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ヌルハチ

ヌルハチ(弩爾哈赤、満州語: メレンドルフ転写:Nurgaci)は、後金の創始者。清の初代皇帝とされる。君主としての称号は満洲語でゲンギェン・ハン、モンゴル語でクンドゥレン・ハーン、廟号は太祖、諡号は高皇帝である。なお、明の文献では童奴兒哈赤あるいは佟奴兒哈赤、朝鮮の文献では老乙可赤あるいは奴兒哈赤、清の文献では弩爾哈齊あるいは弩爾哈奇と記載されている。女真族の愛新覚羅氏出身。ヌルハチが生まれた頃の女真は、建州女真五部・海西女真四部・野人女真四部に分かれて、互いに激しく抗争していた。これを利用して明は、朝貢の権利を分散させることで、飛びぬけて力の強い部族を出さないようにしていた。具体的な方法としては、建州・海西女真の有力者300名に対して勅書を渡していた。ただし、土木の変(1449年)でのエセン・ハーン侵攻にあたって勅書が無資格者の手に渡るなど混乱した上、期待していた防壁代わりに全くならなかった反省から、ヌルハチが生まれた頃には建州女真1000通、海西女真500通をそれぞれの首長に一括して渡すようになり、若干の権力集中が行われるような政策に転換している。しかしその弊害で、明も放っておけないほど武力抗争が激しくなっていた。ヌルハチの祖先は代々明朝に尽くし、しばしば恩賞を授けられている。ヌルハチは生まれつき聡明で、力が強く武術を好み、よく働いたので両親に可愛がられた。9歳の時に母エメチ(ヒタラ氏)が病死した。父タクシが新たに迎えた継母とは折り合いが悪く、我慢できなかったヌルハチは14歳の時に家出して、外祖父ワンカオの元へと身を寄せた。ワンカオは都督の地位にあり、漢字が読め、文武に秀でた人物であった。ワンカオは武芸に秀でた孫を可愛がった。ワンカオは明の圧政に反発して挙兵したが、惨敗して捕らわれ、殺された。この時にヌルハチも捕らわれたが、どうにか逃げ切り、父が住む故郷に戻った。その時にタブンバヤンの娘ハハナ・ジャチン(トゥンギャ氏)と結婚するが、父の後妻と彼女に惑わされた父に冷遇され、再び家を出た。独立世帯での暮らしとなり、人参や薬草を採取して細々と生計を立てた。その暮らしに満足いかないヌルハチは武将になることを志し、遼東総兵の李成梁の部下になる。壮健で乗馬、弓術などが抜群の腕前であったヌルハチは、李成梁に目をかけられるようになった。1583年、李成梁の大軍が建州右衛の古城を攻めた。城主アタイが父ワンカオ殺害に憤慨して反旗を翻したからである。アタイの妻はヌルハチの祖父ギオチャンガの孫娘で、ヌルハチの従妹に当たる。ギオチャンガとタクシは古城に入り、アタイを説得した。しかしその時、ヌルハチと同じスクスフ部のニカンワイランが明軍を手引きして、アタイを殺害した。ニカンワイランは勢力を伸ばしたいと思い、ギオチャンガとタクシも処刑した。怒ったヌルハチは李成梁に「祖父は孫娘を取り戻そうとしただけで、父は祖父の帰りが遅いから城に入っただけです。それをどうして殺したのですか。」と詰め寄った。言葉に窮する李成梁に対し、ヌルハチはさらに「父と祖父は一度たりとも明に背いたことはありません。汚名を着せられて死んだのでは報われません。」と言った。李成梁は処刑を悔やんだ。明朝はヌルハチを慰撫するため、20通の勅書と20頭の馬を授け、左衛指揮使に任命した。上述の通り、勅書とは交易許可書のことであり、これを所持する者に明と交易する権利がある。また勅書の数が多ければ多いほど。交易で利益を得られる。