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大正テレビ寄席

『大正テレビ寄席』(たいしょうテレビよせ)は、1963年(昭和38年)6月12日から1978年(昭和53年)6月25日までテレビ朝日(全国朝日放送、放送開始当初はNETテレビ)で放送された、大正製薬一社提供の公開演芸番組である。放送開始から1963年9月25日までは水曜 12:15 - 12:45に放送の30分番組だったが、1963年10月13日放送分から日曜 12:00 - 12:45に放送の45分番組となった。ここではやらせリンチ事件で打ち切りになった『アフタヌーンショー』のつなぎ番組として放送されていた『この秋一番!』(このあきいちばん)についても記載する。東京都渋谷区の国鉄(現:JR)渋谷駅西口前にあった東急文化会館(渋谷ヒカリエの場所にあった複合娯楽施設)地階の映画館・東急ジャーナル(のちの東急レックス→渋谷東急3)にて公開収録された番組で、ウクレレ漫談でもお馴染みの牧伸二が司会進行を勤めた。番組でのウクレレ漫談が受けて、当時全くの無名だった牧の「出世作」となる。ただし、放送開始当初からしばらくは、ラジオで牧のウクレレ漫談のネタを書いていた落語家の三笑亭笑三との二人司会体制だった。司会が牧一人になったのは、番組開始3か月後である。番組は基本的に演芸3組(番組開始当時は2組)とアトラクションで構成されていた。公録会場の東急レックス側では、毎週金曜夕方に『東急文化寄席』という演芸興行を、月曜夕方に『お笑い横丁』という演芸興行を、ともに有料で行っていた。番組収録は月曜の『お笑い横丁』の一部といった位置付けであった。このため、他の公録番組と異なり観客の目がシビアであり、いわゆる「ゆるい(またはぬるい)」笑いは許されなかった。制作を担当した山下武(柳家金語楼の実子、元日劇舞台監督)は「5秒間に1回笑わせる」「今までにない革新的な笑いを提供する」といった確固たるコンセプトを持って番組製作にあたった。コント55号を登場させたときは2人のあまりにも激しい動きにカメラがついていけず、山下は通常、ほとんど撮って出しに近い公開録画だったにもかかわらず撮り直しを命じた。その後、楽屋で2人に詫びを入れるというほどのこだわりだった。このため、演芸番組でありながら落語家はほとんど登場せず、テレビ寄席に出演しても立って漫談を演じる程度であった(ただし、古今亭志ん朝のような例外もあった)。本格的な高座の中継や大喜利といった企画は後続番組としてネットチェンジまで午後1時台に放送されていた『日曜演芸会』の方で行われた。新しい笑いを生み出し、番組をモダン寄席にする事をモットーに、制作者は寄席に拘らずキャバレーやストリップ小屋、ジャズ喫茶などあらゆる場所で取材し、出演交渉を行った。また、「お笑い横丁」はNETと東急がそれぞれ顔付けを行っていたが、東急側が独自に顔付けした芸人(すなわち放送には登場しない芸人)についてもつぶさにチェックし、観客の受けが良ければテレビ寄席にも登場させた。その結果、新しいタイプのお笑い芸人を多く輩出。東京のボードビルを紹介して、「演芸ブーム」の牽引役となった。出演芸人は次の通りである。前記の通り、落語家は基本的に立ち高座だった(テロップでは「立体落語」と紹介されていた)。そのためか新作落語に強い人や、話術に優れている人が多かった。東京漫才中心だが、関西からも時々来ていたようである。東西問わず、人気の有るグループが呼ばれた。また、後にソロ活動でも人気者になる人たちもいる。ザ・ドリフターズにとって、コミックバンドとして、そしてコントグループとしての地位を築いたのがこの番組だった。寄席で有名なボーイズグループが、基本的に出ていた。こちらも東西問わず、テレビ向けで見て受ける芸人をそろえた。演芸との間に、観客に楽しんでもらうコーナーもあった。日本テレビの『ロンパールーム』のパロディで、子供達との歌と踊りのコーナー。