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松型駆逐艦

松型駆逐艦(まつがたくちくかん)(書類上の分類は丁型駆逐艦)とは、太平洋戦争中日本海軍が昭和19年(1944年)より建造した戦時量産型駆逐艦である。神風型駆逐艦(初代)と並ぶ日本海軍最多の建造数(32隻)と最短の建造日数(約5ヶ月)を記録。そして最後に量産化された駆逐艦でもある。なお、橘以降の艦は、橘型/改松型/改丁型として区別されるが、日本海軍は書類上で松型と橘型を区別しておらず、正式類別は全隻『松型駆逐艦』のため、本稿にて取り扱う。日本海軍の駆逐艦は、高性能化を目指して大型化を続けた。秋月型駆逐艦に至っては大正時代の軽巡洋艦に匹敵する艦型となった。太平洋戦争勃発後、1942年(昭和17年)8月上旬以降のガダルカナル島をめぐる戦いにおいて、日本海軍は輸送作戦(東京急行)への投入や夜戦で多数の艦隊決戦における水雷戦用の艦隊型駆逐艦を失った。しかし、当時最新鋭の夕雲型駆逐艦や秋月型駆逐艦、建造中の丙型(島風型駆逐艦「島風」)は建造に手間がかかり、この損失を埋めるだけの隻数を建造することが不可能だった。個々の艦の性能を向上させても、米軍の数的優位と航空優勢の前では戦局を変えることができなかったのである。また、これらの駆逐艦は缶室(ボイラー室)と機械室のどちらかに浸水すると航行不能となるなどの防御上の欠点が実戦で明らかになった。そこで従来の大型駆逐艦指向を見直し、小型化によって数を揃えつつ、国内の資源や工作能力に見合った小型駆逐艦への方向転換がはかられた。補給・揚陸船団の護送のために兵装の重心を対空対潜に移し、防御上の改良を行ないつつ、構造を簡易化して生産を容易とした新たな駆逐艦を建造することとなった。これが松型(丁型)であり、構想自体は1942年(昭和17年)末頃に生じた。松型は、その全てが、本来二等駆逐艦(基準排水量1000トン以下)に付けられる樹木の名前が与えられ、その艦名と建造経緯から「雑木林」などと呼ばれた。「竹」に勤務していた大尉(航海長)によれば、航海機器や兵装は艦隊型駆逐艦の「雪風」よりも新しく、充実していたという。それまでの艦隊型駆逐艦に比較して、対艦兵装、最大速力とも抑えられているため、しばしば護衛駆逐艦又は護送駆逐艦と呼ばれるものの、松型駆逐艦は所謂護衛駆逐艦として計画・建造されたものではない。若竹型駆逐艦以前、日本は限られた予算の中で充分な量の駆逐艦を揃えるために、大型で高価な一等駆逐艦と小型で比較的安価な二等駆逐艦の二本立てのハイ・ロー・ミックスで整備していた。その後、戦略上のニーズにより、大型で航洋性に優れる一等駆逐艦のみが整備され、二等駆逐艦は建造されなくなる。松型は安価で艦隊型駆逐艦として使える最低限の性能をもった、本来の二等駆逐艦に近い性質の艦であるといえる。このためエンガノ岬沖海戦では小沢機動部隊の航空母艦4隻(瑞鶴《速力32ノット》、瑞鳳《速力28ノット》、千歳《速力28ノット》、千代田《速力28ノット》)と、航空戦艦2隻(伊勢《速力25ノット》、日向《速力25ノット》)を護衛して同海戦に参加したが、航続力不足と速度不足により艦隊運動が制限された。ケ号作戦が発動された1943年(昭和18年)2月頃、軍令部は改マル5計画にて建造を計画していた夕雲型8隻・秋月型23隻の建造計画を取り止めることを決定した。同時に、火力や雷装を減らして対空能力を強化し戦訓を採り入れ、輸送任務も行え、加えて急速建造が出来る中型駆逐艦の建造計画を立案。昭和18年度から建造を行い、昭和20年(1945年)末までに42隻建造を目標とする、改マル5計画第二次追加計画を決定した。これに先立つ2ヶ月前、海軍艦政本部は「基本計画番号『F55』仮称第5481号型艦」の基本設計計画を始めた。これが後の松型駆逐艦である。