この任命は李成梁の進言があったと言われる。またこの頃にヌルハチは一族の長となった。李成梁はヌルハチを厚遇する一方で、ニカンワイランもスクスフ部の首長として重用した。ニカンワイランはこのはからいに気を良くして、ヌルハチにも服従を求めた。しかし父と祖父の仇であるニカンワイランにヌルハチが従うわけがなかった。一方、ヌルハチの従兄弟やその息子などの中にはヌルハチがギオチャンガの後を継いだことをよく思わない者がいて、ニカンワイランと手を結んだ。これに対し、サルフ城のノミナ、ギャムフ城のガハシャン(ヌルハチの妹婿)などがヌルハチの味方となった。しかし同盟を結んでも軍勢は100人程度だったと言われている。1583年2月、ヌルハチはトゥルン(図倫)城を攻めた。しかしニカンワイランはノミナと内通しており、攻撃前にギヤバン城に逃れた。同年8月にギヤバン城を攻めたが、またもニカンワイランはノミナから密告を受け、オルホン城に逃げた。ノミナの内通に気が付いたヌルハチは、「バルダ城を攻撃するから甲冑や武器を貸して欲しい」とノミナに申し出た。同盟を結んでいる建前からノミナは武器を貸したが、ヌルハチは隙をみてノミナを殺害し、サルフ城を占領した。ところが、ジョーギヤ城のリダイとギオチャンガの息子の子孫がヌルハチ配下のフジサイを襲撃したため、ニカンワイランの追撃は中止した。1584年1月、ジョーギャ城を襲いリダイを捕らえた。同族ということもあり命は助けた。同じ頃、ギャムフ城のガハシャンがサムジャンに殺された。サムジャンはマルドゥン城に逃げ込んだがヌルハチは追い、サムジャンを殺して仇を討った。同姓同族の激しい骨肉の争いは1583年に終結し、ヌルハチの親族はヌルハチに屈服した。ドンゴ部の族長アハイはスクスフ部をまとめたヌルハチを恐れ、攻撃しようとしたが、ヌルハチに気づかれた。ヌルハチはアハイの居城であるチギダ城を攻めたが、城が落とすことができずに引き返した。引き返す時にオンゴロ城を攻めたが、傷を負いヘトゥアラに戻った。傷が治ると再びオンゴロ城を攻撃して落とした。1585年2月、ジャイフィヤン(界藩)城を攻撃してジャイフィヤン、サルフ、ドゥンギャ(棟佳)、バルダ城の連合軍を破り、4月にトモホ、ジャンギャ(張佳)、ジャイフィヤン、サルフ、バルダ城の連合軍を破った。また9月にフネヘ(渾河)部を攻略して急激に勢力を伸ばした。1586年7月、いよいよニカンワイランの居城を攻めた。ニカンワイランは明軍に逃げ込んだので、ヌルハチは明軍に引き渡しを求めた。明軍はもはやニカンワイランには利用価値がないと判断してヌルハチを黙認し、ヌルハチはニカンワイランを捕らえて斬首した。李成梁は、明が制御できるほどの大きな勢力を一つ作り、その後ろ盾になることで女真を治めようとした。これに選ばれたのが建州女真の中のヌルハチであった。ヌルハチはその後、1587年にジェチェン(哲陳)部、1588年にワンギャ(完顔)部を支配した。最後に残ったホホリもヌルハチに帰順した。こうしてヌルハチは、万暦17年(1589年)に建州五大部を統一することに成功した。ヌルハチの支配する国は、建州女真の別名でマンジュ国と呼ばれるようになった。李成梁の思惑は上手く行き、ヌルハチは女真の中の大勢力となった。それと同時に李成梁の懐に入る賄賂の量も大幅に増えたが、これに気を良くしたのか、ヌルハチの統御を怠っていた。女真の大首長となったヌルハチは、明に朝貢して勅書500通を得た。この勅書を活用して馬市や市場を拡大し、富を増やし、他部族の攻略に備えた。建州女真を統一したヌルハチの次の目標は海西女真であった。