『仮名手本忠臣蔵』(かなでほんちゅうしんぐら)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。寛延元年(1748年)8月、大坂竹本座にて初演。全十一段、二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。赤穂事件を題材としたもの。通称「忠臣蔵」。江戸城松の廊下で吉良上野介に切りつけた浅野内匠頭は切腹、浅野家はお取り潰しとなり、その家臣大石内蔵助たちは吉良を主君内匠頭の仇とし、最後は四十七人で本所の吉良邸に討入り吉良を討ち、内匠頭の墓所泉岳寺へと引き揚げる。この元禄14年から15年(1701 - 1702年)にかけて起った赤穂事件、いわゆる「忠臣蔵」の物語は、演劇をはじめとして音曲、文芸、絵画、さらには映画やテレビドラマなど、さまざまな分野の創作物に取り上げられている。この「忠臣蔵」という題名と現在一般に流布する「忠臣蔵」の物語は、『仮名手本忠臣蔵』を濫觴とするものである。赤穂事件は、『仮名手本忠臣蔵』以前に浄瑠璃や歌舞伎で扱われている。確認できる早い例としては、元禄16年の正月に江戸山村座で上演された『傾城阿佐間曽我』(けいせいあさまそが)の大詰で、曽我の夜討ちにかこつけ赤穂浪士の討入りの趣向を見せたという。また元禄16年春に京都で上演された『傾城三の車』(近松門左衛門作)にも討入りの趣向が伺える。その後、赤穂事件を扱ったものとして『碁盤太平記』(近松門左衛門作)、『鬼鹿毛無佐志鐙』(吾妻三八作)、『忠臣金短冊』(並木宗助ほか作)など多くの作が上演されたが、これらを受けて忠臣蔵物の集大成として書かれたのが本作であり、『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』とならぶ義太夫浄瑠璃の三大傑作といわれる。かつて劇場が経営難に陥ったとき、上演すれば必ず大入り満員御礼となったことから、薬になぞらえて「芝居の独参湯」とも呼ばれていたほどである。それだけに上演回数もほかの演目と比べれば圧倒的に多く、現在に至るも頻繁に舞台に取り上げられている。『仮名手本忠臣蔵』の「仮名手本」とは、赤穂四十七士をいろは四十七文字になぞらえたもので、赤穂事件を扱った先行作にも『忠臣いろは軍記』、『粧武者いろは合戦』、『忠臣いろは夜討』など「忠臣」、「いろは」といった言葉が外題に含まれるものがある。「忠臣蔵」の「蔵」については、元文5年(1740年)の江戸市村座で『豊年永代蔵』が上演されており、元禄の豪商淀屋辰五郎の家の蔵を「いろは蔵」と称したように、「いろは」を蔵の呼び名にする事があった。松島栄一はこうした当時の背景から「いろは」と「蔵」とを結びつけたとし、また「赤穂事件の中心人物である大石内蔵助の名というのも、なにほどかの関係をもっているであろう」と述べている。『仮名手本忠臣蔵』は全十一段の構成となっている義太夫浄瑠璃である。本来ならその全十一段の「あらすじ」をまずまとめて示し、その後に作品の内容について解説すべきであるが、上でも触れたように本作は現在に至るまで頻繁に上演されている人気演目であり、この全十一段は文楽と歌舞伎いずれも、おおむね現行演目として伝承されている。従って段によっては、ひとつの段だけでも解説すべきことは多い。そこで本作については段ごとに原作の浄瑠璃にもとづく「あらすじ」と、その段についての「解説」に分け以下作品を紹介する。この項では、複数の段にわたるエピソードについて簡略に述べる。各エピソードの詳細及びここにあげないエピソードについては段ごとの「あらすじ」と「解説」を参照。塩冶判官高定は、足利尊氏の代参として鎌倉鶴岡八幡宮に参詣する足利直義の饗応役を命じられる。しかし塩冶判官は指南役の高師直から謂れのない侮辱を受け、それに耐えかねた判官は殿中で師直に切りつける。その結果、判官は切腹を命じられ塩冶家は取り潰しとなる(大序、二段目、三段目、四段目)。判官切腹の際に高師直を討てとの遺命を受けた家老の大星由良助は、浪士となった塩冶家の侍たちとともに師直への復讐を誓い、それを計画し実行する(四段目、十段目、十一段目)。この他に複数の段にわたるエピソードとして、早野勘平のエピソードと加古川本蔵のエピソードがある。塩冶家譜代の侍である早の勘平は、刃傷事件の際に腰元のおかると逢引をしていてその場に立ち会えず、おかるの故郷の山崎に、おかるとともに駆け落ちする(三段目)。おかるの父与市兵衛のもとで猟師として暮らす勘平は、山崎街道で猪と間違えて人を撃ち殺してしまう。勘平が撃ったのは、与市兵衛を殺して金を奪った斧定九郎であった。その金は与市兵衛が勘平の討入り参加の資金として、おかるを遊郭に売った金である。しかし暗闇の中で勘平は自分が殺したのが定九郎であることに気づかず、定九郎のふところの金を奪う(五段目)。与市兵衛の遺体が見つかり、義士の千崎弥五郎と原郷右衛門に与市兵衛を殺して金を奪ったと非難された勘平は切腹する(六段目)。一方、遊郭に売られたおかるは祇園一力茶屋で由良助と出会い、おかるの兄寺岡平右衛門は義士への参加が認められる(七段目)。加古川本蔵は塩冶判官とともに直義の饗応役を命じられた桃井若狭之助の家老である。本蔵の娘の小浪は由良助の息子の力弥とは刃傷事件の前に婚約していた。小浪と本蔵の妻戸無瀬は力弥を訪ねて東海道を歩いて京の山科に向かう(八段目)。小浪と戸無瀬のあとを追って山科に現れた本蔵は、刃傷事件の際に判官を抱き止めたことで師直は軽傷にとどまり、判官は切腹塩冶家はお取り潰しになったことを後悔しており、わざと力弥に討たれて師直館の絵図面を由良助に渡す(九段目)。『仮名手本忠臣蔵』は、以下の文章を以って始まる。嘉肴有りといへども食せざれば其の味はひをしらずとは。国治まってよき武士の忠も武勇もかくるゝに。たとへば星の昼見へず夜は乱れて顕はるゝ。例を爰に仮名書きの太平の代の。政…どんなにおいしいといわれるご馳走でも、実際に口にしなければそのおいしさはわからない。平和な世の中では立派な武士の忠義も武勇もこれと同じで、それらは話に聞くだけで実際に目にすることが無くなってしまうのである。だがそんな世の中でも、立派な忠義の武士は必ずいる。それはたとえば、星は昼には見えないが夜になれば空にたくさん現われるのと同じように、普段は見えなくても忠義の武士は、あるべきところには確かに存在するのだ。