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前田光世

前田 光世(まえだ みつよ、男性、1878年12月18日 - 1941年11月28日)は、講道館黎明期の柔道家(7段)である。ブラジル帰化後の本名はコンデ・コマ(Conde Koma)。グレイシー一族に柔術を伝えた人物として知られる。青森県中津軽郡船沢村(現・弘前市)出身。1895年、青森県第一中学校(現・青森県立弘前高校)を中退して上京し、翌年早稲田中学(現・早稲田高校)に入学する。入学後は相撲や野球で名を馳せたが、東京専門学校(現・早稲田大学)に柔道場が新設されたことをきっかけに柔道を始め、1897年6月には講道館に入門し、柔道に打ち込む。入門してからは講道館四天王の1人である横山作次郎などに鍛えられ、めきめきと頭角をあらわし、昇段審査(初段)の時には嘉納治五郎講道館初代館長の命により前田のみ15人抜きを命ぜられる(見事これを達成)。またこの頃、東京専門学校に入学するも1904年に中退した。4段位にあった1904年11月、柔道使節の一員として渡米。滞在費稼ぎや柔道普及のために異種格闘技戦を断行、対戦相手を求めてアメリカ中を周りボクサーやプロレスラー、拳法家などと戦う。なおその頃に、自分の名前を栄世(ひでよ)から光世に改名している。ある日、親日家であったルーズベルト大統領の計らいでホワイトハウスにて試合を行うも、団長を務めていた講道館四天王の1人富田常次郎が、体重約160㎏の巨漢選手に敗れてしまう(これに関して前田は、「ルールの違いによって敗れた」「富田は苦戦の末引き分けた」など、資料によって記述の詳細が異なるため正確なところは判然としないが、いずれにせよ結果が芳しくないものであったことは確かなようである)。日本柔道の威厳を示すべく雪辱を誓った前田はアメリカに残り、1000ドルという賞金を餌に再びアメリカ全土を周り、挑戦してくるボクサーなどを片っ端から退ける。アトランタでは世界一の力持ちと恐れられたブッチャー・ボーイさえも破っている。その後はメキシコやヨーロッパなど世界各地で異種格闘技戦を行い、ブラジルに辿り着く。この間柔道衣着用の試合では1000勝以上し、終に無敗であった。なお興行試合に出たことで講道館を破門されたとの説が流布しているが、その記録は確認されていない。行き着いた最後の地はブラジルである。治安の悪いブラジルにガスタオン・グレイシーが移民としてやって来た。ガスタオンの子供の1人、カーロス・グレイシーはやんちゃだったため、ガスタオンは前田に「柔術で鍛えてくれ」と依頼した。前田は、柔道改め柔術と護身術を教えた。カーロスは末っ子のエリオと共に稽古に励んだ。エリオは直接前田に柔術を習った訳ではないが、前田の柔術を更に改良し、誰にでも使いこなせる術(すべ)として技術体系を完成させた。これが後の世に言われるグレイシー柔術である。エリオ・グレイシーもまた、前田と同じ様に自分の流派(グレイシー柔術)を広めるため後に異種格闘技戦を行い、柔道家の木村政彦とも闘う事となった。また、グレイシー家以外にもブラジルにおいて柔道を教えており、その勢力前田派はブラジル柔道創世期、四大派閥の1つであった。1930年、コンデ・コマを本名にしてブラジルに帰化した。フランス大使の娘と結婚する。1941年11月28日、入植先のアマゾンで死亡。最期に残した言葉は「柔道衣を持って来てくれ」であったという。死後、講道館より七段を贈呈され、また弘前公園には前田の功績をたたえた石碑が建てられている。墓はブラジル・パラー州の州都であるベレンにあり、リョート・マチダの父親町田嘉三(空手家)によって管理されている。死後70年近く経った今でも、史上最強の柔道家として前田光世を推す評論家は少なくない。小説家の夢枕獏が自著である「餓狼伝」のあとがきにおいて、とあるグレイシー柔術家(名前は伏せられていた)に「コンデ・コマは武術の奥義を海外に持ち出してしまったため、日本から来た武術家に暗殺されたと言われているが本当か?」と尋ねられた、というエピソードを紹介している。夢枕獏は前田光世の遺族にも取材をし、内臓病であることは分かっており、日本からブラジルに至る経緯からも、まずあり得ないと返答したとしている。

出典:wikipedia

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