上野 家成(うえの いえなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上杉氏の家臣。越後国の国人。魚沼郡妻有郷の節黒城主。家成の上野氏は清和源氏・新田氏里見流の後裔と伝わる。弘治2年(1556年)、下平修理亮と上田を巡る領地争いの最中、重臣本庄実乃が家成に、大熊朝秀が修理亮に加担する。家中の執政を掌る実乃と朝秀はライバル関係にあり、家臣団の派閥対立が激化、これらに加え国人層の離反や武田信玄との戦線膠着といった問題に嫌気のさした長尾景虎は春日山城を出奔してしまう(出家騒動)。この混乱に乗じ朝秀は信玄と内通し反乱を起こし、会津の蘆名盛氏もこれに呼応する。騒動の引き金となってしまった家成は庄田定賢らと共に出陣、朝秀を西頸城郡駒帰にて敗走させ面目を晴らす。元亀元年(1570年)に締結された越相同盟では、後北条氏との交渉役を河田重親らと共に務めた。天正6年(1578年)、謙信没後の御館の乱の際には上杉景勝側に味方し、上野国利根郡沼田城にあって守りを固めたと伝わる。慶長3年(1598年)、上杉景勝が豊臣秀吉の命で会津若松に移封された際は多くの将兵が越後を離れ会津に移ったが上野家成はそのまま越後にとどまった。慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方した上杉景勝は米沢に減封されたことに伴い、家成は越後を離れ米沢に移入した。
出典:wikipedia
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