そんな武士たちの話をわかり易いように仮名書きにして、これから説明することにしよう…という大意で、要するにこれから「忠」も「武勇」も備わった「よき武士」である「赤穂浪士」たちのことについて語ろうということである。(鶴岡兜改めの段)時に暦応元年二月下旬のことである。将軍足利尊氏は南朝方の新田義貞を討ち滅ぼし、南北朝の動乱は収まりつつあった。鎌倉の鶴岡八幡宮では社殿の造替を済ませたので、尊氏の弟である左兵衛督直義が京から鎌倉へと下向し、今日は将軍尊氏の代参として鶴岡八幡へと参詣するところである。幕を張った馬場先にいる直義は大勢の供を従え、供の中には鎌倉在住の執事職高武蔵守師直、さらに直義の饗応役として桃井若狭之助安近と塩冶判官高定が任ぜられて控えている。皆の前には唐櫃がひとつ置かれていた。直義には鶴岡代参のほかに、いまひとつ尊氏に命じられたことがあり、それは討取った新田義貞着用の兜を探しだし、これを鶴岡八幡宮の宝蔵に納めることであった。その兜というのが後醍醐天皇から下賜されたものであり、また義貞が清和源氏の血筋であるのを誉れとしたことによる。しかし義貞が死んだとき、そのそばには四十七もの兜が散らばってどれが義貞の兜なのか判らず、とりあえずそれらの兜を集め、この唐櫃にまとめて入れていたのである。この中から義貞がかぶったという兜を探し出し、鶴岡八幡に納めなければならない。だが兜を納めようという直義に師直は「これは思ひ寄らざる御事」と口を挟み、清和源氏の血筋はいくらでもいる、そんな理由で義貞の兜をもったいぶって扱う必要はないという。これに桃井若狭之助が声をあげ、これは義貞軍の残党を懐柔し降参させようという将軍尊氏公の御計略であろう、「無用との御評議卒爾なり」と言おうとするのを師直はさえぎる。もしこの中から間違って義貞のものではない兜を選んでは後に大きな恥となることだ。「なま若輩ななりをしてお尋ねもなき評議、すっこんでお居やれ」と頭ごなしに怒鳴りつけた。これに目の色を変える若狭之助、それを察した塩冶判官が言葉を添え、直義の判断を仰ぐ。直義には兜の見極めについて考えがあった。かつて宮中に内侍として奉仕し、後醍醐天皇より義貞に兜が下賜されるのを目にしていたかほよ御前を、この場に呼び出したのである。かほよ御前は塩冶判官の妻である。かほよは唐櫃のなかからひとつの兜を取り出し、蘭奢待の香るこの兜こそ義貞着用のものに間違いないと差し出した。見極められた兜を直ちに宝蔵に納めようと、直義は塩冶判官と若狭之助を連れて社殿に向かいその場を離れた。するとかほよの美貌に以前より執着していた師直がかほよに言寄り、付け文を無理やり渡そうとする。困惑するかほよ。そこへ折りよく来合わせた若狭之助にかほよは助けられたが、邪魔されて怒り心頭に発した師直は若狭之助を散々に口汚く罵り、これに怒った若狭之助は師直へ刃傷に及ぼうとする。しかし直義が帰館のため、判官も含めた供の者を従えて通りかかるので、若狭之助は無念ながらもこの場では自重するのだった。⇒(二段目あらすじ)江戸時代、文芸や戯曲においてその時々に起こった事件をそのまま取り上げることは、幕府より禁じられていた。加賀騒動をはじめとするお家騒動を記した実録本なども出版を禁じられており、写本の形でのちにまで伝わっている。赤穂事件もある意味武家社会の醜聞ともいえる事件であり、これを取り上げることは幕政批判に通じかねないことから、人形浄瑠璃や歌舞伎の芝居においても、興行する側は相当の用心を以ってこの事件を脚色し、上演していた。それは本来の時代や人物の名前などを、違う時代や人物に置き換えて脚色することで抜け道としたのである。その時代や人物も「小栗判官」や「太平記」などさまざまだったが、この『仮名手本忠臣蔵』では近松の『碁盤太平記』に見られる設定や人物名、すなわち「太平記」の「世界」を借りている。それは直接には、『太平記』巻二十一「塩冶判官讒死の事」を題材としたものである。「塩冶判官讒死の事」のあらましは、高師直が塩冶判官高貞の妻の美しさを聞きつけこれに執心し、恋文を送るが判官の妻からは拒絶される。これに腹を立てた師直が将軍尊氏や直義に判官のことを讒言した結果、判官は謀叛の汚名を着せられ、最後は判官やその妻子も無残な死を遂げるというもので、この話をもとに『仮名手本忠臣蔵』は吉良義央を高師直、浅野長矩を塩冶判官に置き換え、師直が判官の妻に横恋慕したことを事件の発端としている。本作の師直は「人を見下す権柄眼」、義貞の兜の事についてもそれが将軍尊氏の「厳命」でありながら、「御旗下の大小名清和源氏はいくらも有る。奉納の義然るべからず」と口を挟んで憚らない。自らが仕える将軍家に対してでさえこうなのだから、自分より地位の低い者等に対しても傲慢な態度に出るのは当然である。それが若輩ながらもれっきとした大名である若狭之助を口汚く罵ったり、ほんらい人妻であるはずのかほよ御前に横恋慕してしつこく言い寄るという所業に表れている。そしてこの師直の傲慢さが悲劇を生み、それに多くの人が巻き込まれることになるのである。時代物の義太夫浄瑠璃の最初の段を「大序」(だいじょ)という。「大序」はたいていが内裏や寺社、または将軍の御所などといった重々しい場面で、そこに天皇や公卿、将軍や大名などの高位の人物が集まって話が始まる。人形浄瑠璃は古くは通しの上演が原則だったので、各作品が再演されるときには「大序」も上演されていたが、現行の文楽にまで絶えず伝承されてきたのは『仮名手本忠臣蔵』と、ほかには『菅原伝授手習鑑』の「大序」があるぐらいである。歌舞伎の義太夫狂言においても、人形浄瑠璃の作品が歌舞伎に移された当初は「大序」が上演されもしたが、そのほとんどが早くに廃滅した。歌舞伎の演目として絶えることなく伝承され、今日にまで上演され続けてきた「大序」は、『仮名手本忠臣蔵』が唯一といってよいものである。歌舞伎では必ず幕を開ける前に、「口上人形」と呼ばれる操り人形による「役人替名」(やくにんかえな)、すなわち配役を「相勤めまする役人替名…塩冶判官高定、○○○…」と読み上げることがある。これはもと歌舞伎の芝居では、芝居の最初の幕が開く前に下級の役者が幕の前に出て、裃姿で「役人替名」を読み上げることがあり、それを人形が演じる形で残したもので、この「役人替名」の読み上げが見られるのも現在では『仮名手本忠臣蔵』の大序だけである。天王立という鳴物で幕を開ける荘重な場面であり、東西声で幕を開けた後も、登場人物たちは人形身と称して下を向いて瞳を開かず、演技をしないで、竹本に役名を呼ばれてはじめて「人形に魂が入ったように」顔を上げ、役を勤めはじめる。