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凌雲閣

凌雲閣(りょううんかく)は、明治期から大正末期まで東京・浅草にあった12階建ての塔。大阪にも前年に建設された同名の9層の塔があった。名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味する。浅草凌雲閣は12階建てだったことから「浅草十二階」とも呼ばれた。関東大震災で半壊し、解体された。明治20年代に高所からの眺めを売り物にした望楼建築がブームとなり、1889年(明治22年)には大阪の和風庭園「有楽園」内に9層楼凌雲閣が、翌年には東京に浅草凌雲閣が建設された。浅草凌雲閣は、起案者は長岡の豪商であった福原庄七、基本設計者はウィリアム・K・バルトン(バートン)、土木工事監督は伊澤雄司であった 。また、凌雲閣株式会社が設立され、のちに社長として写真家で東京市会議員であった江崎礼二が就任した 。東京における高層建築物の先駆けとして建築され、日本初の電動式エレベーターが設置されたが、その設計にあたったのは当時東京電燈株式会社の技師で東芝の前身の一つとなる白熱舎(のちの東京電気)を創業した藤岡市助と考えられる。電話設備は宣伝を目的として沖牙太郎が担当した。完成当時は12階建ての建築物は珍しく、モダンで、歓楽街・浅草の顔でもあった。明治・大正期の『浅草六区名所絵はがき』には、しばしば大池越しの凌雲閣が写っており、リュミエールの短編映画にもその姿が登場する。展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができた。1890年の開業時には多数の人々で賑わったが、明治末期には客足が減り、経営難に陥った。1911年6月1日に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年にはエレベーターが再設されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しんだ。なお設計者のバルトンは設計時はエレベーターの施工は考慮しておらず、施工には反対したと後に親族は語っている。浅草十二階の下の一帯は銘酒屋街となっており、実際としては私娼窟と化していた。それで浅草で「十二階下の女」と言うと娼婦の隠語を意味した。1923年9月1日に発生した関東大震災により、建物の8階部分より上が崩壊。地震発生当時頂上展望台付近には12 - 3名の見物者がいたが、福助足袋の看板に引っかかり助かった1名を除き全員が崩壊に巻き込まれ即死した。なお、浅草寺の五重塔(木造33m。東京大空襲で焼失)は無傷であった。経営難から復旧が困難であったため、同年9月23日に陸軍工兵隊により爆破解体された。跡地は後に映画館の浅草東映劇場となるが、現在はパチンコ店になっている。凌雲閣解体後の1932年、浅草・雷門一丁目交差点に凌雲閣を模した「仁丹塔」という、森下仁丹の広告塔が完成、こちらもランドマークとして人々に親しまれていた。1942年に金属供出のため解体されたが戦後の1949年に再建。しかし、これも1986年7月10日に老朽化によって解体された。現在その跡地にはコンビニエンスストアのファミリーマートが立地しており、壁面に「仁丹塔跡」のプレートが設置されている()。2012年10月23日、凌雲閣南側の映画館跡に松竹およびマルハン主導で建設する再開発ビル「マルハン松竹六区タワー」の角部分について、凌雲閣を再現した構造とする計画であることが報じられた。ただし街並み整備地区計画による36メートルの高さ制限があるため、当時の高さよりは低くなる見込みである。浅草凌雲閣の登場する作品。浅草凌雲閣竣工の前年の1889年、大阪・北野茶屋町の遊園地「有楽園」内に、凌雲閣(9階建て・高さ39メートル)()が完成していた(檀重三から鷲尾宇兵衛へ譲渡)。「梅田東生涯学習ルーム体育館」(旧梅田東小学校跡地)の門前に、その碑が残る。そのまた前年の1888年に近隣に作られた眺望閣(遊園地「有宝地」()内の5階建て・高さ31メートルの六角柱状パノラマ式高塔で、日本で最初の西洋式高層建築ともいわれるが、1904年に解体)と共に、「キタの九階」「ミナミの五階」と呼ばれた。

出典:wikipedia

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