海西女真も利害の対立から争いは絶えなかった。1589年、海西女真のフルン四部の一つ、イェへ(葉赫)部首長のナリンブルがフルンの盟主となった。ナリンブルは女真を統一しようとして、ヌルハチに帰順を求めた。ヌルハチはこれを無視して対立を深めた。この時期の明は、日本の豊臣秀吉による文禄・慶長の役への対応に忙殺されていたこともあり、女真への介入は少なかった。明と日本が戦っている間に、女真の争いは頂点に達した。イェヘ部の首長のナリンブルは1593年6月、ハダ(哈達)部、ウラ(鳥拉)部、ホイファ(輝発)部と連合軍を結成して建州を攻めたが、待ち構えていたヌルハチに追撃されて大敗した。同年9月、再びイェへ部の首長のナリンブルはハダ部、ウラ部、ホイファ部、ジュシェリ(珠舎哩)部、ネイェン(納殷)部、シベ部、グワルチャ部、ノン・コルチン部と9部連合軍を結成し、3万の大軍を繰り出し、3方面からヌルハチを攻撃した(グレの戦い)。9部連合軍が建州の城を攻めている間、スクスフ(蘇子)河北岸のグレ(古埓)山の山影にヌルハチ軍の精鋭を置き、ヌルハチはわずか100騎で奇襲して逃げた。連合軍が後を追うと、待ち伏せていたヌルハチ軍に包囲され大敗した。この戦いで、海西女真と建州女真の勢力が逆転する。これにより、女真の諸部族はヌルハチに従う者が多くなり、明はヌルハチに対し竜虎将軍の官職を授けた。なお、李成梁はこの2年前に汚職を弾劾され、更迭されている。その後、アムール川周辺にあるフルハ部と朝貢関係を結んだヌルハチは、次にハダ部の攻略にかかる。ハダ部もまたイェへとマンジュ国の間で板挟みの状態にあった。1599年5月、イェへ部のナリンブルはハダ部を攻撃し始めた。ハダ部の首長メンゲブルは人質と共にヌルハチに援軍の要請を送った。ヌルハチはこれに応じてシュルガチと2000の兵を差し向けるも、急遽自ら兵を率いてハダを攻撃して支配下に置き、メンゲブルを捕虜にした。その後、メンゲブルは妾と通じたという罪で死刑になる。ヌルハチはハダの住民を全てマンジュ国に連れ去り、ここに事実上ハダ部は滅んだ。ハダ部は明の対女真対策の要地であり、これを滅ぼしたヌルハチに対して明は経済制裁をちらつかせるなどの圧力をかけた。そこでヌルハチは、メンゲブルの長子ウルグダイとハダの住民を元の地に帰したが、イェへ部のナリムブルがハダへの侵略を繰り返したために、結局ハダの住民はマンジュ国に戻されることになった。ウルグダイはその後ハダの地を踏むことなく、ヌルハチの忠臣となって活躍した。1607年、ホイファも内乱に乗じてヌルハチに制圧され、滅亡を迎えた。この前年に日本軍が撤兵したこともあり、明はようやくヌルハチに危機感を抱き始め、海西女真のイェヘ部の後押しをすることでヌルハチに対抗しようとした。ヌルハチはウラ部の首長ブジャンタイに対し、娘を嫁がせるなど懐柔を見せるが、内心は快く思っていなかった。またブジャンタイは裏ではイェへと関係を結んでいた。1607年1月、ウラがワルカ地方のフィオ城を攻めた際、ワルカはヌルハチに助けを求め、ヌルハチはこれに応じ弟シュルガチを派遣した。1607年3月、ブジャンタイとシュルガチの軍が烏碣巌(うけつがん)で衝突した結果、シュルガチが大勝した。その後、ブジャンタイは和睦に応じた。ブジャンタイは腹いせに自分の妻でヌルハチの娘のオンジェ・ゲゲを虐待した。これに激怒したヌルハチは、1613年1月にウラを攻め滅ぼした。こうしてヌルハチはイェへ以外の海西女真族を全て支配下に入れた。ウラ部攻略で大功を挙げたシュルガチであったが、次第にヌルハチとの仲が悪化した。