海軍艦政本部各課の協議により下記9案の設計案が作成され、検討が行われた。まずはAからC案が検討されたが船体が大きく量産に向かないとして却下され、次に航続距離と速力を忍んだDからF案が検討された。この際には長8cm連装高角砲が機構面の複雑さによる製造の難しさと補給面から却下され、主機械についても新型タービンの開発製造がないこと、秋月型タービンでは1軸となり主機械室が破壊された際に航行不能となることから、鴻型タービンを流用することとなった。最後にGからI案が検討され、H案が採用された。この後、抵抗軽減のために艦尾が1m延長されて水線長が98mとなり、雷装案の検討が複数回行われ、艦形が決定した。松型では急速建造を実現するために日本海軍艦艇の特徴である船体の曲線構造を止め、平面構成を多用した設計になった。駆逐艦としては低速のため、操艦性を重視して艦幅や喫水は全長に対して大きめに設計している。用兵側は、松型の運動性能について「操艦性能に富む」と評価した。艦体材料の鋼材も従来駆逐艦が採用していた特殊鋼(DS鋼/SD鋼)ではなく、高張力鋼(HT鋼)を上甲板に、普通鋼板を艦底に使用した。これらの材料は重量化するが調達が容易であり、大きな技術的問題を引き起こすこともなかった。船体の建造においても第四艦隊事件以降殆ど取り止められていた溶接を多用(技術的には大幅に改良されている)している。ビルジキールは箱型(従来)から平板型(松型)に変更、二重底構造もやめて単底方式となり、簡易化を進めた。従来の駆逐艦が採用していた主砲は「三年式 12.7cm(50口径)砲」であったが、本型は対空火器として使える「八九式 12.7cm(40口径)高角砲」を採用した。特筆すべきは従来は連装砲架のみであったが、松型駆逐艦専用に防盾付きの単装砲架が新設計されて艦首側に1基が配置されたことである。艦尾甲板上には連装砲架で1基の計3門搭載した。対空戦闘・対水上艦戦闘の双方に対応できるため、用兵側は好評価を与えている。また近接対空火力強化のために「九六式 25mm機銃」を12門以上備えることが要求され、本型には3連装4基、単装8基を搭載することとなった。なお、新造時の機銃兵装は後期艦ほど強化され、就役済みの艦にも単装機銃を中心に逐次増備されていった。松型は艦隊決戦における敵主力艦隊への水雷戦参加を想定されておらず、雷装は従来の駆逐艦に比して軽微なものとなっている。魚雷の搭載有無についても議論があった。設計案では61cm魚雷発射管を6連装1基又は4連装2基、もしくは53cm3連装又は6連装などが検討された。当初は「61cm4連装発射管1基では射線が不足する」と艦攻本部の主務者会議で意見が挙げられ、ほぼ同重量である53cm6連装発射管1基と決定された。これは後に軍令部の主要目要求にも採用されたが、1番艦である「松」が完成直前になって前線司令部から、ソロモン海域での戦訓として「魚雷戦を行うには53cmは威力不足である」という異議申し立てが行われた。これにより、最終的には九二式61cm4連装発射管1基が搭載されることとなった。松型は、従来の艦と同じ九三式聴音機と九三式探信儀であった。松型の機関については、上記にあるように機関の製造能力、抗堪性を重視、さらに量産性(生産能力)を考慮して鴻型水雷艇の機関を流用した2基2軸とした。また、速力と航続力を抑えたH案で決定した。その機関配置についても在来の日本艦艇とは異なったものとなっている。通常、日本海軍の艦船の機関配置は、艦首側から見て「ボイラー・タービン・減速機」と言うのが標準的な配置である。しかし本艦は国産化された艦では初めて「シフト配置方式」を採用している。これは、機関室を前後2室に分け、前室に左舷用「発電機+ボイラー+タービン+減速機」(第一罐室前部機械室)、後室に右舷用「発電機+ボイラー+タービン+減速機」(第二罐室後部機械室)と交互に配置する形式となり、このために細身の2本煙突は前後に離れているのが外観上の特徴である。