六代目尾上梅幸はかほよ御前について、「この役は品格と色気で、品が七分に色気が三分というところでしょう。色気があるので、師直とのあんな事件が出来上がる」と述べている。これは七代目澤村宗十郎も、「顔世御前の役は、品格と色気とが大切」としている。原作の浄瑠璃では、かほよを助けたあと師直に悪口された若狭之助が、「刀の鯉口砕くる程」握り締め師直と一触即発のところ、直義が先払いの声とともに供を連れてその場に通りかかり、判官もその行列の「後押へ」すなわち最後のほうに加わってそのまま行過ぎる。これは文楽でも同様で、長柄の傘を差しかけられた直義が、判官や大名たちを従え舞台上手から下手へと通り過ぎるが、これを若狭之助が見送って立とうとすると師直が嫌がらせに袖でさえぎり「早えわ」という。この「早えわ」は、師直の人形遣いが言うのである。それで師直と若狭之助二人で幕となる。文楽の人形遣いが舞台上でせりふを言うのは珍しいことである。歌舞伎でもおおよそこの段取りであるが、幕切れは師直が二重舞台の石段、舞台下手側に勇んで刀を抜こうとする若狭之助、列から離れた判官が若狭之助を押しとどめるという『曽我の対面』の幕切れと同じ形式となる。また若狭之助が刀に手をかけ師直を斬ろうとすると、そこで直義の帰館を知らせる「還御」の声がかかり、師直と若狭之助ふたりだけで幕になることもある。現行の舞台では直義以下の人物が大銀杏のある八幡宮の境内にいて、その中で「兜改め」が行われるが、上のあらすじでも紹介したように原作の浄瑠璃の本文には「馬場先に幕打廻し。威儀を正して相詰むる」とあり、直義たちは参詣者が下馬するための「馬場」、すなわち境内の外の幕を張った場所にいる。要するに原作の本文に従えば、「兜改め」をする場所は八幡宮の境内ではないということである。これは「兜改め」が済んだあとで直義が判官と若狭之助を率いて兜を社に納めようとするときにも、「段かづらを過ぎ給へば」とある。「段かづら」は今も鶴岡八幡宮の鳥居前に残る参道である(段葛の項参照)。『仮名手本忠臣蔵』の歌舞伎における上演では、原作の浄瑠璃とは違った内容が見られる。これは大筋では違いは無いものの、脚本や演出などに各時代の役者たちの工夫が入れられるなどしたことにより、それが歌舞伎における型(演技・演出等)となって残り、芝居の演出やせりふなどが原作の浄瑠璃のものとは相違するようになったのである。さらに東京(江戸)と上方においても、同じ段の同じ場面で型に相違がある。そうした原作、東京、上方、また文楽における型の違いについても以下触れることにする。(力弥使者の段)足利直義が鶴岡八幡に参詣した翌日のこと。時刻もたそがれ時、桃井若狭之助の館ではあるじ若狭之助が師直から辱めをうけたと使用人らが噂している。若狭之助の家老加古川本蔵はそれを聞きとがめる。そこへ本蔵の妻戸無瀬と娘の小浪も出てきて、若狭之助の奥方までもこの噂を聞き案じていると心配するので、本蔵は「それほどのお返事、なぜとりつくろうて申し上げぬ」と叱り、奥方様を御安心させようと奥に入る。塩冶判官の家臣大星由良助の子息である大星力弥が、明日の登城時刻を伝える使者として館を訪れる。いいなづけの力弥に恋心を抱く小浪は本蔵や戸無瀬が気を効かせ、口上の受取役となるがぼうっとみとれてしまい返事もできない。そこへ主君若狭之助が現れ口上を受け取り、力弥は役目を終えて帰った。(松切りの段)再び現れた本蔵は娘を去らせ、主君に師直の一件を尋ねる。若狭之助は腹の虫がおさまらず師直を討つつもりだと明かす。ところが本蔵は止めるどころか、若狭之助の刀をいきなり取って庭先に降り、その刀で松の片枝を切り捨て「まずこの通りに、さっぱりと遊ばせ」と挑発する。喜んだ若狭之助は奥に入る。見送った本蔵は「家来ども馬引け」と叫び、驚く妻や娘を尻目に馬に乗って一散にどこかへ去っていく。⇒(三段目あらすじ)桃井若狭之助安近は、その若さもあって気の短いお殿様である。その気短なお殿様が師直のような人間に、大名たちが居並ぶ公の場で「すっこんでろこのバカ!」などのように罵倒されては収まらない。そんな若狭之助には加古川本蔵という「年も五十の分別盛り」の家老が仕えていたが、その「分別盛り」であるはずの男が後先の考え無しに師直を斬ってしまえばよいと、無分別なことを主君に勧めて憚らない。まして家老という重い立場であれば、必死になって諌めるのが筋である。さらに本蔵はその話のすぐ後に、馬に乗ってどこかへ駆け出してゆく。「分別盛り」の男が血気にはやる主君を諌めもせず、大急ぎでどこへ行くつもりなのか。その答えは、このあとの三段目で明らかになるのである。この段で、実説の大石内蔵助に当たる大星由良助の名がはじめて出てくる。その息子の力弥というのも実説の大石主税のことである。ただし由良助が姿を現すのは四段目になってからである。なお歌舞伎の二段目については台本が二種類あり、ひとつは上のあらすじで紹介した原作の浄瑠璃にもとづくものだが、もうひとつこれを書き替えた「建長寺の場」というものがあり、これを「二段目」として上演することがある。これは七代目市川團十郎が初演し、その台本が上方の中村宗十郎に伝わったものだという。内容は、大序の鶴岡八幡で師直に罵られた翌日の夜、若狭之助が鎌倉建長寺に仏参ののち寺の書院で休息している。そこへ若狭之助を迎えに来た本蔵が、床の間の掛け軸に記されている文字をめぐって若狭之助とやりとりをし、その中で師直を斬るという若狭之助をやはり本蔵が諌めることなく、松の枝を切ってそれを勧めるというものである。ただしこの「建長寺」では舞台面が室内をあらわす平舞台の大道具なので、松を切るくだりでは床の間にある盆栽の松を切ることになっている。また七代目團十郎がはじめてこの「建長寺」を演じたときには、まず建長寺の住職となって若狭之助との禅問答があり、そのあと本蔵に替わって出たという。しかしいずれにしても現行の歌舞伎では、この二段目は通し上演の際にも省略しほとんど上演されることがない。(進物の段)新築の御殿に直義が逗留し、大名などはじめとして多くの名ある武士が直義饗応のため礼服に身を整えて詰めている。時刻も正七つの夜明け前でまだ辺りは暗い。そこへ館の門前に師直が烏帽子大紋の姿で、家来の鷺坂伴内に先払いをさせながら到着する。師直はあのかほよ御前のことをなおも執着し、どうやって物にしようかなどと伴内と話しているところに、若狭之助の家来加古川本蔵が師直に直接会いたいとこの場に来ているとの知らせが来る。さては若狭之助がその本蔵を遣わして、昨日の鶴岡での遺恨を晴らすつもりだな…ここへ呼び寄せやっつけてやろう。