オープニングでは牧が、童謡「むすんでひらいて」を振りを交えて唄っていたが、「まーたひらいて」の部分では、やたら強調して股を開いていた。そして子供達がステージに現れると、観客に向かって(牧)「PTAの皆さん、こんにちわー!」(子供)「こんにちわー!」と挨拶をした。番組の中で最も人気の有ったコーナー。元々司会の牧が引越しで余剰になった洋服や物を、自分のショーでチャリティーオークションをしていたのを、プロデューサーからこの番組でやろうといわれ、1コーナーとしてスタートした。まず始まりは「バーゲンだよー」の掛け声が響き、その後マーチのリズムとともに牧が、「さぁー、お待たせをいたしました、バーゲンセールのお時間で御座います」と言いながら入ってくる。この時の牧の服装は、ダボシャツ・ステテコに鉢巻の、テキ屋スタイルだった。そして、「マキシンのバーゲンセール」と書かれた台の前に立ち、オークションを始める。台の上には、赤と青の色をした洗面器があり、その中に品物が入っている(大きな物は台の下に置いてある)。品物は想像以上の値段が付き、競り落とした人は舞台に上がり金を支払い、品物を受け取る。また、商品には必ずおまけが付いた。おまけは競り落とした品物にまつわる物で、結果的にそこそこの物を競り落としたのと同じになる。その後の商品は、前に買った商品としりとりで次の商品を当てさせ、正解した観客がその商品を買う(金額は自由)。後期になると、「ジェスチャーバーゲン」が登場。これは最初に商品を競り落として買った観客が、「ジェスチャーオンステージ」と書かれた台の上に立ち、これから出す商品をジェスチャーで観客に答えさせるというものだった。チャリティーのため、売上金は「あゆみの箱」に寄付された。このコーナーは後半のアトラクションで、最終回まで続いた。番組後期のコーナー。会場から女性限定で参加者を募り、舞台に上がった参加者は参加料として100円を「あゆみの箱」に払う。牧の号砲と同時に、BGMとして軍艦マーチが流れ、つかみ取りが始まる。参加者はスーパーマーケットで使われるかごの中に、商品を入れていく。制限時間2分で終了、ここで「大当たりラッキー商品」が発表される。その商品を持っている人は、つかみ取り商品と共に、ラッキー賞がもらえた。つかみ取りの商品はすべて持ち帰れた。番組後期のコーナー、参加者は大人子供問わず、会場から募った。ルールは、ソウルミュージックに合わせ、牧が「ハチ公顔負け、チュー拳ホイ!」の掛け声と共に、ジャンケンをする。勝った方はそのまま残り、負けたほうは即退場。これをテンポ良く繰り返す。3人勝ち抜くと賞品の自転車がもらえる。制限時間終了時、たとえ勝ち抜いていても、そこで終わりとなる。時間が来た時には、バンドの一人がシンバルを鳴らして合図する。ジャンケンの掛け声は、渋谷で有名な忠犬ハチ公から来ている。1963年6月の番組開始当時は関西圏の毎日放送(MBS、当時のNETテレビ系列局)でも放送されていたが、テレビ寄席よりも若干早くスタートしMBSからNETにネットされた日曜正午の『サモン日曜お笑い劇場』が、関東ではまったく受け入れられなかったのと同様に、関西では関東の寄席のスタイルに馴染めない視聴者が多数出て、視聴率は低迷した。同年10月の改編でNETでは『テレビ寄席』を水曜日から日曜日へ移動することになるがMBSではそのままとなり、この結果MBSは『テレビ寄席』を、NETも『サモン日曜お笑い劇場』を互いに打ち切り合うことになった。このとき、当時MBS社長だった高橋信三は「江戸笑芸は関西では受け入れられにくい。テレビ寄席の視聴率が低迷するのは当社にとって判りきっていたことで、互いに打ち切り合うという判断は正しかった」と述べたという。以降MBSは『サモン日曜お笑い劇場』に集中して視聴率を上げ、1975年3月31日(月曜日)より、関西圏のNETテレビ系列局となった朝日放送(ABC)も当番組をネットせず、『日曜笑劇場・あっちこっち丁稚』に差し替えていた(ただし、いずれもスポンサーは同じ大正製薬だったため、事実上企画ネット番組であった)。