権力を握ったヌルハチの自分への態度が尊大になることに不満を覚えた。またヌルハチも、自分の言うことを聞かないシュルガチに対して不満を覚えるようになった。ウラ部攻略で戦い方が消極的だったと叱責し、ヌルハチはシュルガチの兵権を縮小した。さらに城を建設しようとシュルガチに兵を送るように命令するが、兵を送るどころかシュルガチは自分の城を築いた。1607年1月、シュルガチは3人の息子と密謀し、イェへ、明朝へと近づくことした。これがヌルハチに知られて、シュルガチは財産を没収され、息子のうち2人が殺害された。シュルガチは深く謝り、許しを請うた。ヌルハチは一度は許そうとしたが、恨みごとを言っていると耳にし、幽閉して死に到らしめた。万暦44年(1616年)、ヌルハチは本拠地ヘトゥアラ(hetu ala、赫図阿拉)でハン(han、汗)の地位に即き、国号を金(後金、aisin)、元号を天命(abkai fulingga)とした。前後して(額爾徳尼)と()に命じ、モンゴル文字を改良した満州文字(無圏点文字)を定めた。また、八旗という軍事組織を創始した。このことで、満州人が勢力を拡大する基盤が固められた。天命3年(1618年)、ヌルハチは「七大恨」と呼ばれる檄文を掲げ、明を攻めることを決定した。この文書の中には、明がイェヘに加担して満州を攻撃すること、祖父ギオチャンガと父タクシが明に誤殺されたことなどが書かれている。同年、ヌルハチは明の庇護を受けていたイェへ周辺の諸城を攻撃し始めた。李永芳が守る撫順城は兵1000人ほどだったが、ヌルハチは女真人を馬市に参加させて李永芳に通知し、隙を狙い撫順城を攻めて李永芳を投降させた。ついでに清河城が陥落した。同日に東州、馬根丹など500箇所を陥落させた。1619年4月29日、明はイェヘ部と朝鮮の兵を配下に47万と総大将に楊鎬を置き、軍を杜松軍3万、馬林軍1万5千、李如柏軍2万5千、劉綎軍1万の4つに分けて、4路からヌルハチの居城であるへトゥアラに侵攻させた。北は馬林軍1万5千とイェヘ軍1万、西は杜松、保定総兵王翦宣2万5千、東は李如柏軍2万5千、南は劉綎軍2万8千で攻めた。こうして、撫順近くのサルフ(sarhū、薩爾滸)において、10万を号する後金軍と激突した(サルフの戦い)。なお、「号して」とした場合、およそ実数は半分といわれる。ともあれ数の上では後金軍の不利であったが、明の将軍が功を焦って突出したため各個撃破できたことと、戦闘中に砂塵が舞い上がり、これに乗じて明へ奇襲をかけることができたことなどが幸いし、後金が大勝した。明に大勝したヌルハチは、サルフの戦いから5か月で長年の宿敵イェへを統合し、悲願であった全女真族の統一に成功した<。サルフの戦いの後の1619年6月、楊鎬に代わって遼東経略に就いたのは熊廷弼であった。その頃にはサルフでの勝利とイェへの滅亡により、遼東における後金の有利は決定的であり、兵士の士気も低かったため、鉄嶺は既に落ちており、モンゴルもヌルハチを恐れて明に就こうとしなかった。治安も悪く、農民も離村して社会混乱を起こした。そこで熊廷弼はあえて守勢に回り、軍備を整え、軍律を厳守して18万人の兵で守りを固め、朝鮮と連携するなどヌルハチを牽制した。この方針により農民は耕作を再開したが、中央政府の目からは消極策に映り、熊廷弼は更迭された。この時期はヌルハチの側も、戦後処理での戦功の配分や朝鮮との通商停止、モンゴルの中立化など様々な国内問題を抱えており、1620年まで積極的な戦争を仕掛けられなかった。熊廷弼の後任には袁応泰が就いた。