そう考えた師直は、伴内とともに刀の目釘をしめして本蔵を待ち構えた。ところが師直の前に出た本蔵は、意外な行動に出る。本蔵は師直の前をはるか退ってうづくまり、このたび将軍尊氏公より直義公饗応という名誉の役目を主人若狭之助は仰せ付けられ、本来若輩の若狭之助が首尾よく勤められるのも、みな師直様のお取り成しによる、そこでそのお礼として進物を差し上げたいと、師直の目前に黄金や反物など多くの進物を並べたのである。本蔵が仕返しに来たと思っていた師直と伴内、このありさまに拍子抜けして顔を見合わせた。「…これはこれは痛みいったる仕合せ」と師直は言葉を改め、本蔵からの進物を取り収め若狭之助のことについて誉めだした。手の裏を返したこの師直の態度に、本蔵はしてやったりと内心喜ぶ。そして師直に挨拶して場を立とうとしたが、機嫌をよくした師直が殿中の様子をみてゆくがよいと熱心に勧めるので、それではと本蔵は、師直のあとについて門内へとは入るのだった。(どじょうぶみの段)程もなく、供を連れた塩冶判官が到着するが若狭之助がすでに出仕していると聞き、「遅なわりし残念」と譜代の家来早の勘平ひとりを連れ、殿中へと急ぎ行く。かほよ御前に仕える腰元のおかるは、かほよから師直あての文の入った文箱を持って門前まで来る。その恋人の勘平がふたたび門前あたりに来たのを見たおかるは、勘平を呼び止めた。勘平は文箱を主人塩冶判官の手から師直様へ渡すようにしようというところ、判官が勘平を呼んでいるとの声に勘平は文箱を持って館の内へと入った。すると入れ違いに伴内が現われる。いまの勘平を呼ぶ声は伴内のしわざであった。おかるに岡惚れする伴内は、恋敵の勘平がいないのを幸いにおかるにしなだれかかり口説くが、そこへ奴たちが来て「伴内様師直様の急ぎ御用」というので、仕方なく伴内は奴たちとともに立ち去った。そこへまた勘平が出てくる。いまの奴たちは、勘平が頼んでわざと伴内を呼びにやらせたのである。二人きりとなった恋人どうし、手に手をとって逢引のためその場を立ち退く。(館騒動の段)御殿では饗応のための能が催されるなか、若狭之助は「おのれ師直真っ二つ…」と、差した刀を握り締め師直を待ち構えていた。師直が、伴内をともないそこへ来た。だが師直主従は若狭之助の姿を遠くから認めると、「貴殿に言い訳いたし、お詫び申す事がある」と刀を投げ出して鶴岡でのことを詫びる。「その時はどうやらした詞の間違いでつい申した…武士がこれ手を下げる」と師直は、伴内もともに若狭之助に対して幾度も詫びた。これが最前本蔵による進物のせいだとは知らぬ若狭之助、この師直のあまりの態度の変わりように拍子抜けし、また呆れて刀には手を掛けていたものの、抜くにも抜かれず困ってしまう。近くの物陰に隠れる本蔵は、あるじ若狭之助の様子をはらはらしながら見守っている。師直主従はさらに若狭之助に追従を重ね、若狭之助は戸惑いながらも、伴内に連れられて奥の間へとは入るのだった。本蔵も無事に済んだことにほっとして、いったん次の間へと下がる。あとには師直一人が残る。そこに塩冶判官が長廊下を通ってやって来た。判官を見た師直は「遅し遅し。何と心得てござる。今日は正七つ時と、先刻から申し渡したではないか」という。本蔵から賄賂を受け取りはしたものの、本来なら若僧と馬鹿にする若狭之助に頭を下げ、追従を並べたことが師直にとっては内心面白くなく、機嫌を損ねていた。しかし判官が「遅なわりしは不調法」と謝りつつ、勘平を通して届けられたかほよ御前からの文箱を取り出し師直に渡すと、師直はまたもがらりと様子を変え、執心するかほよの文が来たことに機嫌を直す。師直は文箱を開けて中身を改めた。…だがその内容は、師直の期待を大きく裏切るものだった。かほよの文には次の和歌が記されている。これは『新古今和歌集』にある古歌であり、要するに塩冶判官というれっきとした夫(つま)を持つ自分への求愛はお断りしますという返事であった。この恋の不首尾に、師直の怒りは収まらない。そしてこの怒りは、いま目前にする判官にぶつけられた。さてはこの夫の判官にも自分のことを打ち明けているのだろう…そんな勘繰りをしながら、判官の出仕が遅れたのは、奥方のかほよにへばりついていたからだろうとか、または判官のことを井戸にいる鮒に譬えるなどの悪口を、判官に向って散々に浴びせる。あまりのことに判官もついに堪忍袋の緒が切れた。「こりゃこなた狂気めさったか。イヤ気が違うたか師直」「シャこいつ、武士を捕らえて気違いとは、出頭第一の高師直」「ムムすりゃ今の悪言は本性よな」「くどいくどい、本性なりゃどうする」「オオこうする」と判官は、刀を抜いて師直へ斬りつけた。判官が抜いた刀は師直の眉間を切る。なおも斬り付けようとする判官、だが次の間に控えていた本蔵がこれに気付き、判官を抱きかかえて止める。師直はその場を逃げ出し、騒ぎを聞きつけた大名たちも駆けつけ判官は取り押さえられ、館の内は上を下への大騒ぎとなった。(裏門の段)館は判官の刃傷により、表門裏門ともに閉められた。腰元のおかると情事の最中だった勘平は館で騒動が起こったことを知り、慌てて館の裏門へと駆けつけたが、聞けばあるじの判官が師直と喧嘩となって刃傷に及んだことにより、閉門を命じられ罪人の乗る網乗物で自らの屋敷に送られたという。主家が閉門となったからには戻ることも出来ない。色事にふけって大事の主君の変事に居合わせなかったとは武士にあるまじき事…もはやこれまでと勘平は刀に手をかけ切腹しようとした。だがおかるがそれを止め、こうなったのも自分のせい、ひとまず自分の実家に来て欲しいといって泣き沈む。勘平は、いまは本国に帰っている家老の大星由良助が戻るのを待ってお詫びしようと、おかるのいうことを聞いてこの場を立ち退くことにした。すると、鷺坂伴内が手下を率いて勘平を捕らえに現われた。勘平は「ヤアよい所に鷺坂伴内、おのれ一羽で喰いたらねど、勘平が腕の細葱、料理塩梅食うて見よ」と、手下どもをやっつける。伴内も勘平に斬りかかるが、首をつかまれ投げ飛ばされた。勘平は伴内を斬り殺そうとするが、おかるが「そいつ殺すとお詫びの邪魔、もうよいわいな」と留めるのを、伴内は隙を見て逃げてゆく。もはや夜明け、明け六つの空が白む中、おかると勘平はこの場を落ちてゆくのであった。⇒(四段目あらすじ)二段目の最後で本蔵は馬で駆け出していったが、その理由がこの三段目で明らかとなる。すなわち機転を利かせて師直に賄賂を贈り、事を収めようとしたのである。この賄賂は功を奏し、若狭助は師直を斬る覚悟をするが師直が平謝りに謝るので拍子抜けし、結局斬ることができなかった。