ダイユウサクは、日本の競走馬である。主な勝ち鞍は1991年の有馬記念、金杯(西)など。有馬記念では14番人気にもかかわらず、圧倒的1番人気のメジロマックイーンを差し切り、レコードタイムで優勝した。しかし、このレース以降は1つも勝てずに引退したため、「史上最強の一発屋」などと称された。※馬齢は旧表記(数え年)馬主の孫の名前「コウサク」にちなんで「ダイコウサク」と名づける予定が、手違いで「ダイユウサク」になってしまったという。当時はデビュー後も馬名を変更できたが、あまりの惨敗続きに、馬主が「これでは孫の名前を付けようがない」と、ダイユウサクのままで通した。なお馬主の橋元幸平はシンザンの馬主・橋元幸吉の実弟に当たり、勝負服も袖の色が違うのみであった。手違いから名付けられた馬名だったが、有馬記念の優勝時には本馬を松田優作、2着のメジロマックイーンをスティーブ・マックイーンと関連付けて話題にするマスコミや「映画馬券」として馬券を購入した競馬ファンが多く見られた。ダイユウサクは体質の弱さもあってかデビューが大幅に遅れ、4歳になってからしばらく経った1988年10月30日・京都での400万下条件戦でデビューした。しかし、このレースでは溝橋秀吉騎乗で臨むも、結果は勝ち馬から13秒も離された最下位(11着)に終わった。次走の福島での未勝利戦でも7.3秒遅れて最下位(14着)に敗れ、この年は2戦して未勝利に終わっている。2戦ともタイムオーバーに相当する大敗だった。1989年、5歳になったダイユウサクは4月16日、新潟での400万下条件戦で出口隆義の騎乗でデビューから5戦目にして待望の初勝利を挙げた。初勝利後は新潟で1戦した後、京都の400万下条件戦で2勝目を挙げた。この2勝目を挙げたレースから熊沢重文を主戦騎手にしている。その後、ダイユウサクは6月の中京での御嶽特別(900万下)で3勝目を挙げると、高松宮杯(当時GII)に格上で重賞に初挑戦したが、7着に敗れた。秋になるとダイユウサクは自己条件に戻って、900万下条件戦を2連勝した。その中には阪神競馬場の芝1200mのコースレコードを更新したレースも含まれている。準オープン馬になったダイユウサクはその後、ダートの貴船ステークスこそ10着と完敗したものの、比叡ステークス2着、ゴールデンホイップトロフィー2着、逆瀬川ステークス3着と好走して、シーズンを終えている。6歳になったダイユウサクは半年の休養の後、6月のCBC賞から復帰した。格上挑戦だったCBC賞で4着、自己条件に戻ってジュライステークスで4着、再び格上挑戦したセントウルステークスで3着となった後、自己条件のムーンライトハンデキャップで村本善之とのコンビで勝ち、ついにオープン馬になった。GI初挑戦となった天皇賞(秋)でも村本とのコンビで挑んだが、結果は7着に終わった。ただ、6着に終わったオグリキャップとは半馬身差だった事から、ダイユウサクにとっては希望を持てる結果であった。天皇賞後、ダイユウサクはトパーズステークス、飛鳥ステークスとオープン特別を2連勝して、この年を終えている。7歳になったダイユウサクは年明け、京都で行われた金杯(西)で1番人気で優勝、これがダイユウサクの初の重賞制覇だった。産経大阪杯でホワイトストーンの2着に入った後、裂蹄のため半年間休養したダイユウサクは秋に復帰すると、京都大賞典5着、スワンステークス4着、マイルチャンピオンシップ5着と好走した。マイルチャンピオンシップが終わった後、騎手の熊沢と厩務員の平田は話し合い、「スプリンターズステークスに挑戦し、ダイユウサクにGIを獲らせたい」との思いを内藤に話したが、拒否された。しかし内藤繁春はこのレースで勝てれば、有馬記念に推薦で出走できるのではないかという意図をもって、有馬記念の2週前に行われるオープン特別の阪神競馬場新装記念にダイユウサクを出走させた。このレースでダイユウサクは2番人気だったが、見事勝利を収め、有馬記念の最終登録に名を連ねる事になった。1991年の有馬記念は、無敗のまま春のクラシック二冠を制したトウカイテイオーや菊花賞を制したレオダーバンなど有力馬の故障による出走回避もあり、ダイユウサクはJRAの推薦馬として、有馬記念に出走する事が可能となった。しかし、世間の注目は天皇賞(秋)では1着入線も降着となり、ジャパンカップでは4着に終わったメジロマックイーンに集中した。それはメジロマックイーンの単勝が1.7倍という圧倒的1番人気という数字に表れていた。一方、ダイユウサクは単勝が137.9倍と15頭立ての14番人気というブービー人気だった。内藤調教師も少し距離が長いと思っていたが、「無様なレースだけはしないだろう」という確信があったという。また、騎乗する熊沢重文も、直前の調教においてこれまでで一番調子が良いという手応えを感じており、内藤と同じく無様なレースはしないという確信があったという。レースは最後の直線で、それまで中団に待機していたダイユウサクが鋭く伸びて内ラチ沿いを強襲し、早めに抜け出したプレクラスニーに並ぶ間もなく先頭に立つと、追いすがるメジロマックイーンに1馬身4分の1の差をつけて優勝した。この伏兵の大駆けにフジテレビの『スーパー競馬』で実況していた堺正幸が「これはビックリ、ダイユウサク!!」と叫ぶほどだった。この時の勝ちタイム2分30秒6は、イナリワンが持つ従来の記録を1秒1も更新するコースレコードであり、2003年の有馬記念でシンボリクリスエスに、コンマ1秒破られるまでの12年間レコードタイムであり続けた。7歳で有馬記念に勝利したのはスピードシンボリ、グリーングラスに続いて3頭目だった。また、有馬記念の単勝馬券が万馬券となったのは初めてであった。このダイユウサクの人気のなさに馬主の橋元幸平すらも有馬記念に勝てる訳が無いと思い、中山競馬場に観戦に来ず、表彰式では橋元の娘など関係者が代行で表彰式に出席したという逸話も残っている。ただ、内藤はレース前から勝てるという確信があったため、正装で中山競馬場に入場している。ダイユウサクは翌年も現役を続けたものの、大阪杯6着、天皇賞(春)9着、安田記念8着、宝塚記念8着、高松宮杯14着、スワンステークス15着と6戦していずれも5着以内に入れず、この年限りで引退した。ダイユウサクは引退後、新冠の八木牧場で種牡馬となった。残した産駒が計17頭と少なかったこともあり、東海公営の重賞・グランドミックス(名古屋)を制したグランオラシオンらを出すに止まった。1998年に種牡馬を引退し、観光施設・うらかわ優駿ビレッジAERUで余生を送っていたが、2013年12月8日に老衰で死亡した。うらかわ優駿ビレッジAERUではニッポーテイオーやウイニングチケットらと仲が良かったという。※タイム欄のはレコード勝ちを示す祖母クニノハナはエリザベス女王杯の前身・ビクトリアカップの第1回優勝馬。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。