷設の計画が持ち上がったものの、繁華街は低迷したままであった。ミナミ壊滅の危機に瀕して南海鉄道の社長は近代的なレジャーセンターの建設で復興の呼び水にすることを考え、千日土地建物(千土地。のちの日本ドリーム観光)を設立。大阪の興行界の実力者・山川吉太郎に声をかけた。彼は当時、活動写真館を経営し、役者をアイドルとして売り出す才能の持ち主でもあった。南海の出資で彼はすべての娯楽を詰め込んだレジャーセンターを構想した。新しい千日前交差点の南西隅に、山川は1914年(大正3年)に一大娯楽センター「楽天地」を建設、一躍市内のハイカラな名所となった。地上3階建てで多くの尖塔を持ち、中央には円形ドームを載せ、夜はイルミネーションで彩られていた。館内は大劇場と二つの小劇場で芝居・演劇・映画を公演し、地下にはメリーゴーランド、ローラースケート場、水族館まであった。屋上の大阪市内を見渡す展望台も人気を集めた。楽天地の開業以降、付近には映画館・演芸場が進出し、道頓堀と肩を並べる娯楽の街へと発展した。楽天地は後に、山川吉太郎が映画に熱中したことと映画制作で多額の借金を抱えたことで廃れ、帝国キネマの撮影場の焼失と新興キネマへの再編もあり1930年(昭和5年)に廃業。千土地は白井松次郎(松竹創業者の一人)に買収され、1932年、跡地に収容人数3,000人近い7階建ての南欧風建築「大阪歌舞伎座」が誕生し、初代中村鴈治郎はじめ多くの歌舞伎役者が舞台を踏んだ。以降、松竹の興行による関西歌舞伎が定期的に上演され、翌1933年には6階にアイススケート場を併設。劇場南西側の飲食店が立ち並ぶ路地は「鴈治郎裏」もしくは「鴈治郎横丁」(現・精華通り)と呼ばれ賑わった。1934年、松竹は1922年に結成した「松竹楽劇部」を「大阪松竹少女歌劇団」(OSSK)と改称。千日前・東洋劇場を「大阪劇場」(通称・大劇)と改称して、新生OSSKの本拠地とした。大阪劇場は実演と映画上映の二本立て興行を行うようになり、実演はOSSKのレビューか人気歌手の歌謡ショウ(OSSKも出演)、映画は松竹映画を上映していた。1943年OSSKは「大阪松竹歌劇団」(OSK、現・OSK日本歌劇団)と改称し、笠置シズ子や京マチ子といったスターを生み出した。第二次世界大戦の空襲で一帯は再び焼け野原と化したが、再び演芸街・飲食店街としての復興を果たす。大阪歌舞伎座上階のアイススケート場は占領軍向けの特殊慰安所(キャバレー)に改装され、朝鮮戦争まで運営された。また大劇地下にはアルバイトサロン(アルサロと略す。現在のキャバクラ)が開業し、全国に広まった。大阪歌舞伎座は1958年に御堂筋の大阪新歌舞伎座に移転し、歌舞伎座の建物は改装され「千日デパート」となるが、1972年(昭和47年)に死者118名にのぼる千日デパート火災が発生した。その後長らく焼け跡は放置され利用されなかったが、ダイエー系のデパート「プランタンなんば」が建ち、カテプリなんばと改称したのを経て、現在はビックカメラなんば店(エスカールなんば)となっている。またOSKも「日本歌劇団」(NKD)と改称した1960年代半ばから人気にかげりが見え始め、1967年大劇は閉鎖。NKDが近鉄沿線のあやめ池円形大劇場に完全移転したことを受け、劇場を大劇レジャービルとしてボウリング場などの複合施設「大劇プレイタウン」に改装、新たに「大劇名画座」と「大劇シネマ」の2つの映画館を開館した。1991年にビルは解体され、跡地はなんばオリエンタルホテルとなっている。オリエンタルホテル南側の商店街「なんば千日前通」は、劇場閉鎖後も長らく「千日前大劇南通」と呼ばれていた。吉本興業は従来、なんば南海通になんば花月劇場を経営していたが、近隣に所在した自社の経営するボウリング場・駐車場ならびに本社事務所(NSCを併設)を取り壊して、1987年「なんばグランド花月」を開場。以後、吉本新喜劇の本拠地となっている。法善寺・竹林寺を経由して千日墓地に至る通りであったことから、道頓堀川に架かる太左衛門橋から南へ伸びる通りは現在も単に「千日前」と呼ばれる。TORII HALL・千日亭、TOHOシネマズなんば・別館(旧・敷島倶楽部→東宝敷島劇場→敷島シネポップ)、なんばグランド花月(NGK)、YES NAMBAビル(ワッハ上方やジュンク堂書店、よしもと漫才劇場、エフエムちゅうおう、NMB48劇場などが入居)などの演芸場や映画館が点在している。店舗構成としては全体的にオシャレではなく、「アムザ1000」(サウナ・カプセルホテル)などのレジャービルや、パチンコ店が多くを占める。なんばグランド花月以南は「道具屋筋」(千日前道具屋筋商店街)と呼ばれる。プロ用の厨房用品や店舗開業用の食器、旗、飾り、食品サンプルなどさまざまな物を売っている。道具屋筋は「なんさん通り」で南端となり、近年オタク街化の進む日本橋の電気街(でんでんタウン)に隣接する。なんば千日前通から堺筋にかけては古くからの店も残る一方、2010年頃から古臭い雰囲気と安い賃料が魅力となり、新しい飲食店が相次いで出店し、「裏なんば」と呼ばれる注目のスポットとなっている。なかでも、複合レジャー施設「味園ビル」は大宴会場・ホテル・スナックなどが入ったビルとして、裏なんばのランドマーク的存在である。1990年代まで深夜時間帯を中心にCMもよく流れていた。地下1階には豪華なキャバレー「ユニバース」があったが2011年3月に営業を終了し、現在は貸しホールとなっている。パワフルな独特のデザインが凝らされた外観や内装などが、高度成長期の過剰さを知らない若い世代にも支持され、近年は若いオーナーが中心のバーや飲食店が相次いで開業、サブカルチャーの発信拠点となりつつある。1998年4月7日には「21世紀千日前記念式典」が開催された。2008年10月27日は、日本のテレビジョン放送が完全にデジタル化されるちょうど1,000日前にあたった。この日、デジタル放送推進協会(Dpa)が全国を巡回させているキャラバンカーが千日前を訪れ、関西地区の地上デジタル放送推進大使(一部代理)と藤崎マーケットらがテレビデジタル化「千日前」をアピールするイベントを展開した。通常全国レベルにあたるイベントは東京で行われ、東京キー局の地デジ大使が参加するが、今回は「千日前」の地名にちなんだもので、大阪で開かれたこのイベントが全国レベルとして扱われた。岡山県岡山市北区表町にある千日前商店街神奈川県横須賀市の横須賀中央駅前にある千日通商店街
出典:wikipedia
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