なお本蔵が二段目で若狭之助との話の最後に、若狭之助の刀をいきなりとって庭に降り、松の木の枝を切るが八代目坂東三津五郎によれば、これは松を切ることでそのヤニを刃に付け、それで再び刀を抜こうとしても抜きにくくしたのだという。 「進物場」は現行の文楽と歌舞伎では師直は出ず、伴内の傍らにある駕籠に乗っていることになっている。歌舞伎では伴内が、本蔵が主の師直へ仕返しに来るのだろうと思い、「エヘンバッサリ」などといいながら中間たちと本蔵を討つ稽古をする。それが仕返しではなかったと知れた後のおかしみなど、伴内を演じる役者の腕の見せ所である。そのあとかほよから師直に宛てた文箱を、腰元のおかるが持ちやってくる。おかるをめぐって早の勘平と伴内とのやり取りがあり、伴内を追い払うと勘平とおかるの逢引となるが、この勘平とおかるの軽率さがのちの六段目の悲劇への伏線となっていき、勘平の「色に耽ったばっかりに」の悲痛な後悔の台詞に繋がってゆく。筋としては重要な場面だが、現行の歌舞伎では上演時間の都合により省略され、ほとんど演じられることがない。このあたりの件りを「どじょうぶみ」というのは、伴内がおかるの前に現われるとき「鰌踏む足付き鷺坂伴内」という浄瑠璃の文句があることによる。また勘平の名について「早野勘平」とすることが多いが、原作の浄瑠璃では「早の勘平」としている。「館騒動」は通称「喧嘩場」とも言い、この場面がいわゆる「刃傷松の廊下」にあたる。原作の浄瑠璃では若狭之助が奥へ入ったあと、「程も有らさず塩冶判官、御前へ通る長廊下」と塩冶判官が現われ、そこで師直に呼び止められる。「長廊下」というのが史実の「松の廊下」を思わせるが、歌舞伎では「足利館松の間の場」と称し、大きな松が描かれた大広間の大道具となっている。また大筋では変わらぬものの、原作の浄瑠璃とは段取りやせりふが歌舞伎では変わっている。東京(江戸)式でそのおおよその段取りを述べると以下のようである。上方の型では若狭之助が師直を斬るのをあきらめて立ち去ろうとするとき、「昨日鶴岡において拙者への悪口雑言、そのとき斬り捨てんと思えども…」とやや長めのせりふを言い、最後に「馬鹿な侍だ」と言い捨てて引っ込む。十三代目片岡仁左衛門はこれを「大阪式」と称している。また上でも述べたように原作では判官がかほよからの文箱を師直に直接渡すが、東京式では判官の役が安く見えるとして、茶坊主が出てその場に届けることになっている。上方では原作通りに判官が文箱を持ち、花道から出てくる段取りである。 師直が判官を罵るとき、「判官の出仕が遅れたのは、奥方のかほよにへばりついていたからだろう」と言うが、内山美樹子は判官のモデルである浅野内匠頭が女色を好み、昼夜の別なく女と居て戯れていたという『土芥寇讎記』の記事を引き、こうした風聞を踏まえた上で判官をこのように罵らせたのではないかと指摘している。この段の師直は原作の浄瑠璃の本文にもあるように、本来は烏帽子大紋の姿であったが、歌舞伎では大紋の長袖では判官にからみにくいという理由で、現行のような着付けに長袴だけの姿となっている。ただし若狭助が引っ込んだ後、判官登場までの間に師直が舞台上に出した姿見で茶坊主や伴内たちに手伝わせ、長袴だけの姿から烏帽子大紋に着替えるという演出があった。これは「姿見の師直」と呼ばれ、三代目尾上菊五郎が創作した型だといわれるが、じつは三代目中村歌右衛門が始めたものである。師直が通りかかる大名たちに挨拶を交わしながら烏帽子大紋に着替え、のちに判官にからむくだりで烏帽子と大紋の上を取るというものだが、明治以降は五代目菊五郎と六代目菊五郎、その弟子の二代目尾上松緑が演じたくらいで、今日では全く廃れている。しかし歌舞伎における現行の師直の姿は、この「姿見の師直」の着替える前の姿がもとになっているのである。「裏門」は「どじょうぶみ」のくだりと同様、現行の歌舞伎ではほとんど上演されることがなく、この「裏門」の代わりとして『道行旅路の花聟』がもっぱら上演されている。これは『仮名手本忠臣蔵』の元々の内容ではないが、現行の歌舞伎の通し上演では一体化して上演されている。 清元節を使った所作事で、天保4年(1883年)3月、江戸河原崎座で初演された。このときは『仮名手本忠臣蔵』を「表」すなわち本来の幕とし、その「裏」として段ごとに新たな幕を加えるという「裏表」の趣向で演じられたもので、この『道行旅路の花聟』は三段目の「裏」として出された所作事である。三升屋二三治の作。その語り出しが「落人も、見るかや野辺に若草の」と始まるところから、通称『落人』(おちうど)という。ただしこの語り出しは、じつは菅専助・若竹笛躬合作の浄瑠璃『けいせい恋飛脚』(安永2年〈1773年〉初演)からの焼き直しである。内容はおかる勘平が駆け落ちを決意し、おかるの故郷山城国の山崎へと目指す途中、そのあとを追いかけてきた鷺坂伴内が二人にからむというものだが、その詞章は三段目の「裏門」から多くを拝借しており、「裏門」を書替えた所作事といえる。初演の役割は勘平が五代目市川海老蔵、おかるが三代目尾上菊五郎、伴内が尾上梅五郎。以来人気演目として、今日に至るも盛んに上演されている。楽しく色彩豊かな所作事で、さわやかな清元を聞きながら、軽やかで華やかな気分を味わう演目。せりふには地口も盛り込まれており、特に東京でよく出る。舞踊の定番の演目でもある。なおこの所作事は、上で述べたように本来ならば三段目のあとに出すべきものであるが、戦後の昼夜二部制の興行では四段目の後に演じられている。つまり『落人』で昼の部を終り、五段目からを夜の部にする構成である。『道行旅路の花聟』が初演されたときに同じく三段目の「裏」として出されたのが、通称『蜂の巣の平右衛門』である。ただし近年では上演を見ない。内容は、塩冶家の足軽寺岡平右衛門が鎌倉から国許へ書状を届ける途中、近江の鳥本宿の茶店に立ち寄り休む。そこで巣にいた蜂がよそから来た蜂と争うのを見るなどして胸騒ぎを覚え、鎌倉へ引き返そうとするが、蜂の争いとは塩冶判官が師直へ刃傷に及ぶ兆しであったというもの。これも三升屋二三治の作であった。平右衛門は五代目海老蔵で、海老蔵はこの平右衛門を『道行旅路の花聟』の前に演じ、次に勘平へと早替りして出た。『蜂の巣の平右衛門』は『日本戯曲全集』第十五巻に台本が収録されているが、「四段目裏」となっている。(花籠の段)扇が谷にある塩冶判官の上屋敷は、あるじの判官が閉門を命じられたことにより大竹で以って門を閉じ、家中の者たちも出入りを厳重に禁じられていた。