従来の機関配置ならば機関区の前後長を抑えられて船体の大きさを抑える事ができる代わりに、どこかに一か所にトラブルや被害を受けると全てがやられて航行不能になる可能性が高いのに対し、本形式ならば建造の手間はかかるが、右舷側もしくは左舷側の機関が破壊されても残りの機関で航行が可能で、艦の生存性が高められる例として多号作戦に従事していた松型2隻(竹、桐)においてそれぞれ機械室被弾も片舷の軸系が生き残り、航行不能とならずに済んだ戦訓があった。この機関配置の方式はすでにフランスやアメリカなどで駆逐艦から戦艦に至るまで広く採用されており、フランス・アメリカ海軍艦艇の強靭さの一因であった。なお前部機械室(左舷用)からスクリュー(艦尾)までプロペラシャフトが延びているため、後部機械室(右舷用)は艦中央線から右にずれており、したがって後部煙突も中心線から右にずれている。巡航タービンは前部機械室に置かれていた。駆逐艦として最大発揮速力27-28ノットは不足気味であり、最前線では本型の速力増大を求めている。日本の駆逐艦は普通内火艇とカッターを搭載する。だがガダルカナル島戦頃より朝潮型駆逐艦や陽炎型駆逐艦の一部は改造工事を受け、十三米特型運貨物船(中型発動艇)を搭載可能となった。本型艦は陸上部隊への物資輸送のため、設計段階から「小発」と呼ばれる一種の上陸用舟艇を2隻搭載可能となった。「航空母艦」を除いて戦闘艦が設計段階からそのような艇を搭載することはなく、輸送任務も考慮した本艦の特徴的な装備である。仮称第5491号艦(八重桜)からは基本計画番号をF55Bと改め(それまではF55)、下記のような工事の簡易化を進めた。これらの設計変更の結果、最短約5ヶ月(「榧」「楢」など)という、当時の日本としては極めてハイスピードでの建造が可能となった。この経験は後に、海防艦を経て現在の日本の造船技術を支える近代工法の確立につながった。なお、本型は従来日本海軍が採用してきたダブルカーブドの艦首ではなく、簡易廉価な直線を組み合わせた艦首形状を採用したが、速力への影響はあまり無かった。艤装に関しては22号電探は前マスト中段に搭載するように変更された。13号電探は後マストに竣工時から搭載された。また四式水中聴音機(ソナー)を装備、このため艦首の艦底に直径3 m の平らな面が設けられた。速力は松型の27.8ノットから橘型27.3ノットに低下した。ソナー関係では、新型の四式聴音機と三式探信儀を搭載した。しかし、大戦末期の日本の電子機器の性能にはムラがあり、聴音機はともかく探信儀の方は評価が低かったと言われる。前述の通りこれらの変更は「八重桜」から実施されたが、工事の都合で「橘」が1番に竣工、「八重桜」は後に工事中止となった。このためF55Bの艦は「橘型」と呼ばれている。または「改松型」「松型改」「改丁型」などとも呼称される。1945年(昭和20年)4月になり、海軍の作戦は特攻作戦へと切り替わっていった。これを受け第31戦隊に所属していた松型駆逐艦は同じく第31戦隊所属の秋月型駆逐艦の他、軽巡洋艦「北上」、駆逐艦「波風」などと共に5月20日付けで海上挺進部隊を編成した。松型駆逐艦は艦尾に特攻兵器である回天を1基搭載し、連合国軍の本土上陸作戦に際しては接近した上陸部隊に対し回天で攻撃を行い、次いで魚雷による夜戦を行う計画だった。第41駆逐隊所属の「竹」「槇」「桐」「榧」「蔦」「椎」と第52駆逐隊所属の「杉」「樫」「楓」「楡」「梨」「萩」の各艦は6月以降に呉海軍工廠で工事が行われたようである。この頃の正確な工事記録が残っておらず、どの艦にいつ工事が行われたか判っていない。戦後撮影された写真を見ると10隻前後に工事が行われている。これらのうち「梨」は1954年(昭和29年)に浮揚作業が行われたが、その写真に回天用の架台が写っている。