袁応泰は消極的と批判された熊廷弼を反面教師として、撫順と清河を奪い返す計画を立てたが、それに先んじてヌルハチは瀋陽を強襲した。1620年2月にジャイフィヤンからサルフへ遷都していたヌルハチは、瀋陽城をあっという間に陥落させた。ヌルハチは挑発を繰り返して城の守将の賀世賢を誘い出し、深追いしたところを包囲して戦死させた。大砲と銃で守られていた城をこれだけ素早く攻略できたのは、賀世賢に不満を持っていたモンゴル人が後金に内応して中から城を開いてしまったからだと言われる。この時、袁応泰は陳策に瀋陽へ援軍に行くよう命じたが、陳策が駆けつけた時には既に城は落ちていた。陳策は引き返そうとしたが部下に止められ、勝ち目がないとわかりつつ進軍した。迎えたヌルハチは追撃して明軍をほとんど戦死させた。3月8日、袁応泰は兵を遼陽城に集めて防備を固めた。城が堅いと認識したヌルハチは、山海関に兵を進めるよう見せかけた。袁応泰はヌルハチの計略を見抜けず、5万の兵を出して野戦で交戦してしまい敗北した。その後、後金軍は遼陽城を攻めたが、攻城は困難だった。そこで、東の入水口を土濠で塞ぎ、排水口を開こうとした。すると明兵が出てきて両軍が激突した。橋を奪取した後金軍は、梯子をかけて城に侵入した。もはやここまでと袁応泰は自害した。城を得たその日のうちに、ヌルハチは遼陽に居を構えた。明、朝鮮、モンゴルに近く、建築資材を川に流せば資源に欠かさず、山に獣、川に魚が多く食料も欠くことがないとしたためであった。1625年に正式に遷都を決定し、重臣たちの反対を押さえてこれを決行した。瀋陽と遼陽の2大重要拠点を獲得したヌルハチであったが、この2つの戦いは後金にとっても大きなダメージを残した。一方で、瀋陽と遼陽を失った明政府には大きな動揺が起こり、以前は遼東を無難に治めていた熊廷弼の再任が強く推されるようになった。1621年5月、朝廷に召還された熊廷弼は「三方布置策」という遼陽奪還策を提言した。三方布置策とはそうすれば後金は故郷の本拠地が気になり兵力が分散され、その間隙を縫って遼陽を回復するという作戦である。また朝鮮と連携を取ることを進言した。時の皇帝天啓帝はこれを採用し、熊廷弼を経略に起用する。しかし、熊廷弼は遼東巡撫の王化貞と意見が衝突することが多く、また王化貞が兵を自由に動かせる権限を持っていたため統一した戦いができなかった。加えて王化貞は軍事知識に乏しく、大言壮語して後金を侮っていた。その上、明が指針としていた熊廷弼の三方布置策も、王化貞配下の毛文竜が後金から鎮江を奪還してしまったことで崩れた(鎮江の戦い)。1622年1月、ヌルハチは2人の指揮官が争っていた時に、重要拠点の一つである広寧を5万の大軍で攻めた。広寧城は堅いのでまず西平堡を攻め、明軍を誘い出して野戦に持ち込んだ。王化貞に派遣された劉渠は戦死、孫得功は剃髪してヌルハチに降伏した。またこの戦いに勢いづき、遼河以西40の城を落とした。さらに、遼西で略奪をして遼東の食料不足を解消した。大勝利であったが、この戦いで孫のエセンデリを失った。王化貞は速やかに逃げて熊廷弼と合流し、山海関に退却した。後にこの責任を問われ、1632年に死刑に処されている。また熊廷弼は同じく責任を問われ、王化貞に先んじて1625年に死刑になった。この頃、ヌルハチは毛文竜のゲリラ攻撃にも苦しめられ、一方で後金領内の漢人との文化的な軋轢もあり、国内問題に対応した。天命11年(1626年)、連戦連勝のヌルハチは、明の領内に攻め入るために山海関を陥落させようとした。ところがその手前の寧遠城(現在の興城県城)に、将軍袁崇煥がポルトガル製大砲のを大量に並べて後金軍を迎え撃った()。