そうして蟄居している判官に、妻のかほよ御前は夫の心を慰めようと、八重桜を籠に生けて判官へ献上しようとするところに、諸士頭の原郷右衛門と家老の斧九太夫が参上する。郷右衛門によれば本日上使が館に来るとの知らせ、閉門を赦すという御上使であろうと郷右衛門はいうが、九太夫はそうではあるまいと打ち消し、師直に賄賂でも贈っておけばよかったなどという。これに郷右衛門は腹を立て九太夫と言い争いとなるのをかほよがなだめ、事の起こりはこのかほよから、あの「さなきだに」の和歌を師直に送らなければこんなことには…と嘆くのであった。そこへ「御上使のお出で」という声がするので、かほよをはじめとして人々は座を改め、上使を迎える。(判官切腹の段)足利館から石堂右馬之丞、薬師寺次郎左衛門が上使として来訪した。情け深い石堂に比べ、師直とは親しい間柄の薬師寺は意地が悪い。一間より判官が出てきて上使に応対する。判官は切腹、その領地も没収との上意を申し渡される。これには同席していたかほよはもとより、家中の者たちも驚き顔を見合わせるが、判官はかねてより覚悟していたのかその言葉に動ずる気色も無く、「委細承知仕る」と述べた。そして着ているものを脱ぐと、その下からは白の着付けに水裃の死装束があらわれる。判官はこの場で切腹するつもりだったのである。だがせめて家老の大星由良助が国許から戻るまでは、ほかの家臣たちにも目通りすまい…と待つが、なかなか現れない。判官は力弥に尋ねた。「力弥、力弥、由良助は」「いまだ参上仕りませぬ」「…エエ存命に対面せで残念、残り多やな。是非に及ばぬこれまで」と、遂に刀を腹に突き立て、近くにいたかほよがそのさまを正視できず目に涙して念仏を唱える。そのとき大星由良助が国許より駆けつけ、後に続いて一家中の武士たちが駆け入った。「ヤレ由良助待ち兼ねたわやい」「ハア御存生の御尊顔を拝し、身にとって何ほどか」「オオ我も満足…定めて仔細聞いたであろ。エエ無念、口惜しいわやい」…と判官は刀を引き回し、薄れゆく意識の中で最後の力を振り絞り、「この九寸五分は汝へ形見。我が鬱憤を晴らさせよ」とのどをかき切って事切れた。由良助はその刀を主君の形見として押し頂き、無念の涙をはらはらと流すのだった。だがこれで判官の、余の仇を討てとの命が伝わったのである。石堂は由良助に慰めの言葉をかけ、薬師寺とともに奥へ入った。上使の目を憚っていたかほよ御前はそれを見て、とうとうこらえきれず「武士の身ほど悲しい物のあるべきか」と判官のなきがらに抱きつき、前後不覚に泣き崩れるのだった。判官の遺骸は塩冶家菩提所の光明寺へと埋葬するため、駕籠に乗せられるとかほよも嘆きつつそれに付き添い館を出て、光明寺へと急ぐ。(評定の段)そのあと、一家中で今後のことについての会議をすることになった。由良助は家老斧九太夫と金の分配のことで対立し、九太夫はせがれの定九郎とともに立ち去る。ここで由良助は、残った原郷右衛門、千崎弥五郎ら家臣たちに主君の命を伝え、仇討のためにしばらく時節を待つように話す。やがて明け渡しの時が来る。由良助たちは「先祖代々、我々も代々、昼夜詰めたる館のうち」も、もう今日で見納めかと名残惜しげに館を出る。(城明け渡しの段)表門の前では屋敷明け渡しに反対する力弥ら若侍たちが険悪な雰囲気で立ち騒いでいる。そこへ出てきた由良助は判官が切腹に使った刀を見せ、師直に返報しこの刀でその首をかき切ろうと説得するので、人々は「げにもっとも」とその言葉に従う。だが屋敷の内には薬師寺が、「師直公の罰があたり、さてよいざま」というとどっと笑い声が起こる。その悔しさに屋敷内へと駆け込もうとする諸士を由良助はとどめ、「先君の御憤り晴らさんと思ふ所存はないか」というので皆は無念の思いを抱きつつも、この場を立ち去るのであった。⇒(五段目あらすじ)原作の浄瑠璃では最初にかほよ御前が花を誂える「花籠の段」があり、切腹の前のほっと心の安らぐ場面といえるが、歌舞伎では「花献上」とも呼ばれるこの場面は通常省略される。ここに諸士頭の原郷右衛門と家老の斧九太夫が来て、九太夫は師直に賄賂を贈っておけばよかったなどという。この斧九太夫のモデルとなったのは赤穂藩家老の大野九郎兵衛で、判官切腹後の「評定」においても、亡君のあだ討ちより自分も含めた家中の諸士に金を配り、すみやかに屋敷を明け渡そうというなど、後の「忠臣蔵」の物語に見られる大野九郎兵衛のイメージがすでに描かれているといえよう。なお原作の浄瑠璃では、このあと五段目に出てくる九太夫のせがれ斧定九郎も「評定」に同席しているが、現行の舞台では出てこない。また現行の文楽では「評定」はふつう省略される。この四段目は異名を「通さん場」ともいう。その名の通り、この段のみ上演開始以後は客席への出入りを禁じ、遅刻してきても途中入場は許されない。出方からの弁当なども入れない。塩冶判官切腹という厳粛な場面があるためである。成句「遅かりし由良之助」のもとになった大星由良助はここで初めて登場する。原作の浄瑠璃では「花籠」からそのまま同じ場面で判官が切腹するように書かれているが、歌舞伎では「花献上」と「判官切腹」とは場面を分け、いったんかほよ以下の人物たちが引っ込むと襖や欄間などを「田楽返し」の手法で変え、「判官切腹」の場になった。またかほよ御前は原作では「花籠」からそのまま上使を出迎え、判官の切腹にも嘆きつつ立ち会う。そして判官が事切れそのなきがらが駕籠に乗せられると、それに付き添って館を出ることになっているが、現行の歌舞伎では上使の石堂と薬師寺が引っ込んだあと、葬礼を表す白無垢の衣類に切髪の姿ではじめて舞台に現われ、由良助に向って「推量してたもいのう」などと嘆きつつ声を掛け、そのあと焼香などあって駕籠に付き添い引っ込むという段取りとなっている。七代目尾上梅幸によれば、古くは塩冶判官役の役者は駕籠に乗せられて引っ込むと、そのまま駕籠を降りずに担がれて自宅に帰ったという。「城明け渡し」では、原作の浄瑠璃では由良助は家中の侍たちとともに門前を立ち去るが、現行の歌舞伎では由良助は力弥を含めた諸士を説得しその場を去らせた後、一人残って紫の袱紗から主君の切腹した短刀を取りだし、切っ先についた血をなめて復讐を誓う。この場の侍たちは由良助の説得に「でも」と揃って言葉を返そうとするところから、「デモ侍」と俗称される。現行の文楽においては「デモ侍」は登場せず、歌舞伎と同じく由良助ひとりだけで立ち去る。由良助が門前から立ち去るべく歩み始めると、表門が遠ざかってゆく。