また『艦艇引渡し調書』には「椎」「榧」「樺」に回天搭載設備の記録が残っている。重油燃料が逼迫していたので訓練回数は多くなかった。また7月以降は戦力温存のために「竹」「榧」「槇」「桐」「蔦」の各艦は山口県屋代島に擬装、隠蔽して繋留された。それから1ヶ月余りで終戦となったため、他の艦も含め実戦での使用はなかった。回天搭載艦に改造された「樺」の場合、全長104m。重油燃料タンクは340トン、航続距離は18ノットで2500浬となっている。1944年(昭和19年)4月28日、1番艦である「松」が竣工、以降松型駆逐艦は順次竣工していった。各艦は竣工とともに第十一水雷戦隊に編入されて訓練を実施している。同年7月15日附で松型4隻(松、竹、梅、桃)による第43駆逐隊が編制され、数日後に第三十一戦隊に編入された。各艦はそれぞれ輸送作戦に参加したが、8月4日には小笠原方面への輸送作戦に従事していた「松」が失われた(スカベンジャー作戦)。10月下旬のレイテ沖海戦では松型駆逐艦は4隻(桑、槇、桐、杉)が、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将が率いる空母部隊(第三航空戦隊《瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田》、第四航空戦隊《日向、伊勢》、軽巡洋艦3隻《大淀、五十鈴、多摩》、秋月型駆逐艦《初月、秋月、若月、霜月》)と共に参加した。10月25日の空襲で「槇」が被弾して小破、「桑」も至近弾で損傷した。なお、松型2隻(桐、杉)の2隻は前日に本隊からはぐれ、燃料不足となり台湾に後退している。その際空襲により「桐」が至近弾で損傷している。レイテ沖海戦で敗北した日本軍であったがその後もレイテ島に対して増援部隊を送り続けた。この輸送作戦を多号作戦と呼ぶ。松型駆逐艦も第3次作戦から「竹」が投入されたが、この時は中途で先行していた第4次船団との護衛艦交代という形でマニラに引き返している。本格的に参加を始めた第5次作戦でも「竹」が続けて投入されており、11月24日輸送艦3隻とマニラを出撃するが、途中空襲により輸送艦2隻(6号、10号)が撃沈され、残り1隻(9号輸送艦)と「竹」も損傷したためマニラに引き返している。第7次作戦では松型2隻(桑、竹)が参加した。桑駆逐艦長指揮下の2隻は輸送艦3隻を護衛して11月30日マニラを出撃。レイテ島オルモック湾に無事到着して揚陸作業中に米駆逐艦3隻と戦闘になった。この戦闘で「桑」は撃沈されたが「竹」は雷撃で米駆逐艦「クーパー」を撃沈した。この時も丁型の機関配置が「竹」を行動不能から救った。第8次作戦には松型3隻(梅、桃、杉)が参加した。3隻は駆潜艇2隻と共に船団を護衛して12月5日マニラを出撃した。7日、レイテ東北西部のサンイシドロで揚陸中に空襲を受け2隻(梅、杉)は損傷した。なお、「桃」は12月14日マニラ湾で空襲を受けて損傷、台湾へ後退中15日米潜水艦に雷撃され撃沈されている。第9次作戦では「桐」が睦月型駆逐艦2隻(夕月、卯月)、輸送船3隻、輸送艦2隻(第140号、第159号)、駆潜艇2隻(17号、37号)と共に参加した。12月9日、船団を護衛してマニラを出撃。途中空襲により輸送船2隻が被弾航行不能となった。部隊を率いていた沢村成二大佐(第30駆逐隊司令)は部隊を2つにわけ、「桐」は駆逐艦「夕月」、輸送艦2隻とオルモック湾へ向かった。揚陸中2隻の駆逐艦は攻撃してきた米駆逐艦と交戦した。帰投中「桐」は空襲で至近弾を受け損傷したが、この時も丁型の機関配置が「桐」を救った。またこの空襲で「夕月」は航行不能となり「桐」の砲撃により処分された。日本軍は第10次作戦も計画していたがアメリカ軍のミンドロ島侵攻により中止となった。