袁崇煥の名声を聞いたヌルハチは、降伏勧告をして高位につかせると約束したが、袁崇煥ははねつけた。明軍はわずか1万人ながら、遼人をもって遼を守る防衛策で農民を登用・総動員し、袁崇煥は援軍が来ると言い続けて士気を鼓舞した。明軍の徹底抗戦に後金軍は散々に討ち減らされ、退却した。この戦いはヌルハチ最初にして最後の挫折と言えた。しかしこのまま引き下がると権威が失墜すると恐れ、ヌルハチは覚華島を攻撃し、食料と軍船2千を焼いた。この戦いの中で、ヌルハチは背中に傷を負い、8月11日に没した。享年68であった。遺体は瀋陽の東の郊外の福陵に葬られた。ヌルハチは生前に後継者を定めなかったため、死後に紛糾したが、第8子のホンタイジが後を継ぐことになった。ヌルハチが還暦を過ぎると、宮廷でも内紛が勃発した。宮中では、ヌルハチの養子や婿が不可解な処罰を受けたり処刑された記録が残っている。最初に後継者とされたのはチュイェンであった。生母はアムバ・フジン(Amba fujin、正妃)のトゥンギャ氏で出自は申し分なく、生来豪胆で17歳の時から戦争に参加して「フン・バトゥル(hūng baturu, 洪巴図魯)」の称号を得た。勇猛果敢という意味である。だが、チュイェンは1615年8月に処刑された。チュイェンは太子となるとすっかりハン気取りで弟や老臣に対して威張るようになった。また「長兄の言うことを聞き、内輪の話は父王の耳に入れては行けない」「父王亡き後、先に分配した財産を分割しなおし、また関係の良くない大臣や弟を排除する」と公言するようになった。そこで不安に思った大臣と弟たちはヌルハチに直訴した。ヌルハチがチュイェンを戒めても態度を変えないので、ついに太子を廃し、幽閉した。戦の敗北の責任を負わされたとも言われている。チュイェンはその後、ヌルハチや弟たちを恨み、呪詛や陰謀を企てた。それを耳にしたヌルハチはついに彼を処刑した。ヌルハチの死後、後継者が決められていなかったので、八旗の権力者の四大王(ダイシャン、アミン、マングルタイ、ホンタイジ)、四小王(アジゲ、ドルゴン、ドド、ジルガラン)から選ばれることになった。ヌルハチの遺命でアジゲ、ドルゴン、ドドの生母のアバハイが殉死しており、これは3兄弟の勢力を抑えるためだったとも言われている。結局、四大王の中から後継者が選ばれるようになった。アミンはヌルハチの弟シュルガチの息子で、勢力が他の大王と比べて低かった。次男のダイシャンは兄チュイェンと同じように戦功を立て、明征伐でも多くの戦績があった。正紅、鑲紅二旗を持つホショイ・ベイレ(和碩貝勒)筆頭で、しかも2人の息子ヨト、ショトも成人しており、一家に勢いがあった。しかし、ダイシャンも太子にはなれなかった。理由は3つあった。ホンタイジはこの問題を蒸し返し、ダイシャンの品性とフチャ氏、その息子マングルタイも批判した。ダイシャンの息子ヨトやサハリャンもホンタイジに積極的に加担した。2人はダイシャンの後嗣から外されていた。アバハイの葬儀が終わると、ヨトやサハリャンは「ホンタイジは才徳があり、衆人も心服しています。速やかに王位を継ぐべきです。」と述べ、ダイシャンも同意した。ヌルハチはあくまで明からの独立を目指しただけで、明を征服しようと思ったことはなかったと言われる。後継者を定めなかったのも、それまでの部族合議体制を維持しようとしたことの現われとも見られる。

出典:wikipedia

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