高等女学校(こうとうじょがっこう):高等女学校(こうとうじょがっこう)とは、かつて日本で女子に対して中等教育を行っていた教育機関。略称は「高女」。明治初期に設立された女学校や女子中学校を前身とする。その当時はまだ女子に対する中等教育機関についての具体的な法令や規程はなかった。しかし徐々に整備がなされていき、1882年(明治15年)女子師範学校附属高等女学校の設立により、「高等女学校」という言葉が使われるようになる。1891年(明治24年)の中学校令改正では第14条に女子中等教育の規程が設けられ、高等女学校が初めて勅令の中に登場する。1895年(明治28年)には「高等女学校規程」が公布され、1899年(明治32年)には独立の学校令として高等女学校令が公布された。1943年(昭和18年)公布の中等学校令により、中学校・実業学校とともに旧制中等教育学校として同じ法令でまとめられた。1947年(昭和22年)の学制改革(学校教育法の公布・施行)により高等女学校は生徒募集を停止し、翌1948年(昭和23年)3月に高等女学校は廃止され、同年4月に新制高等学校として発足した。このとき、旧制中学校とともにほとんどの公立高等学校が男女共学を実現した。高等女学校における教育は、1879年(明治12年)9月29日公布の「教育令」第42条に見られるように、「男女別学」としての女子教育の位置付けであった。その内容は、「賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為スニ在リ、故二優美高尚ノ気風、温良貞淑ノ資性ヲ涵養スルト倶ニ中人以上ノ生活ニ必須ナル学術技芸ヲ知得セシメンコトヲ要ス」(明治32年、樺山資紀文相発言)とされるように、「家庭婦人」としての技芸教養の習得の場とされ、高等専門教育は必要ないとされていた向きがある。女性の「社会進出」という側面が現代に比べて制限されていた時代の教育であり、高等女学校からの進学先は、高等女学校の専攻科及び高等科、師範学校の女子部、女子高等師範学校、女子専門学校、一部の私立大学などに限られており、実際に、これらの高等教育機関に進学した者は第二次世界大戦期を通して1%に満たなかった。高等専門教育機関である大学が女子に門戸を開放したのも、第二次世界大戦後まで先送りされていたことからも、高等女学校が中等教育機関として地域及び社会に与えた影響は大きい。男子の旧制中学校に比べ高等女学校の設置数は多く、女子が普通中等教育を受けるだけの門戸は広かった。1910年(明治43年)には193校であった高等女学校数はわずか10年後(1920年(大正9年))で倍増し、在籍する生徒数も1925年(大正14年)には5倍近くまで膨れ、在籍生徒数も同時期の(男子の)中学校在籍者数を上回るほどだった。男子の教育が“農業・工業等の産業従事や兵役への即戦力”の育成が求められた結果、中学校進学を制限する必要があったのに対し、社会進出が制限された女子への教育はそこまでの必要性がなかったからと思われる。実科高等女学校が設置されていったことも、都市部だけでなく農村部にも高等女学校が普及していくきっかけとなった。旧制中学校は設置が事実上制限されていて、都道府県市町村が自由に設置できなかったが、高等女学校についてはそこまで制限が厳しくなかった。1905年には5%にも満たなかった高等女学校進学率は、女子の尋常小学校就学率がほぼ100%になる1910年辺りから徐々に高まり、1920年には9%、1925年には15%近くにまで上昇し、ほぼマス段階に入った。
出典:wikipedia
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