12月9日、駆逐艦3隻(松型《槇》、秋月型駆逐艦《冬月、涼月》)は日本本土へ帰投中の軍艦2隻(戦艦《榛名》、空母《隼鷹》)を護衛していたが、「槇」と「隼鷹」が被雷損傷した。12月15日、アメリカ軍はミンドロ島付近に上陸した。日本軍(南西方面艦隊)は上陸部隊の撃破を目指して艦隊を出撃させた。この作戦は礼号作戦と呼ばれ、参加部隊は第二水雷戦隊司令官木村昌福少将指揮下の第二水雷戦隊(霞、朝霜、清霜)、重巡洋艦「足柄」、軽巡洋艦「大淀」などであった。松型駆逐艦も3隻(榧、杉、樫)の3隻が参加した。部隊は12月24日カムラン湾を出撃、途中で駆逐艦「清霜」を失い、各艦(足柄、大淀、榧、杉)に被害があったが、作戦は一応成功した。1945年(昭和20年)1月4日、サンジャックから「生田川丸」を護衛してきた第52駆逐隊(檜、樅)はマニラに入港。翌日、2隻はマニラ沖で空襲を受けて「樅」は沈没、「檜」も航行不能となった。応急修理後マニラに戻ることができた「檜」であったが7日再度マニラを出港後米駆逐艦4隻の攻撃により撃沈された(52駆逐隊司令戦死)。1月31日にはフィリピンの搭乗員救出のため出撃した駆逐艦3隻(汐風、梅、楓)が台湾南方で空襲を受けて3隻とも損傷。「梅」は航行不能となり「汐風」の砲撃で処分され残る2隻は高雄へ引き返した。4月の戦艦「大和」以下の沖縄への出撃の際には「榧」、「槇」が駆逐艦「花月」(第三十一戦隊旗艦)と共に途中まで同行した。その後は出撃する機会もなく本土周辺で行動していた松型駆逐艦だが機雷や空襲により被害が続出した。5月25日「櫻」が下関沖で触雷、7月11日紀淡海峡近くで再度触雷沈没した。6月5日には「椎」が豊後水道で触雷。6月26日には「榎」が小浜灯台付近で触雷、大破着底した。また6月30日には「楢」が下関沖で触雷した。「楡」は6月22日瀬戸内海で空襲により中破した。7月14日には「橘」が函館港内で空襲により被爆沈没。「柳」も津軽海峡で被弾、大破した。さらに24日には3隻(樺、萩、椿)は瀬戸内海で空襲により損傷。28日には「梨」が被弾沈没した。終戦時には18隻が航行可能状態で残存していた(32隻建造、9隻沈没、5隻航行不能)。それらは戦後復員輸送に使われ、その後各国に戦時賠償艦(戦利艦)として引き渡された。中国やソ連は引き渡された艦を自国の海軍に編入して使用した。また、未成艦の一部は防波堤として使われた。沈没した橘型の一隻「梨」は、引き上げられた後、海上自衛隊の護衛艦「わかば」として再就役した。日本海軍の駆逐艦で、海上自衛隊に引き継がれたのは本艦のみである。名称を変更したのは既に除籍された艦名であることと、平仮名の「なし」では「無し」と誤解を与えるため。括弧内は建造所。舞鶴 = 舞鶴海軍工廠、横須賀 = 横須賀海軍工廠、藤永田 = 藤永田造船所、川崎神戸 = 川崎重工業神戸工場(艦船工場)。1944年(昭和19年)7月15日、松型駆逐艦で編制された最初の駆逐隊。錬成を目的とする第十一水雷戦隊と船団護衛を主任務とする第三十一戦隊に所属したが、編制直後に「松」が沈没。続いて戦局の悪化によりレイテ沖海戦や多号作戦など、最前線に投入された。所属駆逐艦の一覧は、松、竹、梅、桃、槙、桐、榧、蔦、椎。3隻(松、桃、梅)が沈没。第43駆逐隊に続き、松型駆逐艦で編制された駆逐隊。1944年(昭和19年)11月15日に編成され、第十一水雷戦隊や第三十一戦隊に所属。戦局の悪化と共に第三十一戦隊各艦と共に最前線に投入され、多号作戦、礼号作戦等に参加した。所属した駆逐艦の一覧は、桑、檜、杉、樫、楓、楡、梨、萩、樺。沈没艦は3隻(桑、樅、檜)。1943年(昭和18年)末になると丁型をベースとして第一号型輸送艦(一等輸送艦)が計画された。設計には船体の前半部分が流用されている。

出典:wikipedia

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