また、近畿圏内の独立局に番販の形で配信されることもなかった(後述)。その一方でテレビ寄席の枠が空いた水曜日の昼はMBS製作枠となり『歌って当ててハイ何点』を経て、1964年4月の改編で『ダイビングクイズ』を投入。1965年に入るとNETが『アフタヌーンショー』を立ち上げる絡みで『ダイビング』も日曜日昼に移動して『お笑い劇場』の後続にあたる日曜午後2時台の放送に変わり、結果的に10年間継続しその後も数々のバラエティ番組でパロディやオマージュ企画が行われるほどの人気番組に成長した。この時期の関東テレビ界を代表する構成作家として、『光子の窓』(日本テレビ)『夢であいましょう』(NHK)などの人気番組を担当し活躍していた永六輔は、吉本新喜劇はもとより興行を主催している吉本興業と企画段階から関わったMBSが「結託して江戸笑芸を否定しようとしている」と猛反発。レギュラー出演するラジオ番組や請け負った連載記事などで両社を徹底的に誹謗・揶揄するなど攻撃を強めていった。ただ、MBSも別途江戸笑芸等を扱った『芸能わらいえて 目で見る百年史』(関東地区では当初NETで、その後東京12チャンネルで放送)を制作し、永が司会をしていた他、NETテレビ・12チャンネルにネットされていた時代の選抜高等学校野球大会中継の客席リポーターを務める等、1980年代以降に緩やかに関係を縮小させるまで、同局のテレビ・ラジオ番組への出演をしばらくの間は継続していた。2011年(平成23年)9月、永はMBSとTBSR&C、CBCが共同制作した開局60周年記念番組『御三家ラジオ』で久しぶりにMBSラジオへの出演を果たすが、これもあくまでTBS主導、しかも共演者のつボイノリオおよび浜村淳との個人的な交友から実現したものであって永とMBSの関係が直ちに完全復活となるわけではなかった。MBSが『お笑い劇場』と『素人名人会』を共にヒットさせたのと同様に、NETも同じ日曜日に『テレビ寄席』と『日曜演芸会』という2つの演芸番組を抱えていたが、『演芸会』はテレビ寄席と異なり、MBSで6日遅れの土曜日に放送された。その後、1970年代に入るとNETと12チャンネルのクロスネット政策によってMBSの編成から外れ、近畿圏に相次いで開局した独立局(KBS京都、サンテレビ、奈良テレビ放送、テレビ和歌山、びわ湖放送)各局に移行。さらに腸捻転ネット解消の際、それら番組がABCに集約することになり『末廣演芸会』と改題された後もABCで1981年の打ち切りまで放送されていた。一方、テレビ寄席のレギュラー放送が終了後10年近く経って制作された『帰ってきたテレビ寄席』は、ABCが同時ネットで放送した。そのため、出演者も関西系のお笑いタレントが多く選ばれていた。また、MBSがTBS系に移行した後に制作した全国ネットの演芸番組『サンデーお笑い生中継』(TBSと共同制作)や、『北野演芸館〜たけしが本気で選んだ芸人大集結SP〜』『日10☆演芸パレード』は、内容的に東西折衷となり、特に後2番組はMBS単独制作ながら東京都内での収録となっている。なおABCテレビはその後もしばらくは、日曜12時台の枠をネットせず、自社制作(「日曜笑劇場」→「プレミアムサンデー」(ドラマ再放送)→「ジモイチドライブ〜地元の一番でおもてなし旅〜」)の枠を続けていたが、2016年4月から「ビートたけしのTVタックル」の同時ネットに切り替えた。1985年10月18日にやらせリンチ事件で打ち切りになった『アフタヌーンショー』の穴埋め番組として同年10月21日から10月31日まで放送された。みのもんたの司会で当時人気の芸人の演芸を披露や新宿末廣亭からの寄席中継などが放送された。遅れネット局は14:00 - 14:55または15:00 - 15:55に放映していた。

出典:wikipedia

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