実際には表門の大道具を次第に舞台奥へと引いてゆくのであるが、上方の型では1枚の板に門を描いた大道具で、それが上半分が折れてかえすと小さく描かれた門になる「アオリ」を用い、どんどん門が遠ざかってゆく様を表す。もっとも六代目尾上梅幸によれば、表門を奥へと引くようになったのは九代目市川團十郎が由良助を演じた時に始めたことで、それまでは東京(江戸)でも上方式の「アオリ」だったという。歌舞伎では釣鐘の音、烏の声に見送られ(これは舞台裏で烏笛という笛を吹く)、由良助は花道の七三のあたりで座って門に向かい両手を突くのが柝の頭、そのあと柝無しで幕を引く(上方は柝を打つ)。幕外、懐紙で涙をふき鼻をかみ、力なく立ちあがって、下手から登場した長唄三味線の送り三重によって花道を引っ込む。この「城明け渡し」の表門には、太い青竹2本を門の扉に筋違いに打ちつけて出入りさせない様を見せることがあるが、これは上方の型と文楽で見られるものであり、東京の舞台ではこの青竹は江戸の昔から用いられない。閉門となった武家の表門には、実際に上記のごとく青竹を打ちつけた。江戸では旗本のほか諸藩の武士も多く集まるところから、それら武士の目に遠慮して「青竹」を見せなかったという。それは、たとえ芝居の上の絵空事であろうとも閉門を意味するこの「青竹」は、大名旗本に仕える武士にとっては目にしたくないものだったからだといわれている。大坂あたりでは町人が中心の都市だったので、これをさして気にもせず舞台で見せていたようである。当時お家(大名家)がお取り潰しになるということは、現代の大企業が倒産するといった以上の衝撃を世間に与えていたのであり、そのお取り潰しとなる様子を脚色して見せたのが『忠臣蔵』だったのである。(鉄砲渡しの段)鎌倉より駆け落ちしたおかると勘平は、山城国山崎のおかるの実家にたどり着き、ふたりは夫婦となって暮らしていた。勘平は身過ぎとして猟師になり、この山崎のあたりで鹿や猿などを鉄砲でしとめ、今日も山中に獲物を求めて歩いている。そこへ六月(旧暦)の夕立に出くわし、あまりの雨の勢いの強さに松の木の下で雨宿りをする。だが雨はなかなか止まず、すでに日は暮れ夜になっていた。うかつにも商売道具である火縄銃の火が、雨で消えてしまった。そこに運よく提灯を持ち合羽を着た男が通りがかるではないか。勘平はその提灯の火を分けてもらおうと、「イヤ申し申し。卒爾ながら火を一つ」とその男に近寄る。しかし男は鉄砲を所持している勘平を山賊だと思い込み身構え、「びくと動かば一討ち」と勘平を睨みつける。勘平は、こういう場所では盗賊と間違われるのも無理はないと思い、「鉄砲それへお渡し申す。自身に火を付けお貸し…」と言ったところで男が勘平の顔を見て、「早の勘平ならずや」と声を掛けた。なんと二人は顔見知り、この男はかつての塩冶判官の家臣、千崎弥五郎だったのである。勘平は思いがけない朋輩との再会に驚き、しばしうつむいて言葉もなかった。お家の大事に有り合せる事ができず、こうして時節を待って主君判官にお詫びしようと思いのほか、ご切腹となってしまった。それというのもみな師直のせいとは聞いたが、どうすればその返報ができるだろうかと考えていたところ、仇討ちの謀議があるとの噂を聞いたので、ぜひともその連判状に加えてくれと勘平は千崎に頼む。千崎はそんな勘平の様子を見て不憫とは思ったが、かつての朋輩といえども仇討ちの大事を軽々しく口にはできぬと思い、「コレサコレサ勘平、はてさて、お手前は身の言い訳に取りまぜて、御企ての、連判などとは何のたはごと」とわざととぼけ、亡君の石碑建立の御用金を集めている…合点かと謎を掛ける。すなわち仇討ちのための資金を集めているということである。勘平はそれを飲み込み、その金を用立てると約束して今の住いを教える。千崎も承知し両名は別れた。(二つ玉の段)二人が別れて去ったあとまた雨の降りだす夜道を、杖をついて老人がやってきた。そこへもうひとり、「オオイ親父殿、待って下され」の声とともに怪しげな男が追いかけてくる。男は斧九太夫の息子の定九郎、親に勘当されて今では薄汚い盗賊である。「さっきにから呼ぶ声が、きさまの耳へは入らぬか…こなたの懐に金なら四五十両のかさ、縞の財布に有るのを、とっくりと見付けて来たのじゃ。貸してくだされ」と定九郎は老人の懐から無理やり財布を引き出す。それを抵抗する老人に「エエ聞きわけのない。むごい料理するがいやさに、手ぬるう言えば付き上がる。サアその金をここへまき出せ。遅いとたった一討ち」と無残に斬りつけ、老人が自分の娘の婿のために要る金、お助けなされて下さりませと必死に頼むのも取り合うことなく、定九郎はむごたらしく老人を殺した。そしてその財布を奪い、中身が五十両あるのを確かめて「かたじけなし」と財布の紐を首に掛け、老人の死骸を近くの谷底に蹴り落とした。だがそのうしろより、逸散に来る手負いの猪。定九郎はあやうくぶつかりそうになるのをよけ、猪を見送る。その瞬間、定九郎の体を二つ玉の弾丸が貫く。悲鳴を上げる暇もなく、定九郎はその場に倒れ絶命した。定九郎が倒れている場所に、猪を狙って鉄砲を撃った勘平がやってくる。猪を射止めたと思う勘平は闇の中を、猪と思しきものに近づきそれに触った。猪ではない。「ヤアヤアこりゃ人じゃ南無三宝」と慌てるが、まだ息があるかもと定九郎の体を抱え起こすと、さきほど定九郎が老人より奪った財布が手に触れた。掴んでみれば五十両。自分が求める金が手に入った。「天の与えと押し戴き、猪より先へ逸散に、飛ぶがごとくに急ぎける」。⇒(六段目あらすじ)ここから、場面は京に程近い街道筋へと変わる。この五段目の舞台となるのは「山崎街道」であるが、山崎街道とは西国街道を京都側から見たときの呼び名であり、西国街道とは山陽道のことである。山崎の周辺は、古くから交通の要衝として知られ、「天下分け目の天王山」で名高い山崎の戦いなど、幾多の合戦の場にもなってきた。この段の舞台は横山峠、すなわち現在の京都府長岡京市友岡二丁目の周辺であり、大山崎町ではない。ところで、この五段目の定九郎に惨殺される老人とは何者か。後の解説に差し障るので先に白状すると、これはおかるの父与市兵衛である。その与市兵衛が雨の降る暗い中を、五十両という大金を持って道を急いでいるのはなぜか。その仔細は六段目で明らかになる。五段目とこのあと続く六段目の勘平の型は三代目尾上菊五郎が演じたものを濫觴としており、これを五代目菊五郎が受け継ぎ、さらにその息子の六代目菊五郎が演じて完成させたもので、現行の東京式ではこれ以外の勘平の型はない。