奥寺 康彦(おくでら やすひこ、1952年3月12日 - )は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。日本代表。秋田県鹿角市出身。株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜FC)取締役会長。1970年代当時、世界最高峰のリーグと言われたドイツのブンデスリーガ(1976年-1984年までUEFAリーグランキング1位)で活躍した初めての日本人選手である。3つのクラブを渡り歩き計9年間プレーを続けレギュラーとして実績を残した。その正確無比の安定したプレースタイルで地元ドイツのファンから「東洋のコンピューター」というニックネームで呼ばれ、賞賛された。欧州サッカー連盟主催の国際大会には6回出場しており、小野伸二に抜かれるまでアジア人最多だった。1978-79シーズンのUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)ではアジア人として大会史上初となるゴールを記録している。なお、16年後の1994-95シーズンにタジキスタンのラシッド・ラヒーモフが得点を上げるまで奥寺以外のアジア人の得点者は現れなかった。一般的に「日本人初のプロサッカー選手」として紹介される事が多いが、2人目のプロサッカー選手であるとの異説もある(後述)。秋田県鹿角市十和田大湯(旧鹿角郡十和田町大湯)出身。二卵性双生児の妹がいる。小学校5年時に一家で横浜市に転居する。横浜市立東戸塚小学校を経て、横浜市立舞岡中学校でサッカーを始め、相模工業大学附属高等学校(現:湘南工科大学附属高等学校)から1970年に日本サッカーリーグの古河電気工業サッカー部に入部。1976年に古河がブラジル工場を持っていた縁でブラジル・パルメイラスに2ヶ月間留学して急成長を遂げ、ユース代表を経て日本代表に選出される。同年に代表ではムルデカ大会で得点王に輝き、古河ではJSL、天皇杯の二冠に貢献しベストイレブンに選出された。1977年夏に日本代表がドイツにおいて分散合宿を行った際、当時の代表監督・二宮寛はブンデスリーガ(ドイツ1部リーグ)の1.FCケルンの監督であったヘネス・ヴァイスヴァイラーと親しかったことから、奥寺ら数人をケルンの合宿に参加させた。当時、ケルンはスピードのある左ウイングを探しており、ヴァイスヴァイラーは同ポジションの奥寺に興味を持った。そこで、練習と称して事実上の入団テストを行ったうえで、奥寺に正式なオファーを出した。後に本人は、もし最初からあれが入団テストだと分かっていたら緊張して思ったとおりの力が出せなかったであろうと語っている。奥寺は自分がブンデスリーガで通用するのか、失敗した場合に家族を養えるのかという不安から一度はオファーを断るが、再三に渡る国際電話でのオファーの果てに監督のヴァイスヴァイラー自ら奥寺を口説きに来日したため、日本サッカー協会に半ば強引に背中を押される形でドイツ行きを決意した。また、当時は試合ごとに欧州と日本を行き来する発想はなく、欧州移籍は即ち、その期間中は日本代表参加を諦める事を意味していた事も、本人にとっても周りにとっても欧州移籍の決断を渋らせた大きな要因であった。同年10月ドイツへ渡り、10月7日に1.FCケルンと契約を交わし正式に入団。12日にはブンデスリーガのベンチ入りを果たし、10月22日、対MSVデュースブルク戦で先発デビューを飾った。12月20日に行われたドイツカップ準々決勝、シュバルツバイス・エッセン戦で初ゴール(2得点)、ブンデスリーガでは1978年4月8日のカイザースラウテルン戦で初ゴールを記録。名将・ヴァイスヴァイラーの下で数々の活躍をみせ、1977-78シーズンのリーグ優勝とドイツカップ優勝の二冠に貢献した。優勝を決めた試合では途中出場ながら2ゴールを挙げた。翌1978-79シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは準決勝に進出し、イングランドのノッティンガム・フォレストと対戦。アウェーの第1戦において貴重な同点ゴールを決め3-3のドローに追いついたが、ホームの第2戦では0-1で破れ欧州制覇は成らなかった。1980年にヴァイスヴァイラーがアメリカ・NASLのニューヨーク・コスモスへ移籍すると、後任監督カールハインツ・ヘダゴットの構想外となり、ベンチからも外れる。出場機会を求めて1980-81年シーズンの後半にブンデスリーガ2部所属のヘルタ・ベルリンへ移籍した。1部昇格に挑んでいたヘルタは最終的に昇格を逃したが、そのシーズンにヘルタに競り勝ち1部昇格を決めたヴェルダー・ブレーメンのオットー・レーハーゲル監督に認められ、翌1981-82シーズンからブレーメンに移籍する。奥寺は左ウイングとしてブンデスリーガに渡ったが、レーハーゲルは守備的MFとしての奥寺の能力に注目した。守備の強さ、堅実なプレーに惹かれ、80年代なかばからヨーロッパの主流となった3-5-2システムの中で、奥寺は左ウイングバックという「天職」を与えられた。守備を行いながら、味方ボールとなると、ウイングそのものとなって攻撃の中核を担う。そうしたプレーはレーハーゲルをして「オク1人で他の選手の3人分の働きをしてくれる」と言わしめた。1982年、1部1年目のブレーメンは、5位という好成績を残し、翌83年にはハンブルガーSVに次ぎ2位、そして84年5位、85年、86年と連続して2位。優勝は経験できなかったが、奥寺は最もコンスタントな選手として監督に信頼され、ファンから愛された。ブンデスリーガには通算9年間在籍。63試合連続出場記録を樹立するなど、帰国するまでの9年間でブンデスリーガ通算235試合出場、25得点。この通算25点という記録は、2014年9月13日にマインツの岡崎慎司が通算ゴールを28点とするまで、ブンデスリーガにおける日本人選手の最多得点だった。1986年、「まだ自分の体が言うとおりに動くうちに」日本のサッカー界に持てる全てを伝えたいとして、日本に帰国し、古巣の古河電工に復帰した。帰国した奥寺は木村和司と共に日本国内初のスペシャル・ライセンス・プレーヤー契約を結び注目を集めた。また古河の一員としてはこの年にアジアクラブ選手権優勝。日本代表にも復帰し1987年のソウル五輪アジア最終予選進出に貢献した。最終的に中国との争いとなり、左サイドバックとして第1戦では相手エースを完璧に抑え1-0の勝利に貢献したが、ホームの第2戦では奥寺の逆サイドを守備の穴として狙われ、0-2で落としソウル五輪出場は叶わなかった。1987-88年シーズンを最後に現役を引退した。Jリーグ参入のため、古河電工からクラブチーム化された「東日本JR古河サッカークラブ」(ジェフ市原の前身となるクラブ)のゼネラルマネージャーに就任。1996年には監督に就任したが成績不振から1シーズン限りで退任した。1999年に横浜フリューゲルスのサポーター有志で結成された「横浜フリエスポーツクラブ」(横浜FC)のゼネラルマネージャーに就任、2000年からは代表取締役社長を兼任。2012年8月、日本サッカー殿堂入り。2014年11月、AFC初代殿堂入り。従来、日本人初のプロサッカー選手として紹介されてきたが、2000年代あたりから、1975年に香港の「」でプレーした佐田繁理(さだまさしの実弟)の方が日本人初のプロサッカー選手であるという紹介が一部メディアにより成される様になった。ただし佐田は正式なプロ契約では無かったという説を採るメディアもあり、その場合は奥寺が日本初となる。!colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算!colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算143||39||||||||||||234||26||||||33||4||267||3025||8||||||4||0||29||8402||73||||||||||||!rowspan="2"|通算!!colspan="2"|UEFA|-!通算
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