府内城(ふないじょう)は、豊後国府内(現在の大分県大分市)にあった日本の城である。大分城(おおいたじょう)とも呼ばれる。府内城は、大分市街の中心に位置する梯郭式平城である。安土桃山時代後期、府内に12万石で入封した福原直高が府内の荷落に築城を始めたが、福原氏は改易され、早川長政の府内領再封を経て、関ヶ原の戦いの後に3万5千石で入封した竹中重利が完成させた。江戸時代には府内藩2万1000石の藩庁が置かれていたが、明治初期に本丸・東丸・西丸の建造物以外は破却され、堀の一部が埋め立てられた。さらに第二次世界大戦時の大分空襲により櫓が数棟焼失した。現在、城跡は大分城址公園となっている。本丸跡北西隅に人質櫓(二重櫓)と西丸に宗門櫓(平櫓)が現存し、大分県の史跡に指定されている。また、3棟の二重櫓と大手門、土塀、廊下橋が復元されており、三の丸跡には、大分県庁・大分市役所などがある。西丸跡には1966年に大分文化会館が建てられたが、2013年10月に閉館した。跡地の利用方法は未定で、城址公園も含めて今後検討される。なお、大分市は1993年に、大分文化会館を解体した後の構想として、中期的に発掘調査、城内整備を行った後、長期的には天守閣再建を含めた府内城の復元を行うとする府内城整備基本構想を策定しているが、経済情勢の変化等のために実現の目途は立っていない。府内城という名称は、大分市中心部が中世に府内と呼ばれていたことにちなむ。府内には、古代には豊後国の国衙が置かれ、鎌倉時代から戦国時代にかけては豊後国の守護職・守護大名であった大友氏の拠点であった。中世には、現在の大分駅東方(府内城から見ると南東方)に、大友氏館と呼ばれる守護館が築かれ、南方の上野丘陵には上原館と呼ばれる堀や土塁を備えた防衛拠点が置かれていた。しかし、2度ほど府内への侵攻を受けた際には、大友氏方はいずれも府内を捨てて近隣の高崎山城などへ拠点を移している。1586年(天正14年)の島津氏侵攻の折りには、大友氏館などを含む府内の中心部は焼き払われたが、後に代官として府内に入った早川長政は館を改修して移り住んだと伝えられている。豊後高田より入封下野壬生より入封北東隅に本丸を配し、東丸、西丸、山里曲輪が配されている。侍町である三の丸が北西から南東に大きく広がり本丸等を囲んでいる。それぞれの曲輪は堀で仕切られ、渡櫓・廊下橋で連結されていた。櫓は白漆喰を塗籠めたもので、連子格子の窓、袴型の石落としを標準で持っていた。層塔型で地階(地下)を持っており二重櫓は城内から三重に見えた。東丸には、最上階が天守と同形式の高欄と火灯窓を持った三重櫓が建っていた。天守の構造は不明である。1605年(慶長10年)旧暦11月に描かれた『府内絵図』の天守台部分には、「天守・四重・上重二間・三間。高 水ヨリ上棟瓦マテ・十六間半」また天守台を表す内側の線に沿って、南北面の線に「八間」、東西面の線に「七間」と書き込まれている。正保城絵図には「天守ノ廣サ下ノ重七間八間」と書き込みがある。天守南側と西側に多聞櫓形式の取付櫓(付櫓)があり、西側は二重櫓、南側は東大門と連結していた。正保城絵図等では層塔型の白い四重天守が描かれ、北野隆は『豊後国府内城焼失付普請之覚』に描かれた天守の姿を参考に城漆喰塗籠の層塔型天守を推定している。一方で、府内城天守が建造された時代は層塔型天守が現れる時代より前の1602年であるので、小野英治や三ツ股正明は望楼型天守の可能性を指摘している 。層塔型に描かれた絵図があることについては、簡略化されて描かれたもの、望楼型天守を層塔型に改築した、との指摘がある。小野は、『府内絵図』の上重二間・三間の書き込みについて縦書きの右行は東西であることを指摘して「二間」を東西梁間、「三間」を南北桁行とし、下ノ重南北面(平側)の8間に対して上ノ重の南北面は2間の妻側であるとして層塔型でない可能性を指摘している。1656年(明暦2年)旧暦5月15日に書かれた『御城諸道具改帳』では、「上ノ重・二重目・三重目・下ノ重」とあり、三ツ股はこの文書内の記述に注目して「下ノ重」を大入母屋造としてその上部に小規模な3重の楼閣を載せる望楼型天守を推定している。
出典:wikipedia
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