五代目尾上菊五郎は九代目市川團十郎とともに「團菊」とならび称された名優である。「鉄砲渡し」は上方では「濡れ合羽」ともいう。千崎弥五郎は東京の型では蓑を着ているが、上方では合羽を着ているからである。時は旧暦の「六月二十九日」(現在の真夏、7月~8月)の深夜。この日が「六月二十九日」だったというのは、のちの七段目に出てくる。旧暦(太陰太陽暦)の「二十九日」は月の出ない暗闇である。天候は強烈に打ちつける雨が降っている(舞台構成上、これは強調されていない)。幕が開いて最初は勘平が笠で顔を隠し、時の鐘で笠をどけて顔を出す。まっ暗闇の舞台に勘平の白い顔が浮かび上がる優れた演出である。「二つ玉」のくだりについては、現行の歌舞伎においては上で紹介した原作のあらすじからはかなり違った内容となっている。大きく異なるのは定九郎と与市兵衛にかかわる部分で、東京(江戸)での型、いまひとつは上方に残る型の二つがある。三人の人物が出てくるが、まずは現行の東京式の段取りを紹介すると次のようになる。上方歌舞伎の演出はこれとはまた違っている。与市兵衛が現れて稲掛けの前にしゃがみこんだところ、突如二本の手が現れ、与市兵衛の足元をつかむ。定九郎の手である。そのまま引き込んで、与市兵衛を刺し殺す。定九郎は、やはり与市兵衛を殺すまで一言も発しない。また定九郎のなりは山賊そのもののぼろの衣装である。通常この役は端役として大部屋役者に割り当てられる。二代目實川延若は勘平、与市兵衛、定九郎三役早替りの演出を行っていた。この型は三代目實川延若を経て今日では四代目坂田藤十郎に伝わっている。上方歌舞伎らしい見せ場の多いやりかたである。初代中村仲蔵はこの定九郎の人物設定そのものを変え、二枚目風の役にした。五段目の定九郎はもとはどてら姿のいかにも山賊らしい拵えだったのが、仲蔵は黒羽二重の着付け、月代の伸びた頭に顔も手足も白塗りにして破れ傘を持つという拵えにしたのである。そもそも定九郎は、勘当される前は家老の息子である。この仲蔵がはじめた拵えは大評判となり、以後ほかの役者もこの姿で演じ、定九郎は若手人気役者の役ともなった。また仲蔵自身も、門閥外だったにもかかわらず大きく出世する節目となる役であった。この仲蔵の創案した拵えは「仲蔵型」と呼ばれ、文楽にも逆輸入され演じられている。ただし仲蔵はその扮装を大きく変えはしたものの、実際にはおおむね上で紹介した原作の内容通りに演じたようである。定九郎が現在のように稲掛けから現れるようになったのは、四代目市川團蔵が定九郎と与市兵衛を早替りでやったときの型が伝わったもので、稲掛けの中で与市兵衛から定九郎へと早替りして出た。この早替りでの段取りを、定九郎と与市兵衛を別々の役者で演じても使うようになったのである。また『仮名手本忠臣蔵』を演じた役者たちの評を集めた『古今いろは評林』(天明5年〈1785年〉刊)には仲蔵の定九郎について、「仲蔵二度目あたりより黒羽二重の古き着物に成り、やぶれ傘さして出るなど仕はじめたり」とある。仲蔵がはじめて定九郎を演じたとき、今のような黒地の着物だったかどうか定かではなく、傘も持っていなかったらしいことが伺える。仲蔵は定九郎を生涯に八度演じたが、そのなかで回を重ねるごとに拵えなどを工夫し「仲蔵型」を作り上げたと見られ、それがのちの役者たちに受け継がれている。この定九郎に九代目團十郎は、さらに多くの演出変更を行なった。その一つが金を数える定九郎の科白である。「五十両、かたじけない」というせりふだったのを、「かたじけない」を取り「五十両…」だけにした。つまり歌舞伎では全編を通して、定九郎の科白が「五十両」たった一つだけになったのである(現行では、四段目に定九郎は出ない)。ところで従来から問題になっているのが、「二つ玉」についての解釈である。浄瑠璃の本文では「…あはやと見送る定九郎が、背骨をかけてどっさりと、あばらへ抜ける二つ玉」とあり、「玉」とは鉄砲の弾丸のことだが、この「二つ玉」の「二つ」が何を意味するかで解釈が分かれている。東京式では「二つ」とは回数のことだとして勘平は鉄砲を二発撃ち、二発目は花道に出て鉄砲を構え撃つ。上方では、二つ玉の意味を二つ玉の強薬(つよぐすり)、すなわち「火薬が二倍使われている威力の強い玉」と解釈し一発しか撃たず、花道で撃つこともない。『浄瑠璃集』(『新潮日本古典集成』)の注では「二つ玉」について『調積集』を引き、それによれば弾丸と火薬を二発分、銃にこめて撃つことであるとしている。なお十三代目片岡仁左衛門は上方歌舞伎の役者だが、鉄砲を東京式に二発撃っている。「出てきて、一発撃ってきまると、きっぱりする」からだという。原作では「飛ぶがごとくに急ぎける」と、金を手にした勘平はすぐさまその場を走り去るが、歌舞伎では探り当てた財布をいったん手放して花道へと行き、しかし「あの金があれば…」と考えてまた戻り、金を手にすると花道を駆けて引っ込む。そのまま何の気兼ねも無く金を持っていったのでは、のちの六段目の勘平に同情が集まらないということで工夫された型である。これも三代目菊五郎の工夫と伝わる。(身売りの段)勘平が定九郎を誤って撃ち、その懐から金を奪って去った夜、その夜も明けて朝が来た。ここは勘平夫婦が身を寄せているおかるの親与市兵衛の家である。寝床より起きたおかるが身仕舞いをすますところに、与市兵衛の女房でおかるの母が帰ってきた。与市兵衛は前日から出かけており、それがもう戻ってもよい時分なのにまだ帰らないので、母が近くまで様子を見に行っていたのだった。与市兵衛を案じる母と娘が話をする中、そこに京の祇園町から人が訪れる。それは女郎屋一文字屋の主人であった。おかるは、じつはこの一文字屋に女郎として身を売ることになっていた。与市兵衛はその相談に京の都まで行き、一文字屋におかるの身売りを条件に百両の金を貸してくれるよう頼んだので、一文字屋は与市兵衛と証文を交わし、前金として五十両の金を渡すと与市兵衛は喜んで帰っていった。それが昨夜の四つ時のことである。だがその与市兵衛はまだ戻らない。とにかく証文を交わして金を渡したからにはもはやこちらの奉公人、おかるは連れて行くと一文字屋は後金の五十両を出し、母親が止めるのも聞かずに同道してきた町駕籠におかるを押し込みこの家を立とうとする。そこへ鉄砲を持った勘平が帰ってきた。勘平はこの場の仔細を聞いた。おかるの母は、予てから勘平には金が要る事があると以前より娘おかるか
出典:wikipedia
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