桑(くわ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。松型(丁型)の5番艦である。日本海軍の艦名としては2代目。藤永田造船所で建造され、1944年(昭和19年)7月25日竣工。同年12月3日、多号作戦従事中にフィリピン・レイテ島のオルモック湾で米駆逐艦と交戦し沈没した。就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完海軍少将・海軍兵学校41期)に編入される。瀬戸内海に回航され、8月3日から8月30日までは輸送任務に従事中の長良軽巡洋艦1番艦「長良」に代わって第十一水雷戦隊の旗艦を務めた。8月30日に旗艦の任務を球磨型軽巡洋艦2番艦「多摩」に移してからは訓練を再興する。10月4日からは空母「海鷹」とともに対潜掃討任務に従事する予定だったが、整備の遅れにより任務は取り止められた。10月17日、アメリカ軍がフィリピン、レイテ湾のに上陸し、日本軍は捷一号作戦を発動した。この作戦は小沢治三郎中将(海兵37期)が率いる機動部隊が囮となって第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)をひきつけ、その隙に栗田健男中将(海兵38期)率いる第二艦隊主力がレイテ湾に突入しアメリカ軍の上陸部隊を撃破するというものであった。10月20日夕刻、小沢機動部隊(空母4隻《瑞鶴、瑞鳳、千代田、千歳》、航空戦艦2隻《日向、伊勢》、巡洋艦3隻《大淀、五十鈴、多摩》、秋月型駆逐艦4隻《初月、秋月、若月、霜月》、松型駆逐艦4隻《桑、槇、杉、桐》)は豊後水道を出撃。10月22日に空母千代田から重油の洋上補給を行うも予定の100トンに対して75トンしか補給できなかった。機動部隊は10月23日に兵力を二分して2つの輪形陣を形成し、これにより「桑」は空母「瑞鳳」の左後方に位置することとなった。10月24日、松型2隻(桐、杉)は小沢機動部隊から分離、沖縄に退避した。10月25日朝、小沢機動部隊は沖でついに第38任務部隊の艦載機による空襲を受け(エンガノ岬沖海戦)、数度にわたる空襲を受け空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)と護衛艦2隻(秋月《空襲による》、多摩《潜水艦による》)を喪失。本艦は小沢中将の命を受けて瑞鶴と瑞鳳の生存者救助任務を行った。17時20分までの救助作業の結果、瑞鳳艦長の杉浦矩郎大佐以下847名を救助した。また被弾して速力低下していた「槇」と遭遇し、山下(桑艦長)が「いかがなりや」と気遣う場面もあった。「桑」は第61駆逐隊(初月、若月)と共に更に救助作業を行うも、ローレンス・T・デュボース少将率いる巡洋艦部隊の攻撃を受け避退。「初月」(第61駆逐隊司令天野重隆大佐)の奮戦と沈没により窮地を脱した。10月26日に中城湾に帰投した。「桑」は11月2日付で第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将・海兵40期)の指揮下に入る。続いて第三十一戦隊(五十鈴、霜月、桑、杉、桐、槇、桃)は南方に進出する第四航空戦隊(司令官松田千秋少将。日向、伊勢)を護衛して、11月9日に門司を出撃する。11月15日、日本海軍は松型5隻(桑、杉、樅、樫、檜)により第52駆逐隊を編成。第四航空戦隊(日向、伊勢)とは南沙諸島長島で別れ、第三十一戦隊旗艦の軽巡五十鈴を護衛してマニラに向かい、11月18日に到着した。11月23日付で第52駆逐隊は第三十一戦隊に編入され、駆逐隊司令には岩上次一大佐(当時、第7駆逐隊司令)が任命されている。この頃、レイテ島オルモック湾への輸送作戦である多号作戦が依然続行中であり、本艦は第七次多号作戦に参加することになった。本来の参加予定艦は「桐」だったが、座礁して修理にまわされた為、「桑」が代艦として参加することになったという。11月30日午前、第七次多号作戦が発令され、松型駆逐艦2隻(桑、竹)、第9号輸送艦、第140号輸送艦、第159号輸送艦と第三梯団を構成してマニラを出撃した。部隊指揮官は山下正倫中佐(桑艦長)。松型2番艦「竹」はこれまでに第三次、第五次の多号作戦に参加していた。この頃になると、アメリカ軍は妨害のためにレイテから魚雷艇隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、11月28日夜半のオルモック襲撃に成功するなど戦果を挙げていた。第7艦隊司令官のトーマス・C・キンケイド中将は続いてオルモック方面に駆逐艦と掃海艇を派遣することとし、これも過去二度の作戦で潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた。そして、三度目の作戦として ("USS Allen M. Sumner, DD-692") 、 ("USS Moale, DD-693") そしてクーパー ("USS Cooper, DD-695") がオルモック湾に差し向けられる事となったのである。アレン・M・サムナー、モールおよびクーパーの第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐)は18時30分にレイテ湾を出撃し、オルモック湾に急行した。だが、第120駆逐群はとにかく運がよくなかった。出撃して間もなくセブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊の月光に付きまとわれ、爆撃と機銃掃射によりモールは2名の戦死者と22名の負傷者を出した。また、アレン・M・サムナーおよびモールの船体にも若干の損傷が生じた。12月2日夜、船団はオルモック湾に到着して揚陸を開始した。大発が輸送艦と陸上を往復して物資を揚陸させている頃、南方の哨戒を開始した。しかし、その南方からは第120駆逐群がオルモック湾に入りつつあり、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった。オルモック湾に入った第120駆逐群は11,000メートル先の目標を狙い、まずクーパーが砲撃を開始した。「桑」は第120駆逐群のオルモック湾侵入を確認するや、発光信号で敵艦発見を「竹」に知らせた。最初の交戦はおよそ9分で決着がつき、一方的に叩きのめされて沈没していった。その後、「竹」の雷撃によりクーパーは沈没し、浮き足立った第120駆逐群は南方へ去っていった。第三梯団の指揮官を兼ねていた駆逐艦長山下正倫中佐以下多くの乗員が戦死し、海上に放り出された生存者は「竹」に対して声をかけたり、撃沈されたクーパーの乗員と英語で会話したという。竹の駆逐艦長・宇那木勁少佐は生存者の救助をオルモックの陸上部隊に依頼した。1945年(昭和20年)2月10日、松型4番艦「桃」と本艦は松型駆逐艦、帝国駆逐艦籍より除籍。「桃」は第43駆逐隊から、「桑」は第52駆逐隊から除かれた。2005年(平成17年)、オルモック湾の深海108メートルの海底にて旧日本軍の艦艇とおぼしき残骸が発見された。香港のマンダリン・ダイバーズによって潜水調査が行われた。撮影された映像を見た乗員遺族の造船技師が、全弾射出済みの九二式 61cm4連装魚雷発射管と松型駆逐艦特有の船体の溶接痕を確認した。これにより、ほぼ「桑」と特定されたと香港ラジオテレビ(RTHK)は伝えた。
出典:wikipedia
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